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剣術道具と剣術道場の実態

第二章   武田軍太「武元流剣術実録」の世界

三   剣術道具と剣術道場の実態

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.剣術道具

「実録」には剣術道具の名称として、簓刀、ひご簓刀、丸竹、木太刀、皮帽子、金面、小手、竹具足、という名称が出てくる。それぞれに簡単な解説をしておきたい。まず、「簓刀」の「簓 ささら」については、「竹の先を割って束ねたもの」と辞書にはある。その「簓」で作った刀であるから、「簓刀」は竹 刀のことだと考えてよいだろう。ただし、ふりがなが付いてないので、「簓刀」を「しない」と読ん

でよいのか、そのまま「ささらとう」と呼ぶのかまではわからない。「実録」に「簓刀迚、八ツ割竹え葦を懸」とあるので、「簓刀」は八つ割りにした竹を葦 あしで束ねていたようだ(一三八頁)。また、簓刀の形状がわかる次のような記事もある(二二一頁)。「敵ハ五尺之簓刀、仙台竹を五六分ニ割り、八九本合セ而、仲を皮ニ而所々ヲ結ひ、柄に皮を懸ケ簓刀先ひ壱寸余皮懸、鍔は猪之首皮壱枚、鍔木太刀同容之由」「敵」とあるのは試合をしている場面だからだが、ここで用いている簓刀は、五、六分に割った仙台竹を八、九本束ねて皮で結び、柄 に皮をかけ、刀の先にも一寸ほどの皮をかけている。現在の竹刀との対比でいえば、竹を皮で束ねているのは中 なかゆい結、柄にかける皮は柄 、刀の先にかけている一寸ほどの皮というのは先 さきがわということになるだろう(図

「武元流ハ稽古之砌ハ、握所ハ丸竹ニ而、鍔より先キ「他流と試合之節ハ鍔付木太刀歟、元竹ニ而鍔付三尺 (二二一頁)。く(二二一頁)。 に続けて武元流の簓刀の様式が次のように書かれているいるが、他流試合のときは違うとある。続けて引用してお るという。「五、六分ニ割り」の意味がわかりにくいが、右なお右の文章は、稽古のときに使う簓刀のことを書いて 鍔は猪の首の皮を用い、木太刀と同様のものを使ってい前述のように「八つ割り」だったということのようだ。 つば

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参照)。のなどが現在用いられているという。武田道場の袋竹刀は、 異なるようだが、竹を三二分割したものや一六分割したも れているという袋竹刀のイメージだろうか。流派によって る。袋で包んだ状態のようだ。現在も一部の流派で用いら に刀身に皮袋をかけているともあ ている。打たれても痛くないよう その鍔は「皮鍔」(革鍔)を用い 束ねているという形状だろうか。 は丸竹のまま、鍔から先は割いて 状態のようだ。一本の丸竹を手元 先は「簓」とあるから竹を割いた は、「握所」(柄)は丸竹、鍔より 武元流の稽古用の簓刀の造り も不痛容ニ拵置候」 寸え内毛之皮袋ヲ懸、被打而 ハ簓ニ而縊、皮鍔付、三尺四 ササラクヽリ

図 1 竹刀の各部名称

四寸之丸竹也、敵に金面、小手、竹具足赦シ候、此方ハ素面、素手、素体故ニ少も不苦候、若怪我有之砌ハ武者修行人持参之添書之方え為送遣分之事也」他流試合のときは鍔つきの木太刀か、三尺四寸の丸竹を使うという。しかも相手が面、小手、胴の防具を身につけたとしても、こちらはまったく防具なしで対戦するとある。小太刀や丸竹は、簓刀と違って怪我のリスクが高い。もし相手が試合で怪我をしたら、添書に記してある身元に送り返すだけだという。怪我のリスクは防具なしのこちらのほうが高いはずだが、それだけ自信があったのだろう。もちろん、こちらが怪我をした場合は文句をいわないということである。なかなか強気の構えだといってよい。次の「ひご簓刀」という言葉は、「無念流ハ金面・小手当テ、木太刀同前之ひご簓刀 4444ヲ打而も切先キさけず」(一二四頁)と出てくる。「ひご」で作られた「簓刀」ということだが、「ひご」(籤)とは細かく割った竹を束ねた棒のことである(竹籤)。だが「木太刀同前 44444之ひご簓刀」とあるので、神道無念流は割りの少ない簓刀を使っていたということだろうか。次の「丸竹」は、割っていない、そのままの竹である。「木太刀」は、木で作った刀、つまり木刀のことである。木刀 はかなり固いが、「丸竹」も打たれたときの衝撃は強い。「実録」にも、「丸竹にて打たれ候はヽ畸 カタハに相成り申すべく」(一三八頁)という記事がある。だからこそ、木刀や丸竹から割竹の竹刀が使われるようになった。軍太の属した心地流や武元流は、基本は簓刀だが、試合では相手によっては丸竹を使うこともあった(一五九頁、二〇四頁)。次の「皮帽子」と「金面」は、頭と顔を覆う、今で言う「面」のことだろう。「金面」とは本来、顔を守る鉄筋の部分をさす。現在は「面 めんがね」というようだ。だが、「実録」に「無念流ハ金面・小手当テ」(一二四頁)とあるように、いわゆる「面」と同義でも使われている。なお、文政元年(一八一八)に、直真影流の板倉小三郎が「面、小手、竹具足」を着して、素手・素肌の軍太の門人と試合をして負けているが、「皮ぼふし」(皮帽子)の上から丸竹で打たれて恐れいった、という記述がある(一六〇頁)。また天保年間の記事に、同じ直真影流の修行人は「真綿入之皮ぼうし、金面、小手、竹具足相用ひ候」(二一〇頁)ともある。「皮帽子」は現在、「面ぶとん」と呼ばれている、頭を覆う部分のことである。したがって、「面」は、真綿を入れた「皮帽子」と「金面」から成っていた。「小手」は「籠手」のことで、手を保護する防具である。

