わが国では従来から各種用途に用いられる用紙として美濃判と菊判があ り、この原紙による判型、四六判、菊判が現在でも書籍雑誌に用いられてい る123。しかし、A・Bの二系列にもとづく各種用紙と書籍雑誌の判型のはじ
まりは、工業品規格統一調査会の審議に溯る。あらかじめ、調査会の経緯を 見ておこう。
1919(大正8)年6月、政府におかれた「度量衡および工業品規格統一調査 会」は、度量衡をメートル法に統一することを答申し、また、工業品の規格 統一の調査は広範にわたるため、常設の機関でその調査にあたるべきことを 答申した。これを受けて、1921(大正10年)年4月、農商務省工業局に工業 品規格統一調査会が設置された124。工業品規格統一調査会は四部制をとり、
あわせて58の委員会をおいて、緩急に応じて調査が進められた125。「日本標 準規格」(旧JES)第1号と第2号は、翌年、1922年10月19日に決定された。こ れらの規格は、1925年3月5日に商工省告示となった126。調査会が商工大臣の 監督のもとにおかれることになった127ためであろう。同年4月1日、農商務省 が分割されて商工省が設置された。商工省は商務、工業、鉱山の三局体制と なった。調査会の事務はその工業局が扱うことになった128。
蔵相を井上準之助として1929年7月に発足した浜口雄幸内閣は、1927年の 金融恐慌以来の深刻な経済を再建しようとした。金解禁政策はその柱であっ た。1929年10月のウォール街の株価暴落のあと、1930年1月に実施された金 解禁は混乱をもたらすが、輸出の振興、産業の合理化もまた緊急を要する方 策であった。
1930年6月、商工省に貿易局が加わるとともに、商工大臣管轄の下に臨時 産業合理局が設置された129。合理局長官となった商工大臣がいうように、「此 の世界的不況と国際的経済競争の巷に立つて、金解禁直後我経済界建直しの 方策としては、世間種々の議論もあるが、産業合理化と国産愛用の二大政策 に依り、国内産業を振興するを以て最も重要且つ適切」とするものであっ た130。工業品規格統一調査会はこの臨時産業合理局の第二部にうつった131。 工業品の規格統一は産業合理化の基礎であった132。同局は産業合理化運動を 促進する方策のひとつとして、日本商工会議所に補助金を交付し、日本商工 会議所は同年1930年12月から『産業合理化』を刊行して産業合理化行政の経 過を伝えるほか、各地で講演会や講習会を開催することになった133。 翌1931年、9月21日、閣議は「九月十八日夜支那兵ノ満鉄爆破ニ因リ生起 シタル今回ノ事件ハ之ヲ事変ト看做ス」と決定した134。すなわち、満州事変
である。
『産業合理化』は1936年3月の第20輯で終刊となった。臨時産業合理局の役 割は終わろうとしていた。6月、仮称「産業統制局」設置案について新聞は いう。
もともと合理局は昭和五年浜口内閣当時俵商相の下において当時の産業 合理化運動の指導機関として設置され、当時危機に瀕してゐたわが産業 界の建直しを主眼に活動を続けて来たが、今日においてはすでにその使命 は達成の観があり、むしろ産業界の情勢激発すなはち統制主義強化の現象 はやうやく機構の改革断行を痛感せしむるに至つたものである135[。]
1937年5月1日、商工省の改組によって「統制局」が設置され、臨時産業合 理局は廃止された。統制局は「重要ナル産業統制及産業合理化ニ関スル事務 ヲ掌ル」こととされた136。工業品規格統一調査会は統制局の合理課におかれ た137。『新領土』が創刊された同じ月のことである。
この年、新たに日支事変の勃発し、以降、日本標準規格の役割が重要になっ た。日本標準規格と併行して、規格の内容及び制定手続を簡略化した、いわ ゆる戦争規格、「臨時日本標準規格」(臨JES)」の制定がはじまったのが、
1939年である138。
1939年11月29日の『週報』、商工省が「臨時日本標準規格の話 規格統一 は何故必要か」というところによれば、工業品規格統一調査会は、1921年の 設置以来官民各方面の技術者を委員として各種工業製品の日本標準規格を制 定し、政府が率先してその購入に適用し、民間にもその資料を推奨して規格 統一の実践を図っており、これまでに決定された標準規格は四百余種に及び、
「今次事変の軍需資材にこれを適用してその整備上多大の効果を挙げてゐ る139」のであった。
