1問題意識
第1章で述べた持続可能性を低下させる3つの要因のうち、本章では政治(有権 者)の政策決定過程における誤りに注目する。前章で確認したように、公的年金の政 策パラメータには、過大な給付や長寿化の考慮不足などの持続可能性を低下させる問 題があった。本節では、それら政策パラメータに関する誤りがどのような政治的な過 程の下で決定されたかを分析し、年金制度に関する決定過程の問題を指摘する。
本章は、(1)1942年から2004年までの制度改正に関連する資料・文献を事例分析し1、
(2)それぞれの制度改正で政策パラメータが改定された背景を分析して、(3)これまで
の決定過程を類型化することを目的としている。第2節では、制度創設以降の制度改 正について政治的な背景を整理する。第3節では、特に給付削減が連続して「逃げ水 年金」と呼ばれた1985年以降の改正に注目し、持続可能性の改善が順調に進まなかっ た原因を分析する。最終節では、まとめとして問題の所在を明らかにする。2年金改革の政治的な背景
本節では、個々の制度改正の政治的な背景を振り返る2。前章と同様に、①1942年 の制度創設以降、②1954年改正以降、③1973年改正以降、④1985年改正以降、および
⑤2004年改正という大きな節目で分けてみていく。
2.1戦時下の創設から戦後の暫定措置(制度創設〜1948年改正)
厚生年金の前身である労働者年金は、戦時下の1942年に創設された。前章でも述べ たように、老齢年金の受給資格期間は20年以上で、支給開始年齢は55歳であった。保
険料率は平準保険料方式で計算された6. 4°/。で、これを労使折半していた。終戦の前
年に当たる1944年に厚生年金として改正され、適用事務所が拡大されるとともに、女 子・職員も対象者にした。また、鉱業法、工場法の扶助関係法規を吸収して、業務上 災害を厚生年金で給付することになり、保険料率は11%に設定された。厚生団(1988)によれば、労働者年金が創設された第1の理由は、厚生省主導による
本章の基礎となった論文の作成にあたり、参議院厚生労働委員会調査室より資料及び助言をいただいた点に心
から4惑謁『しま一す。
z改正に伴う政策パラメータの変更については重要な点のみ記述した。詳細は第3章を参照されたい。
58第II部分析1:なぜ逃げ水年金になったのか
社会保険制度整備の一環だとされている。ただ副次的な要素として、坑内夫の労働意 欲向上やインフレーション対策などの当時の国家的要請が、制度の成立に寄与したと
も述べている。
戦後、厚生年金では遺族給付や障害給付の必要性が高まるものの、一一方で老齢給付 は受給者がまだ発生しない状況にあった。また、大幅なインフレーションなど社会や 経済が混乱する状況の下で、遠い将来である老齢年金制度への保険料納付は滞り、未
納事業所が急増した。
そこで1947年改正では、労働災害補償保険法の成立に伴い業務災害給付が分離され、
保険料率が男子9.4%、女子6.8%に引き下げられた。続く1948年改正では、保険料率 は暫定的に3.0%に引き下げられ3、障害給付と寡婦年金についてはインフレーション に対応するために物価スライドが導入された。その一方で、老齢(養老)年金の給付 額は1200円に固定され、老齢給付は「冬眠」あるいは「凍結」と呼ばれる状態に入っ
た。
このように1940年代から1950年代前半までは、戦後のインフレーションへの緊急対
応のための暫定措置に始終した。
2.21954年の全面改正とその後の給付改善
2.2.11954年改正:2階建てへの転換と暫定保険料率の据え置き
1954年改正は、2階建て年金、段階保険料方式、支給開始年齢の60歳への引き上げ という現在の年金制度の原形を形成した重要な改正であった。1954年改正で注目すべ きは定額部分と報酬比例部分のバランスであり、相対的に定額部分のウェイトを高く、
強く所得再分配を意識した設計となった4。また支給開始年齢は、寿命の延びにあわせ て55歳から60歳(男性)に引き上げられた5。改正時においては、労働組合は20年後の 60歳定年の普及を展望して引き上げに賛成した6。しかし、実際には1980年においても 60歳定年は実現しなかったため、労働組合は支給開始年齢の引き上げに対して強く反 対するようになり、1980年改正以降に試みられた支給開始年齢引き上げの大きな障害
3劣悪な経済状況のなかで、未納事業所が増加したこと、急激なインフレのなかで高い保険料を設定して積立金 を蓄積しても実質価値が目減りすることなどが理由である。
