1.研究の目的と方法
虐待に関する知識は、保育・教育に携わる専門家だけでなく、将来的に虐待に関わる専門家となり える学生も得る必要がある。しかし、こうした専門家を養成する専門学校・短期大学・4年制大学に おける虐待の知識の教授は十分とはいえない。例えば、就学前児が虐待件数の5割弱を占めること
(厚生労働省, 2006)や、虐待によって死亡した事例の7割が3歳児以下であること(谷村, 2004)か ら、日常的に乳幼児とかかわりを持つ保育士や幼稚園教諭(以下、これらをまとめて保育者)は虐待 に関わる専門家の一人と考えられる。また保育所保育指針(厚生省, 1999)でも、虐待の疑いのある 子どもの早期発見、子どもとその家族に対する対応は重要な保育活動とされ、保育所と関係機関(嘱 託医、児童相談所等)との連携の必要性が記されていることから、保育者は重要な役割を担っている といえる。
しかし、保育科学生(調査数=613)の持つ虐待に関する知識を調査した千葉・鑑・渡辺(2004)は、
虐待の4類型(身体的虐待・性的虐待・ネグレクト・心理的虐待)やその内容に関する正確な知識を 持つ学生は1割に満たないこと、虐待発見の際の通告義務を知っている学生は約8割いる一方で、通 告先の機関を知らない学生が約7割いることを示している。さらに、これらの学生の4−5割が教科書 から虐待の知識を得ていることも示されている。そのため保育者養成校における基礎科目の1つであ る発達心理学の教科書において、虐待の記述がいつ頃から記載されているか、またその記述がどのよ うな内容であるか等を分析することで、学生が得やすい知識・得にくい知識を明らかにすることがで きると考える。これは、将来的に虐待に関わる専門家となりえる学生に対して、虐待に関する講義を どのように行っていくかを考える材料ともなるだろう。
本研究では、まず1970−80年代の教科書の分析を、その後の本調査では1990年代から現在に至るま での教科書の分析を行った。なお、1970年代、1980年代に初版が出版(または改訂)された発達心理 学(乳幼児心理学、幼児心理学、児童心理学を含む)の教科書38冊(70年代15冊、80年代23冊)、お よび1990−2006年までに初版が出版された主な発達心理学の教科書106冊を研究の対象とした。
2.1970年代・1980年代の教科書の分析
1970年代・1980年代の教科書では「ホスピタリズム」「しつけ」「愛着」などに関するキーワード・
記述は見られるものの、虐待に関するキーワード・記述は、1冊を除き、他では見られなかった。唯 一、虐待に関するキーワード・記述が見られた1冊は、1989年に出版された内田伸子著の「幼児心理 学への招待−子どもの世界づくり−」(サイエンス社)であった。キーワードは「社会的隔離」とい う直接虐待を示すようなものではなかったが、「2.人間発達の可逆性−人間の発達と初期環境−」
という章全体を使い、虐待に関する記述がなされていた。その中での中心的な記述内容は、藤永他
(1987)によって報告された事例(劣悪な生育環境にあった姉弟二人が救出され、その後およそ20年 にわたり専門家による援助チームが関わった。この事例についての詳細については第1報で報告して
いる)についてであった。
本研究で検討した中では、この内田伸子の著書が発達心理学教科書の中で最初に虐待を記述した教 科書だと考えられる。しかしながら、この教科書では藤永他(1987)の事例を 虐待 というよりも、
発達の可逆性 を示す事例として扱っている。第1報・第2報で報告されているように、80年代で は、このようなネグレクトに関連する用語や概念が混乱しており、専門家の間でも十分に認識されて いなかった。そのような時代背景が、この教科書における藤永他(1987)の位置付けにも表れている と考えられる。
3.1990年以降の教科書の分析
第3報では、1990年代に出版された虐待に関連する書籍の概観が行われており、和書、訳書ともに 70年代、80年代と比較すると多くの書籍が出版されている。このことから、日本における虐待をとり まく状況が1990年代から大きく変化したことが示された。
本調査では1990年以降の教科書に関しては、キーワード・記述箇所・記述内容の時代に伴う変化を みるために、我が国が「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」を批准した1994年、「児童虐 待の防止等に関する法律(児童虐待防止法)」が制定された2000年を区切りとし、3つの年代
(1990−1994年、1995−2000年、2001年以降)に分割して分析を行った。各年代の教科書数は、90−
94年で26冊、95−00年で36冊、01年以降で44冊となった(注)。
(1)虐待の記述の有無
年代別の虐待に関する記述の有無を表8に示す。虐待に関する記述は106冊中47冊(44.3%)で見ら れ、1990年以降、3−4割程度の教科書で記述がなされていた。
