第
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章では、経験を創造的なものとしていくことが、統合の社会過程を前進させること であるとのフォレットの考えについて、創造的経験の本質から論じてきた。フォレットは、社会を動かしているダイナミズムの基軸を統合の過程に求めようとし、その原動力は創造 的経験以外にはないことを説いていったのであるが、そこには、人々や社会に対する深い 洞察があったと考えられる。
本章では、これまでの創造的経験と統合の過程についての理解を踏まえて、フォレット にとって経験を論じることがどのような意味をもっていたのかを考察していきたい。また、
フォレットが提唱する実践的あり方を通して、創造的経験と統合の考え方が現代組織や社 会にどのような実践的意義を持つのかについて考えていきたい。
第
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節 統合の社会過程から捉える科学・権力・法1-1
フォレット理論における経験と科学の捉え方フォレットが統合の過程を創造的経験に基づくものとして論じたのは、フォレットが対 していたものと深く関わっていると考えられる。私は、フォレットが対していたものは、
人々や社会の抽象化、固定化されたものへの急速な傾斜の動きであったと考えている。フ ォレットは、その動きの典型的なものを、原子論の考えと二項対立的な捉え方に見ていた。
Creative Experience
の中の個人的利益と社会的利益の考え方に触れた箇所でフォレットは、次のように述べている。
社会的利益が、何らかのものに対して「犠牲にされる」べきもう一方のものと全く相 容れないということは決してありえない。なぜなら、社会的利益は、単に、諸々の個 人的利益の交織ではないからである。それは、諸々の部分による交織であると同時に、
そうした諸々の部分が保持されたまま交織することなのである。こう考えると、個人 と社会を互いに対立するものととらえることは不可能となる。同時に、この考えは、
個人という言葉において原子論...
( atomism )を連想させること、社会という言葉に おいて抽象的なもの......
を連想させることからわれわれを守ってくれる(傍点筆者)1。
ここには、例えば個人的利益と社会的利益として二項対立の構図をつくり出すことや、
人間を他と関係をもたない孤立した個人として原子論的に理解すること、また社会という 抽象的な連想を引き出す言葉を使用することへのフォレットの警告を見ることができるの である。その上で、フォレットは、「経験は、本能、感覚、反射、その他何であれ、原子 論的なものの問題ではない」ことを明言している2。
なぜこのようにフォレットは、抽象化や固定化の傾向に対して警鐘を鳴らしていたので
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あろうか。それは、抽象化や固定化が、自らの具体的な日々の活動に取り組んでいくこと、
そこにおいて自ら考え自ら行動していくことから離れた状態をつくり出してしまうからで ある。たしかに
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世紀初頭は、心理学をはじめとして生理学や生物学において円環的反 応や統合的行動、全体性の理解につながる見解が示され、また、哲学において純粋経験の 考え方や有機体の哲学が提唱されていたが、現実の組織や社会を動かす原理として圧倒的 に支持されていたのは、近代科学に基づく近代合理主義の考えであった。なぜならば、社 会や組織において相異する意見や考え方が出てきたときに、戦いや争い以外の方法として、それを解決するために必要なものと考えられてきたのが、誰もが認めうる「正確なる情報」
(正確性)や「客観的事実」(客観性)であったからである。それに応えたのが、近代科学 であった。近代科学の考え方の特徴は、対象を細分化し、限られた範囲において、あるい は条件を限定した上で、「正確なる情報」や「客観的な事実」を導き出そうとすることに ある。例えば先に見たテイラー・システムは、まさにそのことの象徴と言える。テイラー・
システムでは、作業の現場における労働者の動作を分解して、それにかかる時間を調査・
分析し、科学的なものとして一日の課業を割り出し、その課業を達成すべく労働者の作業 の仕方をも科学的に細かく決めていったのである。
つまり、私たちは、正確なる情報や客観的事実を求め、それらに裏付けられた原理や法 によって、相異する意見や考え方をまとめ、解決に導くことができると考えてきたのであ る。そして、近代科学の発達と近代科学と結びつく近代合理主義の考え方を支えとし、正 確性や客観性を得るために、分析や比較、検証などの科学的過程や方法を重視し、発展さ せてきたのである。同時に人々は、こうした近代科学的過程を担い原理や法を司るものと しての専門家である科学者や裁判官、管理者を中心に置くシステムを発達させ、そのシス テムに従ってきたといえる。しかし、フォレットは、このような時代の趨勢に対して、次 のように述べてこうした傾向の根源を問うたのである。