4定額部分は加入期間に関係なく、年額24000円で一一一律であった,、厚生省年金局(1995)参照。また、定額部分を 充実した理由については、厚生省年金局(1973)によると「当時すでに老齢年金の受給者が発生していたにもかか わらず、その年金額が非常に低く早急な手直しが必要であったことと、被保険者期間が短く、しかも第.款大 戦後のインフレーションによってその価値が非常に低くなった 1 E均標準報酬月額しか持たない受給者に、乏し い財源をより効果的に活かして意味のある給付を与えようとすることへの一つの解決策として考えだされた」
としている。
1954年当時の平均寿命は男子63.6歳、女子67.7歳。
厚生省20年史編集委員会(1960),pp.497−498。
第4章決定過程の問題59
になった。
2.2.21960年改正以降の給付引き上げ
戦後復興が終わって高度経済成長に突入すると、政治環境はいわゆる「55年体制」
となり、自民党と社会党が対峙する時代が続いた。しかし、年金においては、自民党、
社会党ともに拡充という方法性は同じであり、両党から皆年金に向けての政策が提示 された。また、公的年金制度が職種によって分立したため7、厚生年金と細分化した 各共済年金制度、国民年金という制度間で、あたかも給付引き上げ競争のような状況 が発生した。結果として、負担の引き上げが不十分なまま給付が引き上げられ、年金
財政の持続可能性が低下した。
1960年改正では報酬比例部分の給付乗率が引き上げられ、十分な給付をするために 保険料率の引き上げが不可避となった。しかし、すでに大企業で整備された退職金・
企業年金と厚生年金との調整の問題もあって企業が保険料率引き上げに反対したた
め、小幅な引き上げにとどまった。
1965年改正では、企業側の強い要望により、厚生年金の本体部分と企業年金を調整 するために厚生年金基金による代行制度が導入された。また、給付については、ILO 基準を満たすという意味合いとわかりやすさという意味から20年加入を前提に1万
円年金の達成が目標とされた8。国庫負担が従来の10%から20%に引き上げられたもの の、当面の保険料は国会審議により政府原案よりも引き上げ幅が抑制された。
1969年改正では、モデル年金を2万円に引き上げる改正が実施された9。一方で、保 険料率の引き上げは不十分であったため、上昇した平準保険料との乖離が広がる状態
となった。
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公務員の特殊性を重視する人事院が主導して、国家公務員については1948年に国家公務員共済法が、現業分野 の公共企業体職員にっいては1956年には公共企業体職員等共済組合法が制定された。さらに、国家公務員内部 における恩給対象者と共済年金対象者が存在する二重構造を克服するために、1958年に新国家公務員共済組合 法が制定され、恩給・共済年金併用方式から共済年金方式に統一一された。地方公務員には統一的な年金制度が なかったが、新国家公務員共済法の成立を受けて、これと整合性を取る趣旨から1962年に地方公務員共済組合 法が制定された。一方、戦前より恩給財団から退職年金や退職金が支給されてきた私学教職員については、国 公立学校教職員とのバランスをとるために、1954年に私立学校教職員共済組合法が制定された。さらに、農業 協同組合や漁業協同組合の役職員は、従来厚生年金が適用されていたが、市町村職員や学校職員と類似した職 務環境にあるという理由で厚生年金から独立し、1958年に農林漁業団体職員共済組合法が制定された。この時 点で社会保障制度審議会は、1952年12月23日付の「厚生年金保険、公務員恩給、軍人恩給等年金問題に関する 件」で年金制度の分立固定化に反対を明らかにしている。さらに1953年勧告では「各職域を通じ、かっ、被用 者たると自営者たるとはとわず、一一一一切の労働を通じた年金制度の積立が望ましい」とし、被用者に加えて自営 業者も包括する総合年金制度や最低限度の生活水準を保障する年金を主張した。しかしながら、所管する各官 庁の利害などもからみ、制度の分立を食い止めることができなかった。
8 国民年金は1966年に改正があり、1人あたり200円×25年で5000円、夫婦で1万円年金となった。保険料は、1967 年に35歳未満200Fj、35歳以上250円、1969年に35歳未満250円、35歳以上300円となった。
9 国民年金では、将来の所得比例年金への移行を展望し、国庫負担を伴う積立方式の任意の付加年金が導入され た,,しかし、付加年金は今日までインフレスライド機能は持っていない。