第3章 超越性を調べるための描画コミュニケーション実験
3.2 実験方法
本研究ではFayら(2003)で用いられている描画コミュニケーションのパラ ダイムを採用する.描画コミュニケーションとは,与えられた課題が何である かを送り手が描画で受け手に伝えるコミュニケーションである.ここで用いる 描画は,対象の形状を描くことでその対象を指し示す記号として用いることが
できるという点において,最初から類像的(iconic)な記号システムとして機能 しうるメディアである.特に,特定の形状を持つような名詞は,対象の輪郭を 描くことで比較的容易に伝えることができる.逆に,特定の形状を持たないよ うな,形容詞や副詞などの対象の性質を伝えるためには,輪郭を描く以外の何 らかの表現方法を送り手が模索する必要があると予想される.描画を用いたコ ミュニケーションを行うことで,初期の類像的な記号システムから,やりとり を経てどのような変化が起きるかを観察できる実験枠組みとなっている.
3.2.1 実験環境
実験は参加者2人でペアになって行われる.実験中に参加者同士の直接的な やりとり(会話やアイコンタクトなど)ができないようにするため,2人は別々 の部屋(実験室1および2)で課題に取り組む.実験システムはタブレット端 末2台,ノートパソコン3台で構成される(図3.1).
図3.1 実験システム
ノートパソコンのうち実験者が操作する1台はサーバーとして機能し,参加者 らはタブレット端末を用いてサーバーを介してのみ相手とやりとりを行う.ほ か2台のパソコンはそれぞれ実験の進行を指示する実験者との通話および,参 加者らの発言内容の録音に使用される.タブレット端末2台はそれぞれ描画と
返答に用いられる.
図3.2 タブレット端末の描画用画面(左図)と返答用画面(右図)
タブレット端末の描画用画面では,表面を指でなぞることで絵を描くことがで きる(図 3.2 左図).絵を描き終わったら画面にある Save ボタンを押すことで 描いた絵が保存され,保存された絵はサーバーを介してもう一台のタブレット 端末の返答用画面に表示される.返答用画面では相手が直前に描いた絵だけを 見ることができる(図 3.2 右図).5 章で述べるろう者を対象とした実験では2 台のビデオカメラを使用し,手話による実験後のアンケートへの回答を録画し た.
3.2.2 実験手順
この実験枠組みに基づき,送り手と受け手の 2 人で行う描画コミュニケーシ ョン実験を構築した.実験の手順は次のとおりである.
1. 送り手は実験者から与えられた描画課題を白黒の線画で表現する(制限時間 2分間).描画課題は形容詞1語と名詞1語の組み合わせである.
2. 受け手は送り手が描いた線画を見て,それが何を表すものかを形容詞と名詞 の組み合わせで返答する(制限時間1分間).
3. 受け手の返答を送り手にフィードバックし,送り手は返答をもとに,再び同 じ描画課題を線画で表現する.
描画課題1題につき,これらのやりとりを8回繰り返す(図3.3).
この実験は,仮説2の相互仮説形成過程を観察するため,多くの場合,最初 から正解が出ることはないように設計されている.送り手と受け手は互いに推
論を繰り返す中で,相手に描画課題を伝えるための表現とそれが表す対象への 理解を次第に形成していく.送り手は受け手からの返答というフィードバック と自身が過去に描いた絵を考慮することで,受け手の推論をより正しい方向へ 導くように表現を工夫することができる.受け手は送り手の描画と自身が過去 に行った返答を考慮に入れることで,自身の理解をよりもっともらしい方向へ 修正することが可能である.
4 章で述べる日本語母語話者を対象とした実験ではやりとりの履歴を詳細に 分析するために,送り手と受け手が課題中に考えている内容を声に出して発言 してもらい(発話思考),その音声を録音したものを分析に用いた. 5章で述べ るろう者を対象とした実験では,日本手話で描画・返答後のアンケートへ回答 してもらい,その様子を撮影したビデオの内容をろうの実験協力者が見て日本 語の文章に訳したものを分析に用いた.