ここ十数年にわたり、調査、専門的研究、都市調査、科学的管理、社会工学等々とい う言葉がスローガンとして唱えられてきた。しかしながら、こうした事実に対する理 解が着実に高まるにつれ、これまでわれわれの心のなかに何度も繰り返し浮かんでき た疑問が、よみがえってくる。すなわち、こうした事実の理解が高まることが、果た して現場の従業員や一般民衆とどのような関係にあるのかである3。
フォレットがこのように問うたのは、近代科学に基づく近代合理主義のあり方が、抽象 化や固定化に繋がっており、人々の具体的な日々の作業や日常の生活と離れてしまってい ることを、ソーシャル・ワーカー等の活動を通じて実感していたからに他ならない。こう した傾向は、大きな危険性を孕んでいるとフォレットは言う。その危険性の一つは、細分 化された部分における考え方や原理・原則をもって、全体についても当てはまると思いこ んでしまうところにある。フォレットは、われわれが、事実を構成する部分と、全体とし
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ての事実とを混同して捉える誤りが実際に起こっていることを指摘し、それについては、
「いかに正確な情報であろうとも、その情報が部分的なものであるならば、こうした情報 を根拠としてなされる決定は、悲惨な結果をもたらすことになろう」と警告している4。
フォレットにおいて事実とは、固定されたものではない。事実は、「他の事実との相互 関係の中で見ることがきわめて重要」なのであり、また、「それぞれの事実がもつ価値と は、変化する世の中全体の中でその事実をどう位置づけるかによって決まってくる」もの である。つまり、「それぞれの事実の価値は、他の事実との数限りない関係性と切り離し ては捉えられない」のであり、「関係性から離れた事実とは、事実ではない」というのが、
フォレットの事実についての考え方なのである5。この事実の考え方からすれば、限定され た範囲や限定された条件という抽象化の上にある部分的な事実をもって判断の基準とする ことは、大きな誤りを起こしかねないし、また、人々が現実に直面しているさまざまな具 体的な問題を解決することにはつながり難いのである。
また、正確なる情報や客観的な事実として導き出されたものを、普遍的な原理や原則と して固定化してしまうことは、明らかな問題をもっている。まず、それらは、決して客観 的なものとは言い得ない。情報や事実には、人々の価値観や主観が入っているからである。
専門家が示す情報や事実であっても、同じことである。そこには、その専門家の価値観や 主観が入っており、利害関係も存在している。だから、事故などの事例において、それぞ れの専門家が示す原因となるものや解釈は一致していない場合が多いのである。次に、「関 係性から離れた事実は事実ではない」とフォレットが述べたように、正確なる情報や客観 的な事実を普遍的な原理や原則として固定化することはできない。情報や事実は、常に関 係性と結びついて変化していくからである。事実は、「状況との関係性を抜きにして取り 扱うこと」ができないゆえに、変化するものとして捉えられなければならない。フォレッ トは、事実とは、感情や信念、理想などのすべてがその中に入り込んだ「全体状況として 理解されなければならない」と説く。全体状況は、活動の関係づけによって、常に進化し 続けていくものである。事実もまた状況として変化し、新たになっていく。もし、このよ うに進化し続けていく状況を過去の固定化された考えによって捉えようとするならば、そ れは大きな誤りに繋がってしまう危険があるとフォレットは指摘しているのである。
範囲や条件を限定された中での正確なる情報や客観的な事実がもつ危険性については、
フォレットも大きな影響を受けたとされる哲学者のホワイトヘッドが「具体性置き違いの 誤謬」として論じている6。「具体性置き違いの誤謬」とは、「抽象化された思考の所産で あるものを、そのまま具体的な現実なのだと信じること」である7。村田は、論文「文明と 経営,その哲学的展望に向けて―経営学における具体性とは何か―」において、20世紀の 企業文明がこの「具体性置き違いの誤謬」の上に成立してきたことを指摘している。村田 によれば、「具体性置き違いの誤謬」は「自然と人為」の裂け目として捉えられる。つま り、抽象化されたものを具体と思い込んでしまうこと、そのままそれを技術に転用するこ と、これは人為の横暴となる。にもかかわらず、人々が「企業文明の中に潜む抽象性」に