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海洋を巡る秩序の形成、現状、展望

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1. 秩序と規範の形成の条件

欧州では、冷戦後急速に地域統合が進み欧州連合が発足した。アジアでも、経済的相互依存の 深化や協力枠組みの構築は、地域統合を促すと考えられた。こうした地域統合への流れは、中国 の修正主義的な動きを抑止するとも期待された2。しかし、アジアの現状は、このような予想と は異なる。中国は、南シナ海の

90%の主権を強硬に主張し、無人島や岩礁の埋め立て工事を行

っている。2016 年には、中国の主張を却下した常設仲裁裁判所による裁定に反発し、判決を受 け入れないことを明らかにした。こうした行動は、中国が新たな秩序の形成を望んでいるように も見える。では、秩序とはどのような条件の下で構築されるのだろうか。

秩序とは、大国を中心として、共通の理解や規範のもとに構築される3 。ある国が秩序を構築 するには、第一に、他国に見返りを提供することが可能な物質的な力があること、第二に規範、

アイデア、価値観の発信者であること、第三にその国が発信する規範や価値観を他国が受け入れ ること、の三点が重要である。安全保障の世界では、物質的なパワーバランスや戦略的優位性に ばかり関心が払われるが、秩序の変化には、権利や義務に関する共通の理解や価値観および規範 の変化も伴う点を見落としてはならない4。では、アイデアや価値観の発信とは具体的にどのよう なことを指すのだろうか。

ある国が秩序形成に関与するためには、アイデアや価値観を発信し、自国の規範や価値観を受 容するように他国を説得し、共通の目的に向かってグループをまとめなくてはならない5。たとえ 覇権国であっても同様である6。他国から賛同を得た「正統性」の高いアイデアや価値観は、やが て「社会化」のプロセスを経て公共財へと変化していく。代表的な例は、GATT、WTOなどの 制度や、国際金融、自由貿易などの国際レジームなどであろう。米国の発信するリベラルな価値 観が西側諸国の支持を得たことはいうまでもない7

しかし、他国が追随するような立派なアイデアさえあれば秩序や制度構築が可能なわけではな い。アイデアや価値観の発信に加えて必要となるのが物質的な力である。これは、軍事力も経済 力もない弱小国や破たん国家が秩序形成に関与した例が過去に存在しないことからも自明であ ろう。他国を引き付けるためにはインセンティブの提供が必要である上、秩序確立後は安定的に 秩序を維持しするため、継続的に資金や資源を投入するなどのコスト負担が必要となる8。物質的 な力による裏付けが必要不可欠なのだ。

米国が、第二次世界大戦後に築いた西側の経済秩序や制度の構築を事例として考えてみよう。

第二次世界大戦後、米国は、西側諸国に対しマーシャルプランなどの経済援助を行うことで経済 復興を支援した。また、西側世界を中心に構築された自由貿易や国際金融の国際レジーム(例え ばブレトンウッズ体制)は、世界経済の拡大と秩序安定に貢献し多くの国に経済的繁栄をもたら した。安全保障分野では、同盟(北大西洋条約機構:NATO)を結成することによって西側諸国 の安全保障を担保した。アジアでは二国間同盟体制である「hub and spokes構造」を敷いた。経 済・安全保障上のインセンティブを提供することで、米国は西側諸国から支持および協力を取り 付けたのである。同秩序が米国の利益にも大きく貢献したことは言うまでもない9

このように、秩序の形成は、物質的な力に裏付けされたインセンティブの提供のみならず、他

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国が追随するようなアイデアや価値観の発信と他国の支持も重要となる。冷戦期および冷戦後を 通じて、アイデアや価値観を発信すると同時に見返りを(冷戦期は西側諸国に)提供し続けてき たのが米国であった。しかし、中国が経済的にも軍事的にも急速に米国との差を縮めてきている なか、アジア限定で考えれば、中国が米国主導の秩序に挑戦することは不可能ではないだろう。

リベラルな規範や秩序維持への米国の関心の低下は、挑戦者にとっては好都合となる。

2. アジアの現状

(1)中国は挑戦者なのか

中国は、歴史の苦い経験から多国間安全保障協力に対しては消極的だったが、1997 年の新安 全保障観の表明を契機として、ASEAN 地域フォーラム(ARF)などの地域安全保障機構にも積 極的にかかわるようになった10。2002年

11

月に

ASEAN

と領有権問題の平和的解決に向け「南 シナ海行動宣言」(Code of Declaration)を採択し、翌年には、域外国としては初めて東南アジ ア友好協力条約にも加盟した11。こうした中国の柔軟な姿勢は、アジア地域統合の予兆にも見え た12。しかし、2006 年に中国は国益の再定義を行い、「争議の棚上げ」から「領有権の主張と擁 護」へと、強気な外交方針に転換した13。2007年

11

月には西沙、南沙、中沙諸島を管轄する三 沙市を設立(2012 年に正式に設立)するなど強硬な対外姿勢を見せるようになった。また、マ レーシアとベトナムが、 2009 年に共同で国連大陸棚委員会に大陸棚の延伸申請したのを受け、