規格統一は平時に於ては生産者、販売者及び需要者の利便を増し、ま た輸出増進の上にも緊要なものであるが、戦時に於ける効果は一層大き
く、工業動員を行つて大量の軍需資材を全国の工場から蒐集する場合に は規格が統一されて居れば、材料や製造設備の流用率を増し分業作業を 容易にし、従つて生産能率を増し製造期間を短縮することができる。ま た一般民需品が国定の規格によつて造られて居れば、直ちにこれを徴用 することにより軍需資材の供給を迅速ならしめることができて非常に便 利である(27)。
しかし、「事変はいよいよ長期態勢を呈し、交戦地域も非常に拡大したの で長期に亙り莫大な軍需資材の必要が起り、これを充足した上さらに日満支 を通ずる生産力拡充用資材を賄ひ、また一般民需品についても国民生活の安 定に必要な程度の供給を行ふことが必要になつた」(29)。「生産の合理化を 図り、生産能率を増進し」また「物資の節約」のために「物資や労力の無駄 を省くところの日本標準規格を迅速に制定」することが緊急となる。ところ が、「正規の日本標準規格は調査及び発表手続に長時日を要し、工業品の種 類によつては、例へば基礎的なもの等にはこれによる必要があるが、現下要 求されるやうな一般的なもので、迅速に規格の制定実施を要するものには適 しない」ので、「工業規格統一調査会の事業を拡張し、従来の正規の日本標 準規格を制定すると共に、臨時日本標準規格をも制定」することになったの である(29-30)。
1941年5月27日、近衛内閣は「科学技術新体制確立要綱140」を閣議で決定 した。12月26日、新しい内閣総理大臣東条英機が上奏した「技術院官制141」は、
第一条にいう。
技術院ハ内閣総理大臣ノ管理ニ属シ科学技術ニ関スル国家総力ヲ綜合発 揮セシメ科学技術ノ刷新向上就中航空ニ関スル科学技術ノ躍進ヲ図ルヲ 以テ目的トス
内閣直属の「技術院」は、翌1942年、1月31日に発足した。商工省総務局 におかれた工業品規格統一の事務、逓信省航空局第二部が所管していた航空 機、同材料の規格に関する事務は技術院に統合され、商工省の工業品規格統
一調査会と科学審議会は技術院の管轄に移され、この他にも漸次技術官庁が 技術院に統合されることになった142。4月1日、商工省の外局であった特許庁 も技術院に移管された143。この年、12月に日本出版文化協会の「活字規格統 制委員会」がまとめた「活字規格統一試案」は、この技術院に移った工業品 規格統一調査会に提出されたのである。
1921年に発足した工業品規格統一調査会の審議によって、1941年4月まで に520件の日本標準規格が制定された。他方、1939年以降終戦にいたるまで、
事変の拡大及び第二次世界大戦の勃発に即応して、主に軍需品のために規格 の内容及び制定手続を簡略化した、「臨時日本標準規格」(臨JES)931件が制 定された。なお、このほか「航空機製造事業法」に基づいて、660件の「日 本航空機規格」が制定された144。航空機製造事業法は、事変勃発の翌年1938 年8月30日、「帝国内外の情勢は航空機製造能力の拡充確保を以て急務と為す の事実に鑑み145」制定され、公布・施行されたものである。
「紙」の規格統一に関わる審議は、工業品規格統一調査会の「金属以外の 材料」を担当する第二部におかれた第十委員会が行うことになった146。 紙の規格統一の審議にあたって、出版業者の意見も求められた。委員会は 1927年11月、製紙連合会、出版協会、その他紙業関係団体と連絡をとって調 査に着手した147。1928年1月27日に要請を受けた東京出版協会の代表は、2月
10日の分科委員会に出席した148。東京印刷同業組合もまた、同月、「使用者
の立場から紙の規格に関し意見を述べるよう要請され」て代表者が「意見供 述」をおこなった149。
1928年7月19日、内閣印刷局150の部長であった矢野道也は第二部の臨時委 員となり、同じく臨時委員となった王子製紙株式会社副社長井上憲一と相談 し、印刷局の技師らの援助をうけて、用紙の仕上寸法の原案作成に着手し た151。その9月、『詩と詩論』が創刊された。戦前のモダニズム詩の動きがは じまった年である。
矢野がのちにも記すように、用紙の仕上寸法の規格標準化は、産業の「合 理化」政策の一環として必須の事業であった。彼は『産業合理化』に稿を寄 せていう。