−「鹿児島/沖縄」の境界性−
はじめに
本章では、沖永良部島に対する外部勢力による政治支配の歴史が、島民のアイデンティ ティ形成にどのような影響を与えてきたのかを考察する。沖永良部島は、地理的に鹿児島 と沖縄の間にあり、歴史的に両地域からの政治的影響を受け、島民のアイデンティティに さまざまな影響を及ぼしているが、その影響は一つの境界を創り出してきたことである。
その境界のおおまかな起源は、14 世紀頃の三山時代に遡る。本章では「鹿児島/沖縄」の 境界の場として沖永良部島を捉える。
沖永良部島には、自己を「もともとエラブの人・地の人」と認識している人々に加え、
沖縄系や鹿児島系を強く意識している人々がおり、多くの場合それらの人々は各々の出自 をアイデンティティの拠りどころとしている。例えば、沖縄系出自には「永良
え ら
部世
ぶ よ
の主
ぬ し
」 の子孫を名乗る「宗そ う」、「 要かなめ」性の親族集団が存在し、これらの人々の始祖とされる人物は 三山時代(14 世紀頃)に遡る。
一方、鹿児島系出自をアイデンティティの拠りどころとしている人々は、薩摩藩直轄領時 代に赴任してきた藩役人を始祖としている場合が多い。鹿児島系の人々は、「先祖は薩摩の
○○代官である」と祖先が薩摩藩の士族であったことを誇りとし、家系図を作成するなど、
祖先の出自への関心は高い。出自は、人々のアイデンティティを形成する重要な要素にな っており、その出自に基づくアイデンティティは沖縄あるいは鹿児島への帰属意識に関連 している1。
以下では、沖永良部島における権力者層の変遷を、沖永良部島が外的勢力に影響を受け 始めた三山時代に遡り通時的に明らかにする。そしてこれら外的勢力よる統治が沖永良部 島民のアイデンティティに与えた影響を、質問紙調査資料やインタビューデータを取り入 れ考察する。
第一節 外部勢力の政治支配と権力構造
1.三山時代(14 世紀頃)〜琉球王国時代(15、16 世紀)
1−1.三山時代
沖永良部島が島外からの政治的影響を受け始めたのは 14 世紀以降であった。それまで は各集落の有力者がそれぞれの集落を統率していたと考えられ、現在でもこれらの豪族に 関する伝説は数多く伝承されている。沖縄が三山時代であった 14 世紀頃、沖永良部島は北 山(山北)王の勢力下にあった。北山王の次男とされる真松ま ち千代ぢ よが、沖永良部島の領主「世よ の主
ぬ し
」として島を治めた。「永良部世の主」は島の祭職である祝女の姪オキヌルと北山王の 間に生まれたとされる。以後、島の統治者としての地位を世襲し、琉球王国時代を経て薩 摩藩直轄領時代中期頃まで世の主の子孫を中心とした沖縄系出自の人々が権力者層を形成 した。
永良部世の主に関する文献史資料は、薩摩藩直轄領時代であった 1706 年に薩摩藩によ る琉球関係の文書や家系図の取り上げ命令2によりその多くが焼却処分となったとされ(和 泊町編 1985:382)、17 世紀以前のものは少ない。しかし、沖縄の万葉集といわれる『おも ろさうし』3の中に、世の主に関する歌謡が 4 首所収されており、古琉球時代に記された貴 重な文献となっている。『おもろさうし』は、12 世紀から 17 世紀にわたって謡われた奄美、
沖縄の島々の古謡ウムイを、首里王府が 16 世紀から 17 世紀にかけて再録し編集した歌謡 集である(外間 1986:127)。
『おもろさうし』に収められた 1554 首の歌謡のうち、沖永良部島の歌が 13 首あり、そ の中で世の主に関する歌謡が以下の 4 首である(訳は外間守善校注『おもろさうし』参照4)。
一 永良部世の主の 選でおちやる 能作 赤で百読の真絹 取てみおやせ 又 離れ世の主の 選でおちゃる (第 13−116)
( 永良 部世の 主、 離れ世 の主 が選ん でお いた芸 事を やる人 、赤 頭部の 若者 たちよ、
美しい絹を取って、世の主に奉れ)
一 永良部世の主の 御船 橋 しよわちへ 永良部島 なちやる 又 離れ世の主の(第 13‐190)
(永良部世の主が、離れ島の世の主が、お船を架け橋に給いて交易をし、永良部島
を立派な島に成したことの見事さよ)
一 永良部世の主の 選でおちやる 土触れ 土触れや 世の主ぢよ 待つよる 又 離れ世の主の 金鞍 掛けて 与和泊 降れて(第 13‐191)
(永良部世の主が、離れ島の世の主が選んでおいた馬の群れの見事な事よ。馬の群れ は、世の主をこそ待っているのだ。世の主は馬に美しい金鞍を掛けて、与和泊にお 降りになったのだ)
一 永良部立つ あす達 大ぐすく げらへて げらへ やり 思ひ 子のため 又 離れ 立つ あす達 大ぐすく(第 13‐114)
(永良部島に出発する長老たちよ、大きな城を造ってあげなさい、愛する王子のため に)
現在知 られ ている 永良 部世の 主に 関する 史料 のうち、『 おもろ さう し』以 外は 、薩摩藩 の琉球侵攻後の 17 世紀以降に記された文献である。主な文献には、1711 年に薩摩藩の命 により沖永良部島の与人(島役人の最高職)3 人と与論島の与人 2 人の連署で藩に提出し た「世の主に関する記録」と与人の西平によって書かれた「世の主由来与人西平調書」(1744 年頃5)、そして 1850 年に世の主の子孫と言い伝えられている宗一族の平安統(当時の身分 は与人格横目)という人物によって書かれた「世乃主かなし由緒書」がある。
