第二章 武田軍太「武元流剣術実録」の世界
二 武田家と剣術道場
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.初代・孫兵衛本書冒頭に記された家伝によると、武田家の始祖は甲斐源氏の流れをくむ武田義清とある。義清九代目の一條九郎信行のとき出羽国高畠に移り、その子孫は「庶人」として農業に従事してきた。小郡山村武田家の初代は孫兵衛である。「実録」とは別の「小郡山武田家系譜図」(南陽市赤湯 後藤光司氏作)によると、孫兵衛の生年は不明だが、没年は宝暦五年(一七五五)となっている。泉岡村の武田孫右 衛門家から分家したとある。孫右衛門は泉岡武田家の三代目とあり、小郡山武田家の孫兵衛は孫右衛門の弟であった。系図作者の後藤光司氏は、武田家の過去帳や伝承などをもとに系図を作成したというが、その孫兵衛の項目には次のような記述を添えている。「孫兵衛 宝暦五年八月八日亡 小郡山武田氏の祖。宝永二年、小郡山村名主をツグ。享保十九年分家創立と伝えられるが、長男がそれ以前死亡している故、疑問もある。」初代孫兵衛は宝永二年(一七〇五)に、小郡山村名主を継いだとある。また孫兵衛の長男が分家創立の前に自死したという伝承もあることから、系図作者の後藤氏は、享保一九年の分家創設という伝承とは辻褄があわないと疑問視している。次の二代孫平治との関係からみると、分家は、宝永二年かそれ以前のことだと考えられる。
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.二代・孫平治初代孫兵衛の跡継ぎは故あって自死したため、本家の泉岡村武田家から養子を迎えた。それが二代目の孫平治である。享保二年(一七一七)生まれで、文化元年(一八〇四)
に八八歳で没した。泉岡武田家の「日渡日記」には、「孫平治十八歳の時、小郡山弟孫兵衛方え名跡ニ指渡し」とあるので、養子に入ったのは、享保一九年または二〇年ころのことになる。初代孫兵衛の系図にある享保一九年分家創立というのは、これを指しているのかもしれない。孫平治の嫁は、下和田村(高畠町下和田)の喜内の娘を迎えている。その二代目孫平治が書き残した「略日記」(本書史料編
(一八二六)までの記事が収載されているので、没後は別 れる。孫平治の没年は文化元年だが、断続的に文政九年 り立ちに責任をもつ村役人だからこその役割意識だと思わ の凶作時の参考や教訓として記されたのだろう。地域の成 による年貢減免と救済措置なども含まれているから、今後 ある。災害記事は被害の状況だけではなく、領主や村役人 どの災害記録をはじめ、江戸や京都の大火事などの記事も た。天明年間の凶作・飢饉時の作況や米価、地震や火事な 孫平治は、この「略日記」にさまざまなことを書き残し うことになる。 孫平治が養子に入る前に武田家の家普請がおこなわれたい ある。享保七年(一七二二)に家普請をしたというから、
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)には、「一、当家普請享保七寅年也」(二四九頁)と 人によって補筆されている。3
.三代・孫兵衛(鳥海山人)武田家三代目の孫兵衛は、元文三年(一七三八)生まれ。のちに鳥海山人と号した漢学者である。幼いときから学問を好み、詩文をもって海内第一となることを期したという。一九歳で名主役を継ぐが、のち江戸に出て漢学者の清河清明に学び、帰郷して鳳鳴館を設けて門人に漢学を教授した
選などを講釈したという。このとき、学問師範の褒美とし たが、若君には月に六度、屋敷に召し出されて論語や唐詩 ている(三〇〇頁)。それ以前から藩士への講釈はしてい 主若君庸之助の「御学文師範」を仰せ付けられたと記され (一八〇四)に息子の孫兵衛が高畠藩の屋敷に招かれ、藩 孫平治の「略日記」には、より具体的に、文化元年 ても迎えられたとある。 新館」と改称)を創設したさいには賓師(客分講師)とし 化九年(一八一二)に上山藩が学問所「天輔館」(のち「明 三)、六五歳のときに地元の高畠織田藩の儒臣を務め、文
