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第三章   武田孫平治「略日記」の世界

二   武田家の家普請

賜郡六か村は米沢藩の預地になっていた。幕藩体制下において、大藩の場合は広域的な一円領地になっているが、数万石程度の大名領は分散することも少なくない。それを入り組み支配というが、関東や出羽国村山郡、陸奥国信夫・伊達郡はその入り組み支配が顕著な地域であった。織田家が入封した当時、孫平治は四七歳だから、おそらく村役人として受け入れに奔走したに違いない。織田家からは四〇〇人余が移住し、このうち侍分は一〇五人だったという

のは、そこが同じ織田家の領地だったからである。天童周 化七年(一八一〇)、軍太が天童に進出して道場を開いた は、武田軍太の剣術活動にも大きな影響を与えている。文 織田家が置賜郡のほかに村山郡天童に所領を得たこと る。 幕府に願い出て、文政一一年(一八二八)に許可されてい なった。そのため織田家は、天童に陣屋を移転することを 上が天童周辺になったことから、天童陣屋の役割が大きく た。置賜郡六か村は残ったが、藩の領地のうち四分の三以 信夫郡三か村が除かれて出羽国村山郡に知行高が増やされ の後、寛政一二年(一八〇〇)に領地替えがあり、陸奥国 たが、主陣屋は高畠に置かれ、天童は出張陣屋だった。そ 。石高からみれば村山郡のほうが三倍近く大きかっ 1 ている。 辺における軍太の活動については、論説編第二章で紹介し

記事である。「一、広間上段、二ノ間普請、宝暦二申年、是ハ上段八畳ノ間、二ノ間七畳半ニ而狭く候付、立替也」享保の家普請では広間上段(座敷)は八畳、二ノ間は七畳半の広さだったが、手狭なので宝暦二年(一七五二)に立て替えて広くしたとある。この立て替えが屋敷全体なのか、広間上段と二ノ間部分だけなのかは不明である。同家では築三〇〇年と伝えられているので、これは享保七年普請のことを指すと思われるが、現在武田家に残る母屋の座敷と二ノ間は、いずれも一〇畳である。したがって、少なくともこの座敷と二ノ間は宝暦二年の造作だとみてよいだろう。論説編第二章でも紹介したが、武田軍太の時代、道場訪問者との剣術試合では、しばしばこの座敷と二の間を開け広げ、道場としても使っていたことが「実録」に記されている。なお、家作の記事としては、寛政三年(一七九一)に、土蔵を北へ二間四尺(四メートル八〇センチ)ほど引いたとある(二七一頁)。このときは、鳶が五人と村方と親類の手伝いが二五人ほど集まって土蔵を動かしている。

三   天明の飢饉について

1.天明三年の状況

天明三年は世に稀なる大凶作だったが、「略日記」によると宝暦五年以来、足かけ二九年ぶりの大違作になったという。宝暦飢饉のときは米沢藩預所だったので、年貢を納めずに置賜郡中で三五〇〇石の飯米確保を藩に要請した。これを受けた郡奉行が江戸に登って幕府から許可を取り付けている。わずかな出来米を年貢で取ってしまったのでは農民の飯米が確保できない。郡奉行としては預所領民の命を守るために、必死で幕府の役人と交渉したに違いない。年貢未納分は三〇五〇両分にあたるが、置賜郡中一八か村の村役人たちが宝暦八年の正月に江戸に出向いて、未納分返済について交渉している。帰村したのは、その年の九月から一〇月にかけてであった。幕府側も簡単に応じてくれるわけではないから、長期間に及んだようだ。その結果、二三か年賦で分納させるということになった。その後の毎年の年貢にこの年賦分を上乗せして上納するという約束である。その年賦をようやく返済したばかりなのに、また大

