はじめに
文化人類学におけるポストモダン的展開1は、エスノグラフィ(民族誌)を書くという行 為にも大きな変化をもたらした。大きな議論となっているのが、民族誌記述における客観 主義の問題(民族誌的リアリズム)と本質主義的文化認識の問題である(江渕 2002:19)。
1920〜60 年代の民族誌は客観的事実を正確に記録するモノグラフ的な書き方であった。ポ ストモダンの人類学は、このような一見すると科学的と思われる記述に潜む政治性や異文 化を語るという特権的地位を糾弾した。そのインパクトは、クリフォード(James Clifford)
とマーカス(George Marcus)が編集した『文化を書く』と『文化批判としての人類学』が出 版された 1986 年前後から強く感じられるようになった(桑山 2002:170)。クリフォード は、『文化を書く』の序文で、民族誌の真実とは、人類学者と現地の人々との相互行為の中 での矛盾や葛藤、失敗などを排除し、自分が描き出したい像にあわせ、資料や情報を取捨 選択し、それを修辞という表現に包み込んでいるがゆえに「部分的真実(partial truth)」
にすぎない(クリフォード 1996:10−12)と従来の民族誌のあり方に反省を促す。そして、
彼らポストモダニストが従来の民族誌の手法に替わって提案したのが、一人称単数の記述、
自己と他者の関係を重視した対話の採用、さらには人類学者が引用したり言い換えたりす るための情報源であった複数のインフォーマントの声を反映させる多声法(ポリフォニー)
などであった(清水 2002:254)。しかし、これらの新たな方法が必ずしも功を奏している わけではなく(清水 2002:254)、現在も試行錯誤の段階と言える。
また、民族誌記述における問題も指摘されている。コロニアル人類学2における民族誌は、
「消えつつある伝統社会」の「本来的な文化」を記録するという思惟様式に特徴があり、
現在の人類学者に「サルベージ人類学」(salvage anthropology)と称され批判されている
(江渕 2002:19‐20)。文化の変化や異種混交という歴史性を無視して現在形で記録して きたため、民族誌に描かれた過去の文化的実践があたかも現在まで持続しているかのよう な現実性をもってしまう、いわゆる「民族誌的現在」(ethnographic present)という問題
性が解決されないと指摘されている。
確かに、ポストモダニストの指摘するように、文化を書く側は、その時間的、空間的位 置を明らかにする必要がある。沖永良部島の民族誌には、野間吉夫の『シマの生活誌』(1942)
や柏常秋の『沖永良部島民俗誌』(1954)などがあるが、それらから連想される沖永良部島 の文化的様相と、現在のそれとはかなりの隔たりがある。にもかかわらず、それらの「民 族誌」は、沖永良部島の人々が今でもそのような生活を送っているかのような普遍性、現 実性をもっている。それは、書き手の空間的位置や、歴史のどの時点での文化的実践なの かという時間的位置を明示することで、ある程度改善できると考えられる。
このような潮流の中、本論でも研究対象とする沖永良部島の民族誌を作成するにあたり、
ポストモダニストが指摘する問題点に耳を傾け、共感する部分については彼らの提案を受 け入れ、民族誌の記述を試みる。具体的には、研究者と現地の人々の関係を提示しつつ、
本土化、近代化の影響を受け、大きく変化し続けている沖永良部島民の文化を、生き生き とした生活空間の中から動的に描き出してみたい。なお本論で描き出される民族誌は、筆 者が沖永良部島の和集落出身であるというポジションから捉えた視点であり、時間的位置 としては、集中的に調査を行った 2000 年から 2003 年における文化的実践を基軸にしてい る。
第一節 地理、生業、交通 1.地理、気候
琉球弧に連なる島々には、アマミノクロウサギやイリオモテヤマネコなど固有の動植物 が多く、「東洋のガラパゴス」と呼ばれているが、文化も動植物に負けないほど多様性があ り、沖永良部島には沖永良部島の特徴がある。
琉球弧のほぼ中央に位置する沖永良部島は、奄美諸島南部に位置する。南端の緯度は、
北緯 27 度 19 分 30 秒、北端が 27 度 26 分 20 秒付近、西端は、東経 128 度 31 分 40 秒、東 端が 128 度 43 分付近にある。沖永良部島の面積は、約 93.63 平方キロ(大島支庁 2000:6)
で東西にのびる洋梨形をしている。隆起珊瑚礁からなり、いたるところにカルスト地があ り、公開されている鍾乳洞も規模が大きい。行政的には鹿児島県に属する沖永良部島は、
和泊、知名の 2 町からなる。奄美の中では、奄美大島、徳之島についで 3 番目に面積が大 きい。亜熱帯性気候に属す沖永良部島は、年間平均気温は 21.9℃で一年を通して暖かく、
過去に雪が降った記録はない。年降水量はだいたい 2200mm で、日本列島の中ではやや多い といったところであり、5 月初旬から始まる梅雨期から 8 月の台風期にかけて多くの雨量を 記録している(堂前 1981:16)。沖永良部島は台風の通り道にあり、「台風銀座」といわれ るほど毎年台風が通過する。1977 年 9 月 9 日には日本の気象観測始まって以来の最低気圧 を記録した「沖永良部台風」が来襲し、農畜産物や家屋の被害など総額 65 億円という甚大 な被害を被った(知名町 1979)。だが、毎年恒例の台風は、島に住む人にとっては慣れたも ので、台風が来ると、数日間本土との交通が途絶えるため、食料を買い込み台風に備える。