中国は「九段線」議論を持ち出し、南シナ海のおよそ

9

割に当たる部分は歴史的に中国の内海で ありマレーシアとベトナムの申請は中国の主権侵害にあたる、と抗議した14。さらに

2010

年頃よ り、これまで台湾やチベット、ウイグル自治区に対して使用してきた「核心的利益」という言葉 を南シナ海に対しても使用するようになった15

また、中国は、潜水艦基地の建設をはじめとして軍事力や海上法執行能力拡充も急速に進め、

南シナ海海域でのパトロールや演習も急速に強化した。これに伴い各国との衝突も増加した。例 えば、2009年

3

月に中国の海軍艦船や海洋調査船は、米海軍の音響観測船「インペカブル」が 南シナ海公海上で行っていた調査活動を妨害した。米国が駆逐艦を派遣したことにより、一時的 にだが米中間に緊張が走った。また、中国の海上法執行船は、紛争海域を調査中のベトナム調査 船の海底ケーブルを切断した。同様の妨害はフィリピンの調査船に対しても行われた。2012 年 にはフィリピンが実効支配していたスカボロー礁を占拠した。そのため、翌年にフィリピン政府 は、中国が主張する九段線の違法性について常設仲裁裁判所に単独で仲裁を訴えた16

2014

年に は、パラセル諸島に近い紛争海域(ベトナムの

EEZ

内)に石油掘削装置を持ち込むだけでなく、

抗議するベトナム巡視船に対して高圧放水砲を向け威嚇した。西沙諸島付近で操業するベトナム 漁船を拿捕する等の強硬な動きも増え、

2009

年だけでも

100

人以上が拘束された17。外国漁船が 九段線内で操業する時は中国政府の許可を取るよう義務づけた条例(2014年

1

月に施行)も採 択するなど18、自国の権利を正当化した。

こうした中国と係争諸国の対立は単なる領有権紛争に見える。しかし、中国は領有権だけでは なく、地域秩序にも関心を見せるようになっていた。2008 年のリーマンショック時に自国の通

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貨を切り下げることなくアジア経済を支えたことで「責任ある大国」として自信をつけた中国で は 「今後の国際秩序は米中二極化の構造になる…」19と考える識者も増えていた。大国意識が高 まると同時に地域秩序への関与を求めるようになったのである。中国が、2013 年に衝突と対立 の回避、相互尊重、共同繁栄を原則とした「新型大国関係」を築くことを米国に提案したのもそ うした意欲の表れであろう20。しかも、南シナ海での埋め立て及び軍事基地建設強行に対して国 際社会の批判が高まる中、中国は、地域の大国として公共財を提供する意図を明らかにし、「航 行の自由」にもコミットすることを言明した21。こうした中国の言葉は、少なくとも地域では、

これまで米国が果たしていた役割を自国が引き継ごうとする意欲の表れともいえる。

しかし、こうした言葉は単なるリップサービスであろう。既存の国際規範が国益に資さない場 合は、遵守しない姿勢を明らかにしているからだ。フィリピンが提訴した常設仲裁裁判所の判断 は、中国の権利の主張は法的根拠がないとして全面的に中国の主張を退ける裁定だった。しかし、

中国は同決定を受け入れることを拒否した。仮に法的拘束力があっても執行機関がない国際社会 では裁定の履行を強制することができない。とはいえ、裁定を無視することは国際規範を無視す ることと同等である。領土紛争における態度が、当該国家が現状変更を試みているのか否かの基 本的な指標となると考えるならば22、中国は現状変更を試みているといっても過言ではない。

2017

8

月にようやく

ASEAN

と合意した「南シナ海行動規範(COC)」の枠組みは、監視メカニズ ムの構築や信頼醸成措置やホットラインを通じた「事件の発生防止」が盛り込まれるなど、紛争 予防のためのルール形成の一貫として評価はできる。しかし、法的拘束力への言及がないなど中 国にとっては都合の良いものとなっていることは否めない23

(2)中国によるアイデア、価値観、インセンティブの提供と地域の反応

自国に有利な秩序を形成するには、アイデアや価値観を発信して他国の支持を得る必要がある。

自国の経済力および軍事力を拡大するだけでは、既存の秩序の修正を試みることも自国に有利な 秩序を構築することもできない。仮にできたとしても強制力に基づいた秩序は長期にわたり維持 することは難しい。

中国のアジアインフラ投資銀行(AIIB)の構想と設立は、新たな秩序を形成しようとする試み の一つであろう24。AIIB設立の目的は、インフラ整備が必要なアジア諸国に対して必要資金を提 供し経済発展を促すことであるが、

AIIB

が果たす役割は、日米が主導するアジア開発銀行(ADB)

と似通っている。設立して間もない

AIIB

は、ADBとの協調融資も多く両者は補完する関係であ る。また、域内の融資対象国はインフラ発展を促進できる一方で、域外の先進国は加盟すること で投資の機会を得るというウィン・ウィンの構図ではある。しかし、日米の

ADB

に対する 議決

権の

13%と比べ、AIIB

での中国の議決権は

27.5%と突出して高く、中国が一定の拒否権を確保

している状態である。

中国は、AIIB構想の発表と同じくして、「一帯一路」構想を発表した。これは、中国から中央 アジアを通り欧州を結ぶシルクロード経済圏と東南アジアからアフリカ、中東、欧州へと繋がる 海上シルクロードからなる構想である。経済分野で中国がイニシアチブを握りながら、インフラ 投資を通じた巨大な経済圏の確立と経済的繁栄を追求しようとするものである25。公共財ともい

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