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海 旭( 第二 章

)・ 柴 田・ 長谷 川 は

、日 本的 な 道 徳も し く は、 社 会 事業 な り 教育 な り を支 え る 精神 的 な よ りど こ ろ とし て

、 仏教 の 重 要性 を 主張 し た

。こ の 点 は、 こ の 時期 の 仏 教社 会 事 業の 特 徴 の ひと つ で ある と 考 えて い る

。 本章 で は

、慈 善 事 業か ら 社 会 事業 へ と 変遷 す る 時期 に

、 近代 的 な 社会 事 業 と教 育 を 実践 す る一 方 で

、仏 教 思 想( 宗 教

)の 重 要 性を 述 べ た、 柴 田 徳 次郎 と 長 谷川 良 信 につ い て 述べ る

。両 者 と も、 第 二 章で 述 べ た渡 辺 海 旭と 深 い 関係 に あ る

第 一 節 柴 田 徳 次 郎 と 国 士 舘

― 渡 辺 海 旭 と の 関 係 に つ い て

本節 に お いて は

、 柴田 徳 次 郎

(一 八 九

〇‐ 一 九 七三

) が 仏教 者 で ある 渡 辺 海旭 に

「 思想 問 題」 の 授 業を 依 頼 した 経 緯 につ い て 述べ る

。 資料 は

、 青 年大 民 団 の機 関 紙

『大 民

』 を使 用 す る( 資 料 1

)。 こ れ ま でに

、 柴 田 と 渡 辺 の 関係 を 指 摘 し た 例は ほ と ん ど な い。 渡辺 海 旭 研究 で は

、「 国 士 舘完 成 長 老 懇談 会 記 念写 真

」と し て

、柴 田、 渡 辺

、徳 富 蘇 峰、 渋 沢 栄 一、 野 田 卯太 郎

、 頭 山 満 らと と も に 写 さ れた 写 真 が 現 存 し て いる が

( 資 料 2

)、 ど う い う経 緯 で 撮影 さ れ たの か は 不明 で あ った

。 こ れま で 指 摘さ れ た こ との な い

、柴 田 と 渡辺 と の 接点 を 述べ る だ けで も 価 値は あ る と思 う

。 筆者 は

、 柴田 が

、 渡 辺に 道 徳 のよ り ど ころ と し ての 仏 教( あ る いは 宗 教 一般

) を 教え る よ う依 頼 し たの で は な いか と 推 測し て い る。 特 に

、大 正 一二 年

( 一九 二 三

)に

、 大 民倶 楽 部 が「 佛 教 各宗 派 聯 合 海外 布 教 団」 の 発 会を 図 る など は

、仏 教 各 宗の 連 携 と大 乗 仏 教を 土 台 にし た 社 会問 題 へ の 取組 み と いう 渡 辺 の思 想 の 影響 を 受け て い ると い っ ても よ い

。 柴田 は

、芝 中 学校

(1

)で

、渡 辺 の 修 身の 授 業 を受 け た こと が あ ると も い われ て い る( 2

)。 芝 中学 校 で

、渡 辺 の

「修 身

」 の授 業 を 受け た 柴 田が

、 そ の 人柄 に 感 服し

、 関 係が つ な がっ た ので は な いか と も 考え ら れ る。 そ し て、 も う 一人

、 柴 田 と渡 辺 の 接点 を 考 える に あ たっ て 重要 な 人 物が い る

。そ れ は

、渡 辺 の 弟子 で あ り、 マ ハ ヤ ナ学 園 の 設立 者 で ある 長 谷 川良 信 であ る

。 芝田 と 長 谷川 は

、 共に 後 に 渡辺 が 校 長を 務 め る こと に な る芝 中 学 校の 学 友 であ り

、「 二 人 で社 会 国 家を 論 じ たり

、 酒 を酌 み 交 わし た り して い た

」[ 長 谷 川

、二

〇 五、 二 二 ペ ージ]

