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わ れ る 仏 教 の 社 会 的 実 践

前章 で は

、宗 教 行 為で あ っ た 仏教 福 祉 が、 社 会 福祉 の 一 分野 と し ての 仏 教 社会 福 祉 へと 体 系化 さ れ てい く 過 程を 述 べ た。 本 章 にお い て は、 社 会 福 祉の 一 分 野と し て の仏 教 社 会福 祉 へと 体 系 化し た 後

、現 代 の 仏教 教 団 の社 会 的 実践 が も つ 課題 に つ いて

、 二 つの 事 例 を挙 げ て検 討 す る。 事例

① で は、 真 宗 大谷 派 の 仏 教と ハ ン セン 病 問 題に つ い て検 討 す る。 ハ ン セン

( 癩

・ら い

)病 は

、 古来 よ り 信仰 に も とづ い た 救済 対 象 であ っ た が

、僧 侶 に よっ て 病 気は 悪 業 によ る 結果 で あ ると い う 教え が 説 かれ て き た。 し か し、 ら い 予 防法 廃 止 以後

( 一 九九 六

) は、 特 にそ の よ うな 教 え は差 別 で ある と さ れた

。 そ のた め

、 僧 侶は 自 ら の教 え を 問い な お す必 要 に迫 ら れ たの で あ る。 自 ら の教 え が 差別 で あ ると さ れ た とき

、 大 谷派 の 僧 侶は ど の よう に 対応 し て きた の か

。事 例

② では

、 東 日本 大 震 災に お い て

、各 仏 教 宗派 が 行 った 救 援 活動 に つい て 述 べる

。 し かし

、 阪 神淡 路 大 震災 に お いて

、 他 の ボラ ン テ ィア と 宗 教者 の 実 践の 違 いが み い だせ な い と指 摘 を 受け た よ うに

、 今 回の 救 援 活 動に お い ても

、 宗 教行 為 は 受け 入 れら れ な いと の 報 告が さ れ る一 方 で

、宗 教 者 だ から で き るこ と へ の模 索 が 行わ れ て いる

第 一 節 真 宗 大 谷 派 と ハ ン セ ン 病 問 題

ハン セン

( 癩・ らい

) 病に つい て ハン セ ン 病 は、 ら い 菌 に よっ て 起 こ る 慢 性 の感 染 症 で ある

。 近 年、 病 原 菌の 発 見 者の 名 に ちな ん で ハン セ ン 病 と呼 ぶ 傾 向に あ る が、 ら い

、ら い 病、 あ るい は レ プラ

(lepra

)な どと も 呼 ばれ る

。そ の 歴史 は 古 く、 人 類 最初 の 疫 病と さ れ る。 古 く は、 天 刑 病、 業 病 とい わ れ

、聖 書 や 仏典 中 に も 語ら れ て いる

。 そ の症 状 は

、主 に 皮膚 と 抹 消神 経 が 侵さ れ

、 経過 が 著 しく 長 い 疾患 で あ る

。し か し

、そ の 感 染力 は き わめ て 弱く

、 ら い菌 に 長 期、 且 つ 反復 接 触 が必 要 で あり

、 器 具 など か ら の間 接 感 染は ほ と んど な い。 ま た

、感 染 し ても 発 病 する こ と はき わ め てま れ で あ る。 多 く は同 一 家 族内 で

、 乳幼 児 期に 長 年 患者 と と もに 暮 ら して き た 者の な か から 病 人 が でる

。 そ のた め

、 長い 間 遺 伝病 と 考え ら れ てき た

。 また

、 回 復し て も 後遺 症 が 皮膚 や 神 経 に残 る た めに 不 治 の病 と も 考え ら れて き た

。明 治 六 年( 一 八 七三

) に

、ノ ル ウ ェー の 医 学 者ハ ン セ ンに よ っ て、 ら い 菌が 発 見さ れ た

。こ の 発 見と と も に、 ハ ン セン 病 は 慢性 の 伝 染 病と し て 見直 さ れ た。 し か し皮 肉 にも

、 こ のハ ン セ ンの ら い 菌の 発 見 が、 日 本 にお い て 人 々に ハ ン セン 病 が 強烈 な 伝 染病 で ある と 思 い込 ま せ る結 果 を 生じ さ せ た。 昭 和 一八 年