それらによると、三山時代(14 世紀頃)、永良部世の主の居城は、沖縄からの連絡船の 往来がよく見える現在の内城集落内にある小高い丘の上にあり、内城集落は政治の中心地 であった。永良部世の主は中山王の三山統一によって自害したとされ(「世乃主かなし由緒 記」(1850)、「世の主由来与人西平調書」(1744 年頃)、その年代は 1416 年頃であるとされ る。世の主の墓は内城集落にあり史跡文化財として鹿児島県より指定されている。また世 の主を祭る「世の主神社」は生まれた場所(下城集落)と居城跡(内城集落)の二個所に あり、世の主の母オキヌルを祭る神社、「花沖神社」は上城集落にある。
1−2.琉球王国時代
三山時代が終結し、中山王によって統一され琉球王国が形成されると、北山王の支配下 であった沖永良部島も琉球王国に組み入れられた。当時の永良部世の主は、自害したとさ れるが、その子らは徳之島に逃れ、後に帰島し、琉球王府より任命される地方官人として
の最高職「大屋子」を継承したと考えられる。「世乃主かなし由緒書」(1850)には、以下 の自害に関する記述がある6。
一…右二就て世の主かなし事頼むなき小島にて鬱々として被成御座候折柄、中 山より和睦の使船数隻渡海有之候由未実否御覧届も不被成、此方事北山此二男 にて候 得バ、中山より軍船ハ相違無之候。左候へば小島を以て大国へ難敵と、
直二奥方を始め御嫡子其外無残御差違へ御自害之由。
読み下し分(右に就いて世の主かなし事頼むなき小島にて鬱々として成られ御座候折柄、
中山より和睦の使船数隻渡海これ有り候由、未だ実否御覧届けも成られず、此方事北山此 に男にて候えば、中山より軍船は相違これ無く候。左候えば小島を以って大国へ敵い難し と、直に奥方を始め御嫡子其の外残り無く御差し違え御自害の由。)
そして、上記の記述に続いて、同古文書には、世の主の子らが徳之島へ逃れた旨、沖永 良部島へ戻り「 直 城ナオシグスク」と名乗った旨が、以下のように記されている。
一 右騒動の砌、男子三歳若主一人、女子五歳之者一人、乳母真升兼
マ ス ガ ネ
と申す もの右両子列上、西原村のあがれ百所え逃越候折柄、西原村の下え徳之島船 着船いたし居り候を頼入、徳之島え罷渡り、己後中山領島相成島中無異相相 治り候に付、島役共より王子迎として渡海いたし候二付き、御帰島被成候得 共、幼少両子にて本城の住居難被成。古城より北二相当り、小高き所へ御館 を構え御直り被成候に付き、今に 直 城
ナオシグスク
と申唱申し候。
読み下し文(一 右騒動の 砌
みぎり
、男子三歳若主一人、女子五歳の者一人、乳母真升兼
マ ス ガ ネ
と申 すもの右両子列上、西原村のあがれ百所へ逃れ越し候折柄、西原村の下へ徳之島船着船い たし居り候を頼み入り、徳之島へ罷り渡り、己後中山領島相成り、島中異相[相違]無く相 治まり候に付き、島役共より王子迎えとして渡海いたし候に付き、御帰島成られ候えども、
幼少両子にて本城の住居成られ難し。古城より北に相当り、小高き所へ御館を構え御直り 成られ候に付き、今に 直 城
ナオシグスク
と申し唱え申し候。)
続く記述には、琉球王国時代に永良部世の主の子孫、直城は、中山王のとりたてにより 島の最高の官職である大屋子を代々務めた旨が記されている。
一 右直城の子孫の上中山王御取立にて代々大屋役仰付相勤来り候由。依之 当分私迄も島中のもの大屋子孫と唱申候。尤大屋役何代相勤申候哉不詳候。
読み下し文(一 右直城の子孫の上、中山王御取立にて代々大屋役仰せ付け相勤め来たり 候由。これに依り当分私迄も島中のもの大屋子孫と唱え申し候。尤も大屋役何代相勤め申 し候哉。詳らやかならず候。)
永良部世の主の子孫は居を 直 城
ナオシグスク
にかまえ首里王府が任命する地方領主の官職「大屋子」
を担っていたので「 直 城ナオシグスク大屋」と名乗っていたと考えられる(先田 1997:8)。これらの ことは、後述する 要かなめ家所蔵文書7(神戸市在住の要章夫氏所蔵)によっても裏付けするこ とができる。
また、永良部世の主の子孫が統治者の地位を世襲したことは、徳之島に存在する文書か らも検証できる。永良部世の主の子孫で、琉球王国時代末期(中世末)の沖永良部島の大 屋子は徳之島の大屋子が死去したため、徳之島大屋子の職を兼任した時期もあった(坂井 1933:25)。この件に関しては、佐家大殿地蔵「雑書由緒記寫」8(1866)、「徳之島世の主 由緒書(寶満家系図)」9、「八十八呉良謝佐栄久由緒記」10に記述がある。「雑書由緒記寫」
には、
千時慶應二年寅十月寫之
徳之島 伊仙村
佐家大殿地 蔵 …徳之島大親役致死去従琉球右跡役被召立迄之間沖永良部大親役両人在之
為差引致往来當島旧大親後妻縁組子共致出生候…
読み下し文( …徳之島大親役死去致し、琉球より右跡役召立らる迄の間、沖永良部大