台風は、被害もあるが、夏の日照りの中で農作物に水分を補給する恵みももたらす。
2.エラブという呼称
沖永良部島は、島の人からは単に「エラブ」と呼ばれるが、文献史料からも古くから「え らぶ」と呼ばれてきたことがわかる。和銅年間[708‑715]から天平年間[729‑749] の前半の 間の木簡と推定されている大宰府跡出土木簡に記されている「伊藍嶋」は、沖永良部島の ことであるいわれている。さらに朝鮮成宗 2 年(1471)に王命により申叔舟(1417‑1475)
が編纂した海東諸国(日本国、琉球国)についての研究書、『海東諸国紀』の琉球国之図に、
「小崎恵羅武島 去琉球四十里上松三百七十里 属琉球」と記されている「恵羅武島」は、
沖永良部島のことである。また、「李朝実録」には、1479 年(成宗 10 年)6 月乙末日条に
「伊羅夫島」とあり、琉球国に漂流した金非衣、姜茂が記した島の風俗が記されている3。 近世の史料の、『中山世譜』の首巻には、琉球 36 島のうちとして「永良部」と記されて いる。『おもろさうし』には沖永良部島の呼称として、「ゑらぶ」と詠まれる他に、「せりよ さ」とも詠まれている。「せりよさ」は沖永良部島の古名とされ、第 10 の項に「金の島か ら せりよさにかち せりよさから かいふたにかち」と謡われている。また、江戸え ど 幕府ば く ふ 正 保 国
しょうほうくに
絵図
え ず
(17〜18 世紀)の琉球国絵図にも「永良部嶋」と記されている4。
3.生業
隆起珊瑚礁からなる平坦な沖永良部島は耕地に恵まれ、農業を基幹産業とする。県下で も有数の農業生産高を上げており、奄美の中でも経済的に豊かな島として知られている。
表1 市町村別生産農業所得と生産性
資料:農林水産統計年報
(大島支庁 2002 を参考に筆者作成)
平成 12 年度は、奄美諸島にある 14 市町村のなかでも最も生産農業所得が高く、うち和 泊町は 1 位で知名町は 2 位であった(上記の表1参照)。
現在沖 永良 部島で 作ら れる主 な農 産物は 、花 卉、ジ ャガ イモ、 サト イモな どの 根菜類、
サトウキビなどである。また、奄美では唯一の葉タバコの産地でもある。農作物にも変遷 生 産 農 業 所 得
( 百 万 円 ) 区分
市町村 50 年 60 年 11 年 12 年 名 瀬 市
大 和 村 宇 検 村 瀬 戸 内 町 住 用 村 龍 郷 町 笠 利 町 大 島 本 島 計
271 33 44 274 77 208 558 1465
308 70 57 273 117 248 934 2007
181 38 51 202 54 132 451 1109
190 40 50 180 50 120 470 1100 喜 界 島 ( 町 ) 1447 1470 1091 1100 徳 之 島 町
天 城 町 伊 仙 町 徳 之 島 計 和 泊 町 知 名 島 沖 永 良 部 計
1412 1514 1312 4238 1434 956 2390
1933 2014 2043 5990 2077 1768 3845
1146 1281 1275 3702 1847 1575 3422
1170 1230 1210 3610 1850 1750 3600 与 論 島 ( 町 ) 512 842 741 640 合 計 10052 14154 10065 10050
があり、近世末に薩摩藩にサトウキビ栽培を強いられるまでは稲作が盛んであった。近世 末以降は、サトウキビ栽培が盛んになったが、現在は年々生産高が落ちている。島の主要 作物は、大正期には全盛であったユリの球根、そして昭和にはフリージアの球根が加わり、
花の球根が主要作物であった。
しかし、1980 年代後半からは、換金作物としてより経済利益の高い花卉栽培(キク、ソ リダコなど)へとシフトしている。
奄美の 島々 を兄弟 にな ぞらえ 、個 々の島 民性 を、奄 美大 島を「 しっ かりも のの 長男」、
徳之島を「やんちゃ坊主の次男」、沖永良部島を「まじめな三男坊」、与論島を「甘えん坊 の四男」と形容することもあるように、沖永良部島民の性格は、しばしば勤勉という言葉 で表現されるように、老若男女を問わずよく働くといわれている。女性も労働力として期 待され、結婚後も家事のみに従事する専業主婦は少ない。筆者の幼なじみも、「働かないと、
周りに何言われるかわからない」といい、子育てをしつつ農作業あるいは他の職に就き、
何かしらの経済的利益に十分貢献している。高齢になっても、農作業を続けている人は多 い。「勤勉さ」は、もっとも大切な美徳の一つとされている。
3.教育機関
沖永良部島には、和泊町と知名町の二つの町があり、それぞれの役場が和泊集落と知名 集落にある。島には公立の教育機関はあるが、私立の教育機関はない。小学校は、和泊町 立の和泊小学校、国頭小学校、大城小学校、内城小学校の 4校があり、知名町立の知名小 学校、下平川小学校、住吉小学校、田皆小学校の 4校がある。中学校は、和泊町立の和泊 小学校、城が丘中学校、知名町立の知名中学校、田皆中学校がある。島に 1校しかない高 等学校、鹿児島県立沖永良部高等学校には全島から通ってくる。大学や専門学校などの高 等教育機関はないので、進学希望者は高等学校卒業後、島外に進学する。
教育に熱心な親も多く、中学校から本土の進学校に進学させる場合も珍しくない。
沖永良部出身者で、医師、教員などになり社会的に安定した職業に就く人も少なくないが、
本土などで活躍し、島には戻らない場合が多く、町長など島の指導者は島の発展のために 人材の島外流出に問題意識をもっている。
4.交通と移動