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「日本/沖縄」の境界性−
はじめに
本章では、「日本ヤ マ ト/沖縄ウ チ ナ ー」の境界性という視点から、沖永良部島民のアイデンティティを 考察する。本章における「日本/沖縄」の境界は「ヤマト/ウチナー」すなわち「ドミナ ント/マイノリティ」の境界である。本論での沖縄の捉え方に関しては、第一章で詳述し たとおりであるが、「日本/沖縄」の境界は、日本という近代国家の形成に伴い輪郭を顕わ にし始め、日本・沖縄関係の歴史的経緯により形成されてきた。沖永良部島民は、この境 界においてもあいまいな位置にあり、複雑で多様な意識を形成している。例えば、島民は 沖縄に親近感をもつ一方で、沖縄を差異化する傾向にある。他方、ヤマトンチュとウチナ ンチュの両方に属しているようで、完全にはどちらにも属していないようなアイデンティ ティをもっている。また、沖縄の人に比べ、沖永良部島民は、本土に対し肯定的で、日本 人、「大和民族」としての意識に抵抗は少ない。島民にとってヤマトンチュと日本人は同義 ではなく、それぞれ、ヤマトンチュとして、日本人としての意識も別々の過程で培われて いる。
「日本/沖縄」の境界性を反映する沖永良部島民の多様なアイデンティティは、日本が 明治以降、近代国民国家への道を歩み現在に至るまでの、沖永良部島と「日本」、そして沖 永良部島と「沖縄」の関係の歴史の中で形成されてきたと考えられる。日本という国家に 組み込まれ、近代化や大戦という時代の波を経験し帰属の問題に直面しながら、沖永良部 島民が自己と他者をどのように認識し、また同時にどのように認識させられていったのだ ろうか。
以下では、日本国家に組み込まれた沖永良部島の社会的位置付けとそれに伴うさまざま なアイデンティティの形成過程を、明らかにしていく。そして、現在のアイデンティティ のあり様を質問紙調査とインタビュー調査に基づく資料から考察する。
第一節 近代
1. ヤマト、エラブ、ウチナーの関係史
明治維 新に よる集 権的 な中央 政府 の形成 に伴 い、 中 央 政治か ら離 れた沖 永良 部島も、
大きな変動の影響を受け、従来の政治体制が変化していった。近世の幕藩体制以降、沖永 良部島は薩摩藩の直轄領であったが、一方では、薩摩藩直轄領時代にも中国から琉球への 冊封使渡琉の際の食料支援や慶賀使の勅使など琉球王国との関係は断絶されていたわけで はなかったことはすでに述べた1。しかし、薩摩藩の直轄領地から段階を経て鹿児島県の一 部として日本という国家に組み込まれていったため、沖縄県との行政的な側面での関係は 希薄になっていった。
沖永良部島における中央集権国家への統合は、「沖永良部島代官系図2」によると、太政 官による告示「今般王政復古御維新に付御改正被仰出、旧弊一洗し公平廉直の御仕置き成 り代官所を在藩所と改め、上下の区別なく一般平民となす。五百年代始めて一統の世に帰 したり。各々安堵すべし」に始まる。この告示は、1869(明治 2)年 4 月に赴任してきた 代官、面高与蔵によって告示された。これにより、役人の名称は、代官が「在番」、横目が
「検事」、附役が「筆者」と改称された。1871(明治 4)年 7 月廃藩置県により薩摩藩が鹿 児島県となったことに伴い、沖永良部島は 1872(明治 5)年に鹿児島 39 大区となり、検事は
「監督掛」、筆者は「在番付属」と改められた。1875(明治 8)年 4 月 17 日、鹿児島県少属 小宮敬次郎が来島し、翌 18 日「詰役引取方」は令書にて諭告され、在番所を切封の上、戸 長にこれを預け、184 年間続いた藩政時代は事実上終った。新しく仮屋には、大島大支庁 の沖永良部支庁がおかれ、島役人の最高職「与人」は「戸長」と改称され、当時の沖永良 部島の与人土持政照はそのまま戸長となり支庁勤務を命じられた。琉球処分の年、1879(明 治 12)年 は、沖 永良 部島に は郡 制が布 かれ 、大島 郡の 一島と して 大隅の 所属 となっ た。
1908(明治 41)年に島嶼町村制が布かれ沖永良部島は和泊村と知名村に区切られ、現在の和 泊町、知名町という行政区画の基礎となった(操 1921)。
他方、薩摩藩の島津氏による琉球侵攻後、清国と薩摩藩への両属体制を続けていた琉球 王国は、帰属問題に関する清と日本の政治的駆け引きの間で紆余曲折を経て、1879(明治 12)年に明治国家に編入された(琉球処分3)。琉球王国から琉球藩4、そして日本の県の一 つ沖縄県へと段階的に組み入れられることとなった。そのプロセスの中で、琉球は奄美に
対して無関心であったわけではない。1872(明治 5)年 7 月、明治政府は琉球に王政一新 の慶賀を理由に上京を命じた。琉球からは、伊江王子朝直が王政一新祝賀正使、宜野湾親 方朝保が副使として上京し、9 月 14 日に明治天皇に拝謁した。明治天皇は、「尚泰を封じ て琉球藩王となし、華族に列す」との詔を下し、琉球王国は琉球藩とされた。この時、帰 国に先立ち伊江王子たちは外務卿副島種臣と会見し、「薩摩の支配下にあったときは、住民 はその苛劔にたえきれないで、ひどく疲弊した。現在は天皇の直接支配下におかれたので あるから特旨を垂れて負担を軽減され、その上、大島・喜界が島・徳之島・永良部島・与 論島はもと琉球の管轄であったものが、慶長の役で薩摩に押領されたもので風俗習慣はい まも沖縄と同じであるから、復属させてもらいたい」と訴えた。それに対し、外務卿は「こ れらは事重大であるから閣議を経た上で処置する」と暗に断ったが、伊江王子たちは希望 が聞きいれられたものとして歓喜したという(宮城 1968:152)。その後、1879(明治 12)