( 一 九四 三

) には

、 ア メリ カ で

「プ ロ ミン

」 が 劇的 な 治 療効 果 を もつ こ と が確 認 さ れた

。 現 在 では

、 い くつ か の 薬剤 を 組 み合 わ せた 多 剤 併用 療 法 が広 く 行 われ て お り、 ハ ン セン 病 は 確 実に 治 癒 する よ う にな っ た

。 ハン セン 病と 宗教

中 世西 欧 で は

、 ハン セ ン 病 が蔓 延 し た 当 時、 医 学 が 無力 で あ っ たた め

、こ の 病 気を 防 ぐ 唯一 の 手 段は 社 会 的規 制 に よる ほ か は なか っ た

。キ リ ス ト教 会 は ハン セ ン病 患 者 を社 会 的 異端 と し

、ハ ン セ ン病 患 者 の追 放 の 先 頭に た っ た。 ハ ン セン 病 患 者は 市 域の 外 の 収容 所 レ プロ サ リ ウム

( あ るい は ラ ザッ ト

) に 強制 隔 離 され た

。 この レ プ ロサ

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リ ウム は ヨ ーロ ッ パ にお け る 病院 活 動 の起 源 と もな り

、 ま た一 部 の 修道 会 は 救癩 活 動 に尽 く した[ 立 川、 一 九 七一

、 五 二ペ ー ジ]

(1

)。 日本 に お いて は

、『 日 本 書 記』 に お ける

「 白 癩

」の 記 述 が おそ ら く 初め て 登 場す る ハ ンセ ン 病に つ い ての 記 述 とさ れ る

。『 日本 書 記 巻二 九

』に

、比 叡 山東 塔 の 僧侶 心 懐( しん え

、し ん かい

)が 嫉妬 に よ り白 癩 に かか り

、皆 か ら「 穢 ナム

」と 忌 まれ て い たと い う 記述 が あ る。 次 に、 ハ ン セ ン病 の 記 述が み ら れ るの は

、『 元亨 釈 書

』に 記さ れ て いる 光 明 皇后 の 施 浴伝 説 で ある

。 こ の伝 説 は

、光 明 皇 后が 癩 者 の膿 を 吸 って 治 療 に あた っ た とこ ろ

、 その 患 者 は、 実 は阿 閦 仏 であ っ た とい う 伝 説で あ る

。そ し て

、鎌 倉 時 代 に、 叡 尊 や忍 性 と いっ た 僧 侶に よ って

、ハ ン セン 病 患 者救 済 は 展 開さ れ る

。ま た

、江 戸 時 代に は「 か っ たい

」、 天 刑 病と い わ れ、

「 善 悪因 果 教

」や

「 因 果和 賛

」 など に よ って

、 仏 教信 仰 や 戒律 の 尊 守を 説 き な がら

、 そ の一 方 で ハン セ ン 病差 別 を 助長 し て きた 歴 史 的事 実 が あ った

。[ 中 野、 一九 九 八

、二 七三 ペ ー ジ]