(2)キーワードの分析
対象の教科書の索引から抽出された虐待に関するキーワードを表9に示す。本研究では、使用され るキーワードの時代に伴う変化を検討するために、これらのキーワードを6つのカテゴリーに分類し た。その6つのカテゴリーは、子どもの虐待を直接的に示すキーワードを含む「虐待」カテゴリー、
身体的虐待などの虐待の種類を示すキーワードを含む「虐待の種類」カテゴリー、虐待を扱う法律・
制度・機関等に関するキーワードを含む「法制・機関」カテゴリー、世代間連鎖に関するキーワード
(注)文献調査は次のような手順で行った。はじめに巻末索引欄の中から虐待に関連するキーワードを抽出した。次に、
目次欄・索引欄などから虐待の記述があると考えられた全ての箇所を実際に読み、虐待の記述の有無を判断した。
さらに、虐待に関する記述が認められた教科書に関して、その記述箇所(章、節のタイトル)、及び記述内容を 記録し、キーワード・記述箇所・記述内容についてのカテゴリーの分類を行った(それぞれ表9、表12、表14)。 分類の際には、あるカテゴリーに分類されるキーワード・記述箇所・記述内容があった場合、その頻度に関係な く、あるカテゴリーに関する記述があることとした。カテゴリーの分類は発達心理学を専攻する大学院生2名に より行われた。キーワード・記述箇所に関するカテゴリー分類は2名の話し合いにより行われ、記述内容のカテ ゴリー分類のみ各自が全項目を独自で判断した(2名の一致率は98.3%)。なお、一致していなかった箇所につい てはその後2名の協議の上で決定された。
を含む「世代間連鎖」カテゴリー、虐待を受けた子ども・経験やbattered child syndromeに関するキ ーワードを含む「被虐待による診断名」カテゴリー、高齢者虐待などの子ども以外の虐待や前述のカ テゴリーに含まれないキーワードを含む「その他」カテゴリーである。なお、内田伸子著の教科書で 見られた「社会的隔離児」というキーワードは106冊中4冊(95−00年=3冊、01年以降=1冊)で見 られたが、ここでは直接的に虐待を示す単語ではないと判断し、分析から除外した。
まず各教科書における虐待に関するキーワードの有無を検討した(表10)。虐待に関するキーワー ドは、106冊中39冊(36.8%)で見られた。年代別に見ると、キーワードの出現率は90−94年と95−00 年のいずれにおいても3割程度であるのに対し、01年以降では5割以上であった。児童虐待防止法制 定後に、虐待に関するキーワードが多く見られるようになってきたようである。
次にキーワードの内容に関して、年代別の各カテゴリーの頻度と割合を表11に示す。「虐待」に分 類されるキーワードは全体的に多く使用されており、年代別にも同様の傾向が見られた。「虐待の種 類」「法制・機関」「世代間連鎖」に分類されるキーワードは、それぞれ90−94年では見られなかった が、95−00年では1割程度、01年以降では2割弱見られ、徐々に使用されることが多くなってきてい た。「被虐待の診断名」に分類されるキーワードは、全体的には1割に満たない出現率であるが、
1990年から現代に渡り一貫して使用されていた。
(3)記述箇所の分析
教科書の中で虐待がどのような位置付けで論じられているかを検討した。まず本研究では、虐待が 記述されている章・節を8つのカテゴリーに分類した(表12)。年代別の各カテゴリーの頻度と割合 を表13に示す。全体的に、虐待は「親子・家族関係」や「様々な領域での発達」に関する章・節で論 じられることが多く、年代別にも同様の傾向が見られた。
また、01年以降に虐待を明示した章・節(「虐待」カテゴリー)や臨床的な問題を扱う章・節(「臨 床」カテゴリー)において虐待が論じられることが多くなっている。このことから、近年において虐 待が大きなトピックの1つとなってきていることがうかがえる。
さらに、虐待は「発達の可逆性」に関する章・節の中で論じられることもあり、特に90−94年では
「発達の可逆性」といった章・節で論じられることが多かった。これらの教科書では、藤永他(1987)
の事例を中心的に取り上げており、1989年に出版された内田伸子著の教科書の影響がうかがえる。
(4)記述内容の分析
虐待の記述の内容に関して分析を行った。まず本研究では、虐待の記述を大きく7つのカテゴリー に分類した(表14)。7つのカテゴリーは、身体的虐待などの虐待の定義(内容)に関する記述を含 む「虐待の定義」、虐待報告数などの記述を含む「虐待の現状」、虐待の発見や虐待の予防、その後の 支援などの記述を含む「虐待への対応」、虐待に関する法制や機関などの記述を含む「虐待に関する 法制・機関」、虐待の原因に関する記述を含む「虐待の発生因」、虐待が子どもの発達に及ぼす影響に 関する記述を含む「発達に及ぼす影響」、事例や上記のカテゴリーに含まれない記述を含む「その他」