( 3

) と い う

。 しか し

、 同 様 に

、 こ れま で 国 士 舘 や 柴田 と 長 谷 川 の つな がり を 指 摘す る も のは ほ ぼ ない

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柴田 徳次 郎 と渡 辺海 旭 との 接点

柴 田は

、 明 治 二三 年

( 一 八 九〇

) 一 二 月 二

〇 日、 福 岡 県 那珂 郡 別 所村

( 現 筑紫 郡 那 珂川 町 別 所) に 生 まれ る

。 一 四歳 で 上 京し

、 苦 学の 末 に 早稲 田 大学 専 門 部を 卒 業

。在 学 時 より 同 郷 の頭 山 満

、野 田 卯 太 郎ら と 知 り合 う

。 芝中 学 校 で、 渡 辺の 修 身 の授 業 を 受け た こ とが あ る とも い わ れて い る が

、こ れ ま で、 国 士 舘と

、 浄 土宗 僧 侶で あ り 仏教 社 会 事業 家 で ある 渡 辺 との 関 係 を指 摘 す る もの は な い。 ここ で は

、ま ず 渡 辺と

、 頭 山 満や 徳 富 蘇峰 ら と の関 係 を 挙げ て お く。 渡 辺 の甥 で あ る作 家 の武 田 泰 淳は

、 渡 辺が 晩 年 に頭 山 や 徳富 ら と のグ ル ー プ と付 き 合 った の は 失敗 で あ った と 述 べて い る

( 4

)。 渡 辺 が彼 ら と い つ 交 際 を はじ め

、 ど の よ うな 影 響 を 受 け た の かを 明 確 にす る こ とは

、 今 後の 渡 辺 海旭 研 究 の課 題 だ と思 わ れ る

。な ぜ な らば

、 太 平洋 戦 争 中の 植 民地 政 策 と、 植 民 地で の 仏 教者 の 社 会事 業 と があ る 種 の 密接 な 関 係に あ る こと が し ばし ば 指摘 さ れ 始め て い るか ら で ある

。 し かし

、 こ こで は 本 論 文の 論 旨 から 外 れ るた め 述 べな い

。渡 辺 と 頭山

、 徳 富ら と の 接点 は 二 つあ る

。 ひと つ は

、す で に 述べ た よ う に、 大 正 一五 年

( 一九 二 六

)に

「 国 士舘 完 成 長老 懇 談 会記 念 写真

」 と して

、 頭 山や 徳 富 と一 緒 に 写る 渡 辺 の写 真 が あ る。

(『 壺 月全 集

』 下巻 に は

、こ の 写真 は

、 私塾 国 士 舘の 設 立 を協 議 す る有 志 と して

、 大 正 五年 の も のと し て 収載 さ れ てい る が、 甥 の 泰淳 が 四 四歳 の 渡 辺を 晩 年 とい う の はい さ さ か 若す ぎ る 気が す る ので

、 年 号の 誤 りで あ ろ う) ふた つ め は、 新 宿 中 村屋 の 相 馬夫 妻( 5

)と ボー ス

、そ れと 頭 山 との 関 係 から の 接 点で あ る。 新 宿 中村 屋 の 相馬 夫 妻 は、 長 女 俊子 の 死 をき っ か け にし て

、 渡辺 の 信 奉者 と な った こ とは 有 名 な話 で あ る。 特 に

、妻 の 黒 光は

、 壺 月会 と い う 渡辺 の 法 話会 を 主 催す る ほ どで あ った

。 ボ ース と は

、中 村 屋 のボ ー ス とし て 日 本に 初 め て イン ド カ レー を 伝 えた イ ン ド独 立 運動 の 指 導者 の ラ ス・ ビ ハ リ・ ボ ー スの こ と であ る

。 ボ ース は

、 大正 四 年

(一 九 一 五) に イギ リ ス の追 及 を 逃れ て 訪 日し

、 頭 山満 の 支 援を 受 け

、 新宿 中 村 屋の 相 馬 夫妻 の 自 宅に 匿 われ る こ とに な っ た。 そ の 後、 相 馬 夫妻 の 長 女敏 子 と 結 婚し た が

、敏 子 は 大 正一 四 年( 一 九 二五

)に 亡く な っ てい る

。相 馬 愛 蔵 は、 渡 辺 の 哀悼 文 の なか で

、「 私の 婿 の ボー ス の 處 へ、 三 周忌 の 墓 参り に 行 きま し た

。頭 山 翁 と先 生 と は初 対 面 で した

」 と 書い て い る。 し た がっ て

、愛 蔵 の いう 三 周 忌と は

、 昭和 二 年

(一 九 二 七) の こ と であ ろ う

。こ の 時 点で 渡 辺 は、 五 五歳 を 迎 えて い る

。渡 辺 は

、太 平 洋 戦争 を 迎 える 前 の 昭 和八 年

( 一九 三 三

)一 月 五 日に 六 一歳 で 敗 血症 に よ り逝 去 し てい る

。 そう す る と、 愛 蔵 の記 憶 違 い とい う 可 能性 も あ るが

、 柴 田と 渡 辺 との 出 会 いは そ れ より も 遥か に 早 いこ と に なる

。 次 に、 柴 田 と渡 辺 と の接 点 を み てい く

。 柴田 が 上 京し

、 渡 辺が 死 去す る ま での

、 彼 らの 接 点 を年 表 に する と 左 の通 り に な る。 明 治三 八 年

(一 九

〇 五) 上 京

。 明 治四

〇 年( 一 九〇 七

)東 京 市・ 芝 中 学校 第 三 学年 に 入 学。

( 明治 四 一 年( 一 九

〇八

)三 月 同 校全 科 卒 業)

※ 明治 四 三 年( 一 九 一〇

) 渡 辺海 旭 芝 中学 校 長 就任

。 大 正元 年

( 一九 一 二

)早 稲 田 大学 政 治 経済 学 科

(専 門 部

) に入 学

。( 大 正 四年

( 一 九 一五

) 七 月同 校 全 科卒 業

)。 大 正二 年

( 一九 一 三

)「 青 年 大民 団

」 結成

。 大 正五 年

( 一九 一 六

)機 関 誌

『大 民

』 創刊

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大 正六 年( 一 九 一 七) 麻 布区 麻 布 笄町