「実録」には、孫兵衛(鳥海山人)が享和三年(一八〇 。一〇〇人ほどの門人がいたという(一一四頁)。 2て「御中小姓之格」を与えられ、武士身分になっている。その直後に、若君庸之助が鳥海山人主催の学館「鳳鳴館」に来臨したとある。学文師範の礼と士分取り立てを祝してのことだろう。名誉なことである。孫兵衛は伊藤仁斎と荻生徂徠の学を説いたというから、思想史でいう古学派だったのだろう。「実録」には、上山藩からは終身の秩(禄)を賜ったという記事もある。かくして孫兵衛は、村役人をしながら二つの大名家の学文師範となった。学者としても名声を博したのである。身分制社会ではあったが、才能のある知者を遇する社会でもあったことに留意しておきたい。天保二年(一八三一)、九四歳で没した。孫兵衛は学問だけではなく、武術もたしなんでいた。「実録」には、孫兵衛が武芸にも秀でていたことをうかがわせる記述がある。地元で始めたのか、江戸遊学中に修行したのかは不明だが、学問一筋ということではなかったようだ。だからこそ、剣術好きな息子の源之進のために自宅に道場を設けたのだろう。道場創始の年代は不明だが、源之進が十代になってからだろうから、孫兵衛がまだ三十代あたりのことである。明和~安永年間(一七六〇~七〇年代)のことだと思われる。 道場を開いた孫兵衛は、米沢藩士で心地流(心知流とも表記する)の田代進右衛門資盈を師範として招いた。心地流は、同藩士である須藤兵八郎(平八郎とも記す)久利の創始になる。「実録」によると須藤兵八郎は、三富流の免許(印可)を持っていたが、諸流と試合をして独自の工夫を加え、新たに心地流を興したという。その子、須藤七右衛門久紀が名跡を継ぎ、七右衛門の門人に田代進右衛門がいた(二三四頁)。その田代を孫兵衛は、みずから創った道場に師範として迎えたのである。村役人だとはいえ、百姓身分の孫兵衛が剣術道場を開くことに社会的な批判、とくに武士層からの批判があった様子はまったくない。それどころか、米沢藩士の田代進右衛門が剣術師範として出向いてきたほどであった。在村道場に身分的な違和感がもたれていなかった証拠にもなる。孫兵衛が開いた道場では、六人が稽古を始めた。息子の源之進と、その弟の魁助のほかに、泉岡村の武田孫右衛門の悴孝蔵、同じ村の武田孫左衛門、さらに隣村安久津村の佐藤善吉の聟の善蔵、高畠荒町の新藤甚兵衛の聟京助である(一一四頁)。泉岡村の孫右衛門は小郡山武田家の本家にあたり、同村の名主であった。同村武田孫左衛門は、その分家になる。安久津村佐藤善吉も同村の名主である。高
畠荒町の新藤甚兵衛は、醤油醸造の商家であったという。これをみると、武田家の同族、近隣の名主家、町場の商人であり、いずれも地域の上層の家柄であった。武田家の息子たちも若いが、ほかの者も当主の悴や聟たちである。懇意にしていた親たちが、子どもや若い聟のために修行の場をつくったということだろう。
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.四代・源之進四代目源之進は、宝暦七年(一七五七)に生まれ、文化一〇年(一八一三)に没した。諱は福重(二四一頁)。幼少のころから武芸を好んだため、父の孫兵衛が自宅に道場を建てたほどである。父子して、剣術には相当に入れ込んでいる。その師範となった米沢藩士の田代進右衛門は、五年ほどで交替した。後任は、幕府領だが米沢藩の預所になっていた川井村の堤柳助である。堤は剣術が上手だとの噂を聞いて、源之進と弟の魁助、安久津村の佐藤善蔵、それに高畠藩御用人大橋吉兵衛の悴である司の四人で師範になるよう頼みに行ったとある(一一八頁)。このころには、高畠藩家中の者も武田道場に出入りしていたことになる。堤柳助も心地流の免許所持者だが、米沢藩士だとの記事は「実 録」にはない。川井村在住とあるので、在村の庶民剣士だった可能性が高い。堤柳助が武田道場の師範になってからは、高畠藩士の門弟が増えた。高畠藩士の学文師範をしていた孫兵衛(鳥海山人)が、堤柳助は剣術が上手だと家臣たちに吹聴したからである。やがて堤は、高畠藩にも師範として迎えられている。堤は一三年の間、月に六回、朝の五つ時(午前八時ころ)には武田道場に現れたという。夜明けとともに川井村を出て小郡山村まで通ったのである(一一九頁)。武田源之進が心地流の免許を受けたのは寛政六年(一七九四)、三七歳のことである(二三四頁)。このとき源之進は堤柳助の門人だったが、先代の師範であった田代進右衛門から堤に対して、自分の名前で源之進に免許を出したいとの依頼があった。それを堤が認め、田代から源之進に免許がなされた。免許を得たことを機に源之進はその翌年、剣術師範として江戸に出府している(一二〇頁)。「実録」によると、源之進の道場には時折り、他流試合の訪問者があった。寛政四年(一七九二)年に夢想流の会津藩士鈴木胡左衛門が来訪し、対戦した軍太が勝っている(一一九頁)。同七年には心極流で下総国古河藩士の関戸正七も来訪しているが、源之進は五分五分だった。だが息子