( 2

) 近 代 に な っ ても

、 例 え ば

、 通 俗 的な 業 の 理 解 に より

、 ハ ン セ ン 病は 前世 の 悪 業の 結 果 であ る と され た

。 この よ う に、 宗 教 はハ ン セ ン 病が 遺 伝 病で あ る とい う 俗 説と 同 じよ う に

、病 気 で ある 以 上 の苦 し み を与 え て きた と い え る。 強制 隔離 政策

明治 六 年

( 一八 七 三

) に、 ハ ン セン 病 は ら い菌 に よ る 感 染症 で あ る こと が 分か る と

、か え っ て、 ハ ン セン 病 は 危険 な 伝 染病 と し て 認識 さ れ た。 ま た

、当 時 の 西欧 諸 国で は

、 栄養 状 態 の改 善 に より

、 ほ とん ど み られ な く な って い た

。そ の た め、 日 本 政府 は ハン セ ン 病を 危 険 な伝 染 病 であ り

、国 辱 と 考え た

。そ し て

、明 治 四

〇 年( 一 九〇 七

)に

、 癩 予防 ニ 関 スル 件

( 法律 一 一 号) を 制 定し た

。 その 内 容 は

、全 国 五 か所 に 公 立療 養 所 をつ く り、 い わ ゆる

「 浮 浪ら い 患 者」 を 対 象に 収 容 する こ と を 定め た も ので あ る

。そ の 後

、昭 和 六年

( 一 九三 一

) に、

「( 旧

)ら い 予 防法

」 と いわ れ る もの に 改 正さ れ た

。こ こ に きて

、 全 患者 へ の 絶対 隔 離 政策 が 開 始さ れ た

。し か も

、そ の 頃 に は ハン セ ン 病は 遺 伝 病で は な く、 感 染力 も 弱 いこ と が 世界 的 な 常識 に な りつ つ あ った

。そ の 後昭 和 二 八年

( 一 九 五三

)に

「( 旧

) ら い予 防 法

」は 改 正 され た が

、強 制 隔 離は 平 成 八年

( 一 九 九六

) に らい 予 防 法が 廃 止 され る まで 続 い た。 真宗 大 谷 派光 明会

「( 旧) ら い 予防 法

」制 定 の 頃に は

、宗 教 団 体 は、 政 府に よ っ て 療養 所 にお け る 患者 の 不 満を 抑 止 する も の と考 え ら れた

。 昭 和 五年

( 一 九三

) には

、 安 達謙 蔵 内相 が 東 西本 願 寺 を訪 ね

、 らい 予 防 観念 を 広 める た め に 協力 を 要 請し た

。 此 頃

、 内務 大 臣 安達 謙 蔵 氏は 京 都 に行 き

、 東西 両 本 願 寺を 訪 ね て親 し く 癩予 防 救 済等 に 尽 力 をせ ら れ む事 を 依 頼せ ら れ たと の 事 であ る

。[

『 真 宗』 四 月 号、 一九 三 一]

(3

) こう し た 行政 の 動 きに 対 応 す るよ う に

、昭 和 六 年( 一 九 三一

) に 真宗 大 谷 派光 明 会 は発 足 した

。そ の内 容 は

、全 国 の 療 養所 の 巡 回慰 問

、ハ ン セ ン 病患 者・ 家 族の 慰 問 など で あ る。 発 足に 至 る 経過 に つ いて は

、「 時 恰も 昭 和 五年

、東 京 浅 草別 院 に 於い て

、大 谷派 全 国 社会 事 業 大会 の 開 催せ ら る るや

、偶 々 本問 題 に つい て 一 派の 施 設 を 如何 に す るか が 提 案せ ら れ て、 光 明会 の 設 立の 件 を 満場 一 致 可決 し( 後 略)

」[

『 癩 根 絶と 大 谷 派光 明 会

』、 一 九 三 一]

(4

) と ある

。 そ の頃

、 大 谷派 の 機 関紙

『 真 宗』 で も

、「 療 養 所は 楽 天 地」

「 祖 国 浄化

」 な どと い

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っ た言 葉 が 多数 み ら れた

。 真 宗大 谷 派 ハン セ ン 病に 関 す る 懇談 会 編

『ハ ン セ ン病 と 真 宗』 に

、「 教 団 は早 速『 真 宗

』に い く つ かの 記 事 を発 表 し

、「 大 谷 派光 明 会」 を 発 足さ せ て いる

。 国 が教 団 に 求め て い るの は

、 患者 や 家 族の 言 葉 にな ら ぬ 不 満や 怨 念 を「 宗 教

」に よ っ て慰 め る― 紛 ら す― こ と であ る が

、そ れ を 果 たそ う と いう の で ある

」と 書 か れて い る[

『 ハン セ ン 病と 真 宗

』、 一 九 九八

、 一 六ペ ー ジ]

(5

)。 大谷 派 光 明会 は

、「 癩 に 関 する 同 情 喚起

」、

「 癩に 関 す る 一般 的 啓 蒙」

、「 救 済慰 安

」の 三部 門 に分 類 し て活 動 し てい る[

『真 宗

』 二月 号

、 一九 三 二]

(6

)。 大谷 派 は

、ハ ン セ ン病 は

「 遺伝 病

」 や「 業 病

」と い う の はま っ た く根 拠 の ない も の とし た

。そ の 一 方で

、 患 者の 心 得 るこ と と して

、( ロ) 食 事 や住 居 を 別に す る こと

、( ハ

)消 毒 を 厳 重に す る こ と な どの 記 述 が み ら れ るな ど[

『 真 宗

』 五 月号

、 一 九 三 一]

(7

)、 ハン セ ン 病が 絶 対 隔離 政 策 を必 要 と する 強 力 な伝 染 病 であ る と い った 国 の 意見 を 疑 うこ と は なか っ た。 そ の 後、 昭 和 二八 年