( 現西 麻 布

、ご く 一部 は 南 青山

)に

、私 塾「 国 士 舘」 を 設立

。 日

・祭 日 を 除き 夜 七 時か ら 九 時ま で

、 政治

・ 経 済

・社 会

・ 宗教

・ 哲 学・ 武 道 など の ほか

、 外 国語 を 教 える

※ 臨時 補 講 とし て

、 渡辺 海 旭

「思 想 問 題」 を 教 える

。 大 正八 年

( 一九 一 九

)財 団 法 人国 士 舘 を設 立

※ 財団 法 人 国士 舘 の 理事 に

、 渡辺 海 旭 就任

。 大 正八 年( 一 九一 九

)松 陰 神社 隣 接 地( 現 世 田 谷キ ャ ン パ ス) に移 転

、国 士舘 高 等 部設 置

( 昭和 五 年 三月 廃 止

)。 大 正一 五 年

(一 九 二 六) 国 士 舘完 成 長 老懇 談 会 を開 催

※ 渡辺 海 旭

、徳 富 蘇 峰、 渋 沢 栄一

、 野 田卯 太 郎

、頭 山 満 ら とと も に 写し た 写 真が 現 存

(前 掲 した 資 料 1

)。 大 正一 二 年

(一 九 二 三) 国 士 舘中 等 部 設置

。( 大正 一 四 年( 一 九 二五

) 三 月廃 止

)。 大 正一 四 年

(一 九 二 五) 国 士 舘中 学 校 設置

。( 昭和 二 四 年( 一 九 四九

) 三 月廃 止

)。 大 正一 五 年( 一 九 二 六) 荏 原 郡 西部 六 町 村合 同 経 営の 国 士 舘商 業 学 校設 置

。( 昭 和二 四 年( 一 九 四九

) 三 月廃 止

)。 昭 和四 年

( 一九 二 九

)国 士 舘 専門 学 校 設置

。( 昭和 三

〇 年( 一 九 五五

) 三 月廃 止

)。 昭 和五 年

( 一九 三

)国 士 舘 高等 拓 植 学校 設 置

。( 昭 和 九年

( 一 九三 四

) 一 一月 廃 止

)。 昭 和七 年

( 一九 三 二

)満 州 鏡 泊湖 畔 に 鏡泊 学 園 を設 置

※ 鏡泊 学 園 総長 に

、 渡辺 海 旭 就任

※ 昭和 八 年

(一 九 三 三) 渡 辺 海旭 死 去

。 この よ う に、 柴 田 と渡 辺 の 出会 い は

、少 な く とも 大 正 六 年( 一 九 一七

) の 国士 舘 設 立以 前 であ る こ とが 分 か る。 し か し、 柴 田 が芝 中 学 校に 入 学 し たと さ れ る明 治 四

〇年

( 一 九〇 七

)は

、 渡 辺は

、 ド イツ 留 学 期間 で あ り、 柴 田 の学 友 で あ った 長 谷 川が 紹 介 した の だ ろう と いう 推 測 の域 を で ない

。 国 士舘 担 当課 目に つ いて

しか し

、 前 述 のと お り

、 渡辺 は

、 財 団 法人 国 士 舘 の 理 事や

、 渋 沢栄 一 邸 で行 わ れ た国 士 舘 長老 懇 談 会に

、 頭 山や 野 田 ら と同 席 す るな ど

、 相談 役 と して か なり の 位 置に い た と考 え て よい

( 6

)。 本 節 では

、『 大 民』 に書 か れ てい る もの を 中 心 に、 渡 辺が 担 当 した 科 目 を記 述 す る。 これ ら を みる か ぎ り、 渡辺 に 期 待 され た の は、

「 修身

」や

「 思 想問 題

」で あ る。 仏 教者 で あ る 渡辺 に

、 思 想 問 題の 授 業 を 担 当 させ た の は

、 設 立 趣 旨の 冒 頭 に あ る よう に

( 7

)、 当 時 の「 唯 だ科 学 智 を重 ん じて

、徳 性涵 養 を 忘る

」教 育 に 対 する 反 旗 であ っ た と考 え ら れ る。 こ れは

、「 宗教

・ 社 会事 業

・ 教育 の 三 位一 体

」 を唱 え た 長谷 川 に も共 通 す る考 え 方 で あり

、 一 方で

、 教 育な り

、 社会 事 業 があ り

、 一方 で そ れを 精 神 面 で支 え る

、強 化 す る、 よ り 良い も のに す る

、ま た は 日本 的 な もの に す る、 大 乗 仏教 の 思 想 があ る と する の で ある

。 こ の点 に おい て

、 仏教 思 想 とは

、 社 会的 な も のを 内 面 的な 精 神 と して 支 え ると い う 役割 を 与 えら れ るの で あ る。 ま た

、柴 田 は

、母 親 が かな り の 信仰 心 に 篤 い女 性 で あっ た ら しく

、 そ の影 響 は小 さ く はな い と 述べ て い る。

『大 民

』を み るか ぎ り、 渡辺 の 担 当課 目 は 以下 の よ うで あ る

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