凶作になったことから、後年のために凶作の状況を書き残すということで、この「略日記」が残されたのである。天明三年の作況は、次のように記されている。五月中旬までに田植えは終わったが、一番草を取るころから雨が降り続き、土用中(旧暦六月)には涼しくなって、その後もますます冷気が強くなった。出穂が遅れて、刈り入れは九月下旬からになった。雪も降って稲刈りが終わったのは一一月一〇日だった。米の実入りも悪かった。とくに山中は皆無作同然で、市場にも売米がまったく出てこないので、買い食いの者たちが渇命に及んでいる、とある。買い食いの者というのは米を自給できず、購入している人たちのことである。見かねた有力者たち(佐藤利左衛門、金子角右衛門、長谷川平内、富樫六右衛門、佐藤善吉、新藤甚兵衛、武田孫右衛門、同孫左衛門、それに筆者の孫兵衛ら)が、それぞれ米一、二駄(一駄は二俵)ずつを、折々に売り米に出したという。凶作とはいえ多少の収穫はあることから、新米が市場に出回ると、かなりの高値になっていった。近国も大凶作だから、食を求めて非人・乞食がたくさん流れてきたが、施しをする者も少なく、道路をさまよっている、不憫なことだ、とある。行き倒れになった人たちも、たくさんいたに 違いない。干魃でも多雨でも悪作は飢饉になるので、不順な気候になれば、米穀を油断なく囲っておくことが肝要だと、備蓄をして飢饉に備える心構えを書いている。天明の大飢饉を経験したあと、寛政の改革で幕府は、幕府領および諸藩に対して穀物を備蓄する社倉・義倉の設置を命じているが、村方でも独自に飢饉に備える意識が整いつつあったことがわかる。天明三年七月(旧暦)に浅間山が噴火した記事もある。火砕流に多くの人家や人々が流され、犠牲になった。一五〇〇人ほどが犠牲になり、田畑の損耗も甚大だった。降灰の記録は、浅間山から四〇〇キロメートル離れた東北でも確認されている。「其頃、当地への砂ふり、草木之葉、一円白く成ル」とあるように、当地にも火山灰が降ったことがわかる。(二四九頁)。奥羽地方の気候不順による凶作は、地域によっては一七七〇代から始まっていたが、火山灰が空を覆ったことから、日照不足を加速させ、冷夏の一因になったともいうことができる。この地域での飯米を確保するために、米穀の「津留」もおこなわれた。「津留」は一般に、領外への移出を防ぐために、河岸や港からの積み出しを禁止することである。河

川舟運といえば最上川であり、米沢藩も最上川を利用して年貢米を酒田に送り、そこから北前船で上方に移出していた。高畠藩でも同様だっただろう。このときの「津留」が、どのような範囲で実施されたのかはわからない。「略日記」には「米穀津留、一統被仰付候所」(二四九頁)とあるので、役所からの通達があったことがわかるが、高畠藩六か村だけで実施しても範囲が狭いので、効果はない。近隣は米沢藩領が多かったから、所領を越えた置賜郡一帯の処置だったのかもしれない。隣の村山郡では天明の飢饉に際して、やはり村山郡中で幕府領・私領を越えた連携がとられ、最上川の河岸場で「郡中議定」による「津留」が実施された。陸路も同様に「穀留」がおこなわれている

とでもあった。村山郡の事例からいえば、抜米をしていた 高騰に拍車をかけるが、それは高利販売が可能だというこ 大量に領外へ販売されていたことがわかる。米不足は米価 (二四七頁)とあるので、監視の目をかいくぐった抜米が ぬけまい がなされたに違いない。しかし、「むくり米、多分有之由」 これあるよし 陸路は、仙台藩とつながる七ヶ宿街道の国境でも「穀留」 (河岸)があったので、そこでの「津留」が想定される。 目(高畠町)、宮(長井市)、荒砥(白鷹町)などの舟着場 。置賜地方の最上川には、糠野 2 一般百姓も少なくなかった。

2.天明四年の状況

  前年の天明三年の大凶作の結果、その年から翌年にかけて米価が高騰した。そこで近在の村役人らが相談して、次のように粥の施行を実施している。窮民救済である(二五二頁)。二月二〇日~三月二三日  安久津の金蔵院、毎日二〇〇人来る二月二〇日~三月一〇日  亀岡の西来院、毎日一五〇~一六〇人来る三月二四日~五月五日   中里の地蔵堂三月一一日~(一〇日間)  佐沢の宝泉寺三月二〇日~同二六日  大聖寺(亀岡)三月二七日~五月五日  亀岡の西来院大凶作だった前年天明三年の米価は一俵につき二貫文から三貫文だったが、同四年には急騰し、五月から六月にかけては五貫文から六貫文になっている。七月に入ると、越後米や米沢米、酒田米などが来るようになって米価も少しばかり下がっている。米商人たちが必死で買い集めてきた

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