「竹具 そく」の「具足」とは、甲 かつちゆうまたは鎧 よろいかぶとのことだから、竹で作った防具のことになる。ただ頭と顔を保護する防具は「金面」だったから、ここでいう「竹具足」は竹で作った胸当て、現代の防具の胴のことになるのだと思われる。これらが「実録」に出てくる主な剣術道具である。だが、簓刀については何種類かの長さがあった。「実録」には、一刀流の会沢喜久之助が四尺六寸(一三八センチメートル)の簓刀を使っていたとある(二〇三頁)。同じ一刀流の佐藤登も四尺六寸の簓刀を持っていたとあるので(二一五頁)、一刀流はこの長さに決まっていたのだろう。また前掲した「実録」の記事には、五尺(一五〇センチメートル)と三尺四寸(一〇二センチメートル)の簓刀が出てくる。五尺の簓刀を使うのは直真影流、三尺四寸は軍太の武元流である。「実録」の他の箇所には、直真影流の男谷精一郎の門人で大柄な嶋田虎之助は五尺六寸の簓刀を使っていたともある(二一九頁)。江戸時代後期に竹刀稽古が普及すると、試合を有利にするために、四尺を越える長い竹刀が使われたという。「実録」に出てくる一刀流や直真影流の簓刀が四尺を越えていたのは、これにあたる。それに比べ武田道場が用いる三尺四寸は短いほうだった。長さに三〇~五〇センチメートルもの 差があれば大いに不利になるだろうが、軍太は「此方ハ三尺四寸之簓刀ニ而、全勝ヲ得ル事、掌ニ有之候」(二一九頁)と書いている。簓刀の長さなど問題ではない、全勝する、と喝破した。相当な自信である。軍太の生真面目さと堅実さがうかがわれる。ちなみに、現在の竹刀は、全日本剣道連盟の基準によると、一般用は三尺九寸(一二〇センチメートル以下)とのことである。

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.剣術道場の広さ

①  武田道場の規模

れは京間だと考えてよい。畳には京間と江戸間(関東間と 尺三寸(一九一センチメートル)だということなので、こ 畳の縦の長さをあらわす一間のことである。その一間が六 わかりにくい表記になっているが、「壱間」というのは 北ニ縁有り、西ニとご有、東ハ同間ニ候」 「拙者道場ハ、六尺三寸之壱間ニ而弐間之弐間半、南 ように書いている(二〇七頁)。 試合の様子は後述するが、軍太は自分の道場について次の 藩士で木葉一刀流の会沢喜久助が来訪したときのことだ。 ついて触れた記事がある。天保一三年(一八四二)、仙台   「実録」には、剣術道場の広さに

も言う)があって、江戸間は京間よりも狭い一間六尺(一八二センチメートル)だった。畳の横は縦の半分なので半間ということになる。これを念頭に武田道場の「弐間之弐間半」を考えると、長さが二間と二間半の一〇畳間ということになる。「東ハ同間ニ候」とあるから、隣接して同じ広さの部屋があった(図

敷と二の間)を道場として使ったという伝承が残されてお 聞くところによると武田家には、母屋の一〇畳二間(座 間」にあたるとみてよい。 たとある。一〇畳二間というのは、この「座敷」と「二ノ 孫兵衛とのやりとりも「二ノ間」(二一八頁)でおこなっ 敷」(二一七頁)の前に集まっていたとあり、軍太の孫の き、師匠軍太との試合を期待して安久津村の若衆らが「座 ろ、軍太が免許を与えた渡辺鍬蔵が江戸から戻ってきたと の様子が見えるようにしたということである。また同じこ すべての仕切り戸を取って開け放し、外からも座敷のなか 座敷を道場にし、二間を仕切っている障子だけではなく、 して」(二一四頁)試合の準備をしたとある。来客試合は、 物人も見れるように「座鋪片付け、送戸、引戸、障子はず(一四九頁)。 天保一四年に水戸藩の佐藤登が来訪したとき、大勢の見は、四間と五間(四〇畳)という、かなりの広さになる から、それを合わせると、かなりの広さになる。分は座敷、半分を道場にしていた。だとしても道場の広さ

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参照)。南北に縁側があるさ一〇間ほどだというから、かなり大きい。二階のうち半 仲の屋敷の土蔵の二階を利用していた。土蔵は幅四間、長 れた天童近郊にある久野本村の道場は、同村の医師鑓水多    ②天童近郊の久野本村の道場軍太が出稽古を依頼さ 屋の座敷には、竹刀傷も残っているという。 り、これらの記事と符節が合う。江戸時代に建築された母

図 2 武田道場の広さ

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