( 一九 五 三

)に

、「

( 旧) ら い 予 防法

」 は 改正 さ れ た。 多 少 の福 祉 的 な 条 文 も追 加 さ れ た が

、 依 然 と し て

「 絶 対 隔 離

」 の 規 定 が残 さ れ た

。 し か し な が ら

『 真宗

』 は

、法 律 と 権力 に よ る強 制 隔 離が 一 段 落す る と

、 ハン セ ン 病に つ い ては 忘 れ 去っ た かの よ う に、 関 連 した 記 事 は掲 載 し て い な い[

『ハ ン セ ン 病 と 真 宗

』、 一 九 九 八]

( 8

)。 小笠 原登 医師

その よ う な国 と 宗 派 を挙 げ て の ハン セ ン 病 絶 対隔 離 政 策が 行 わ れ るな か で

、こ れ に 反す る 意 見を 述 べ る人 物 も いた

。大 谷派 の 僧 侶 であ り

、医 師 で あ る小 笠 原 登( 一 八 八八

‐ 一 九七

) であ る

。 小笠 原 は

、愛 知 県甚 目 寺 村円 周 寺 に生 ま れ た。 円 周寺 は

、天 智 天 皇 が病 気 に なっ た 時 に、 甚 目寺 で 祈 祷し た と ころ

、 快 癒し た と いう 甚 目 寺観 音 の 近 くに あ る

。当 時 は

、神 社 や 寺に 行 き場 所 の ない ハ ン セン 病 患 者が 多 く 寝起 き し てい た

。 祖 父の 啓 導 も医 師 で ある

。 啓 導の 治 療を 受 け るた め に

、ハ ン セ ン病 患 者 が円 周 寺 に訪 れ て い たと い う

。そ の た めか

、 小 笠原 は

、京 都 帝 国大 学

( 現京 都 大 学) の 医 学部 に 進 み、 卒 業 後 は皮 膚 科 特別 研 究 室( ラ イ 研究 所

)で

、 ハ ンセ ン 病 の研 究 を 行い

、 後 にハ ン セ ン病 国 立 療 養所 の 院 長な ど も 務め て いる

。 小笠 原 は

、ハ ン セ ン病 は 遺 伝 病で は な く、 伝 染 病で あ る が「 感 染 力は 弱 く 隔離 の 必 要は な い」 と 主 張し た

。 当時 で も 医師 や 看 護師 の な かで 感 染 者 がい な い こと な ど から も

、 ハン セ ン病 の 感 染力 は 弱 いこ と が 分か る

。 しか し

、 絶対 隔 離 政 策を 進 め る側 に と って は

、 小笠 原 の意 見 は 受け 容 れ がた く

、 昭和 一 六 年( 一 九 四一

) の

「 第一 五 回 ライ 学 会

」で は

、 小笠 原 に対 す る 批判 が 集 中し た

。 そし て

、 太平 洋 戦 争が 始 ま る と、 祖 国 浄化

・ 民 族浄 化 の 世論 の 前に

、 ま すま す 小 笠原 の 説 は忘 れ 去 られ て い った

。 らい 予防 法廃 止 平 成 八 年( 一 九 九 六) 三 月 に

、ら い 予 防 法 は廃 止 さ れた

。 そ れ に従 い 隔 離政 策 は 法的 に 廃 止さ れ た

。同 年四 月 に

、大 谷 派 は

、「 ハン セ ン 病に 関 わ る真 宗 大 谷 派の 謝 罪声 明

」 を発 表 し

、政 府 に

「ら い 予 防法

」 廃 止に か か る 要望 書 を 提出 し た

。こ れ ら の謝 罪 声明 は

、 国の 絶 対 隔離 政 策 が人 権 を 侵害 す る もの で あ っ たこ と を 見抜 け ず に推 進 し てし ま った こ と への 謝 罪 であ り

、 また 同 朋 とし て 共 に生 き る と いう 決 意 の表 明 で ある と する

私 た ち 真宗 大 谷 派教 団 は

、そ の 時 代社 会 の 中に あ っ て

、そ の 法 律の も つ 意味 を 正 しく 認 識 す るこ と が でき ず

、 国家 に よ る甚 だ し い人 権 侵 害 を見 抜 く こと が で きな か っ たと

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