年に、琉球藩から沖縄県とされた際にも、琉球は奄美諸島の返還を求めたが、意に解され なかった。これが、1609 年の薩摩藩の琉球侵攻によって奄美諸島が薩摩藩直轄領となった 事象に続き、第二回目の沖縄と奄美の「決別」の分岐点となった5。
日 本 に 組 み 込 ま れ た 旧 琉 球 王 国 の 沖 縄 県 の 住 民 と 薩 摩 藩 直 轄 領 で あ っ た 奄 美 諸 島 の 住 民は、以前と変わらぬ土地に生活し続けながらも、日本という国家の枠内においては人口 的、政治的、文化的に少数者としての位置づけに甘んじることを余儀なくされた。
薩摩藩時代には禁止されていた沖永良部島の本土との同化6も、国民国家創出とともに中 央への応化へ向かっていった。そのような中で地方のなまりを多く残す方言も次第に否定 されていく。1876(明治 8)年、沖永良部島に初めて和泊集落に仮学校が、その後 1878(明 治)10 年までには全島に合計 17 校の小学校が新設された(西久保紀林 1879)。全国的にも 標準語使用が強調されていたため、学校は全国に通用する標準語を指導していた。和泊小 学校の『創立百周年記念誌』(1977)によると同小学校では明治 40 年に「方言普通語対照 表」を掲示している(和泊小学校記念誌編集委員会編 1977:19)。また、『和泊町誌−歴史 編−』には、明治 43 年に大城小学校に入学した花田吉輔(男性・明治 36 年生)の体験が 紹介されている。当時は「方言札」という長さ 35 センチほどの長方形の「方言を使いまし た」と書かれた木札があり、方言を使用したものは首からぶら下げていなくてはならなか った。方言札は、誰か他に方言使用者を見つけるまでぶら下げなくてはならず、見つから ない場合は 3 日でも 4 日でもぶら下げていなくてはならなかったという。方言使用者のそ の他の罰則には、掃除当番、習字用の水汲み、水配り、用済み墨水の処理、便所掃除があ
ったという。さらに最高の罰則として当時の生徒たちが最もいやがったという罰に、男女 同じ机腰掛けに座らせるというものがあったことが記されている。また『創立百周年記念 誌』(1977)には、卒業生の小学校の思い出が綴られているが、その中で大正 3 年に和泊小 学校に入学した I さんの文章から、そのころの教師も標準語を使いこなせなかったため、
方言と標準語を織り交ぜての授業であったことがわかる(和泊小学校記念誌編集委員会編 1977:62)。
またその他にも、新しい時代にそぐわないと、刺青、ユタ、風葬などの慣習が禁止され、
年中行事であったシニグ祭り7は明治 5 年、十五夜8、ナンカビは明治 11 年に廃止となった
9。上からの伝達事項に対し、島の指導者たち自らも、近代化に向け「伝統的」慣習を改め ようとした。
昭和になると皇民化政策10が激しさを増していく。沖縄県では、他県の師範学校 に先 ん じて、1887(明治 20)年に「御真影」が沖縄県尋常師範学校に配布されるなど(阿波根直 誠 1983:82)琉球処分の過程の中で本土との同化が進展していったが、沖永良部島は鹿児 島県の一部として本土同様に日清戦争後この傾向は顕著になっていったようである。
1927(昭和 2)年 8 月 6 日、7 日、8 日の 3 日間にわたり、昭和天皇の奄美大島行幸がな された(伊勢 1985:653)。昭和天皇は、1926 年 12 月 25 日に即位しており、即位後間もな い行幸であった。奄美大島南部の古仁屋には、日本有数の要塞基地がありその視察も兼ね ていたであろう。だが天皇の即位直後の「離島訪問」には、奄美が十分本土化されていな い本土化の必要な地域であり、皇民化急務の地域であったとみなされていたという解釈も 可能である。
天皇の奄美行幸は沖永良部島を含めた奄美の人々に大きな影響を及ぼした。6 日に名瀬 港に上陸した天皇を、松本学鹿児島県知事、中島楽大島支庁長をはじめ奄美出身の各界功 労者、そして北大島、喜界島の住民が港を埋め尽くし、日の丸の旗を振り熱狂的に歓迎し た。7 日には、瀬戸内町古仁屋において沖永良部島、南大島、徳之島、与論島の市町村長 並びに郡民がこぞって奉迎した。
沖永良部島出身者である武山宮信が発行していた季刊雑誌『奄美』の昭和 2 年 9 月 1 日 号は、行幸記念号として特集を組んでいる。同誌に沖永良部島出身者で、地方自治功労者 として、大島支庁および古仁屋要塞司令部において、特に列席拝謁を許され菓子を下賜さ れた人物の名が記録されている。それらは、沖元鋼(元和泊村長)、沖島曾徳(和泊村長)、
武山宮信(鹿児島朝日新聞社)、東仲一(赤木名校長・後の米軍施政権下時代の和泊町長)、