ひとつめは、大震災そのものが発するもの。何年か経って振り返ると、あの 日を境にして社会が変容したと気づく。そこから読み取れるメッセージだ。
ふたつめは、私たちの地域や個人レベルのもの。惨禍を何年経っても忘れな い、記憶し、伝えていくために綴るメッセージだ。
●関東、阪神、そして東日本
まずは大震災が発するメッセージから考えてみる。
私は大震災2年後の2013年3月11日付の朝刊1面に次のように書いた。
「関東大震災のあとは都市化がすすんだ。阪神大震災は『ボランティア元 年』でNPO法を生んだ。では東日本大震災で時代はどう変わるのか」
関東、阪神の大震災はその巨大さゆえに時代を画した。東日本はさらに大き な広域・複合災害である。犠牲者は関連死も含めて2万1千人を超えた。い まなお、約17万人が避難生活を強いられ、うち6万人がまだプレハブ仮設にい る。これほどの災害は、かつてない。だから、世の中も大きく変わるに違いな い、といまでも思っている。
政府の復興構想会議(五百旗頭真議長)は「復興への提言」で、その道筋に プロフィール つぼい ゆづる
1958年、奈良市生まれ。82年、早稲田大学法学部卒、朝日新聞社入社。長野、北 海道勤務の後、90年から政治部員。社会党、自民党、自治省などを取材。AERA編 集部員などを経て、2003年から論説委員(内政担当)。07年から編集委員(政治担 当)。11年から論説副主幹。12年6月から仙台へ。東日本大震災を機に朝日新聞が 中堅・若手研究者らとつくった「ニッポン前へ委員会」事務局長、社外では日本自 治学会理事、京都大学法学部客員教授(08年〜10年)、NPO法人スローライフジャ パン理事なども務める。
次世代へのメッセージ①
〜時代は変わったか〜
朝日新聞 東北復興取材センター長・仙台総局長
坪 井 ゆづる
ついて「どの切り口をとって見ても、被災地への具体的処方箋の背景には、日 本が『戦後』ずっと未解決のまま抱え込んできた問題が透けて見える」と書い た。
たとえば、東京で使う電気を福島でつくってきたエネルギー供給のあり方 や、東京一極集中のいびつな国と地方の上下関係も「未解決のまま」の問題だ ろう。「3.11」は、こうした国の成り立ちを根幹から問い直すように見えた。
私が期待した時代の変化は「脱原発社会の実現」だった。あれだけの事故を 起こし、色も臭いもない恐怖をまき散らした原発には、もう頼るまい。それこ そが、大震災が次世代へ残す最もわかりやすいメッセージだと考えていた。
だが、実現への道筋はまだ見えてこない。なにしろ、原発を海外へ売りに行 く政権である。廃棄物を処理できる見通しもなく、周辺住民の避難計画の策定 も十分とはいえないのに、粛々と再稼働させていく政権である。
●繰り返される土建国家型の復興
5年が経って、津波被災地で目立つのは、高速道路の延伸、拡幅であり、そ びえ立つ巨大防潮堤の威容であり、漁港や農地を元に戻す工事であり、広大な 盛り土である。ダンプカーの隊列もすさまじい。どれも、戦後一貫して続けら れてきた土建国家型の復興そのものだ。
学校の再建、地域医療の充実、コミュニティの再生などよりも、土木工事の コンクリートに資金がつきやすい仕組みは相変わらずだ。これが各省の縦割り でしか物事を進められない、この国の宿痾なのか。
しかも、具体的な復興事業は国土交通、農林水産など5省の40事業から自治 体に選ばせる。その財布のひもは各省が握る。どれほど柔軟に運用されても、
事業選定を通じて、決定権を持つ国と、陳情する自治体との上下関係が再構築 されていっている。
原発被災地はさらに厳しい。JR双葉駅の時計は大震災の時刻を指したまま 朽ちつつある。そんな帰還困難区域を貫いて走る常磐自動車道と、その下に広 がる無人の街の残酷なまでの格差に言葉を失う。それでも原発の再稼働を急ぐ 現状は、原発爆発などなかったことにしよう、と言わんばかりだ。
こうした現場を歩くと、これほどの大震災でも変われない社会、変わろうと しない国であることに愕然とする。
だから私は震災3年の朝刊1面に「東北を『植民地』にするな」、震災4年 の1面には「見えてきた悩ましい現実」、5年の1面には「復興へ権限・財源
1234567公募論文参考資料 を被災地に」と、いずれも復興のすすめ方に懐疑的な記事を書いた。そして、
もっと住民が主役になれる復興にするために、権限や財源を自治体に渡すよう に訴えてきた。
「そう、あわてるな。まだ5年ではないか」「すでに社会の変革の芽は出て いる」といった見方もあるだろう。確かに、遠く離れた自治体同士の災害連携 が画期的に深まったし、NPOと行政の提携も進化した。多くの企業の長期的 な支援も、これまでにないことだ。何よりも、ボランティアに来た学生たち が、その後の安保法制論議などで政治に関心を持ち始めている。いずれも、大 いに評価する。だが、千年に1度の大震災がもたらす時代の変化とは言いがた い。
5年で変われないものは、10年たっても変われないのではないかとも思う が、大震災の残すメッセージが「この国は変われない」では、あまりに悲しい。
●語り継ぐために
次に、地域や個人レベルのメッセージを考えてみる。津波の悲劇を語り継ぐ 取り組みは多彩に繰り広げられている。2つ紹介する。
第1の事例は震災遺構だ。宮城県南三陸町の防災対策庁舎は解体の危機を免 れた。「津波が来ます」と防災無線で避難を呼びかけた町の女性職員(24)ら 43人が、津波の犠牲になった場所だ。いまは鉄骨だけが残る。
「津波の猛威を語り継ぐもの」は「つらい記憶の復元装置」でもある。遺族 のなかでも意見が割れるなか、町は震災の半年後に、解体方針を示した。その 1年後、①即時解体②解体の一時延期③保存・陳情が同時に町議会に出され、
即時解体だけが採択された。さらに1年後の2013年9月には、町長が「解体」
を表明した。倒壊の危険があるし、保存費用も出せないという理由だった。
潮目が変わったのは、2014年秋だ。宮城県が設けた震災遺構を話し合う有識 者会議が「広島の原爆ドームにも劣らないインパクトを持ち、強い発信力があ る」と保存を強く主張したのだ。これを受けて、村井嘉浩知事が2015年1月に
「20年間の県有化」を提案し、6月末に町が受け入れた。原爆ドームが戦後20 年たってから保存が決まったことも考慮された。
この経緯は、復興を語る際に、時間軸を変えてみることの大切さを示してい る。まちの再興ではスピードが重視されるし、被災者は悲しい記憶と向き合 いたくないので、遺構保存の大切さは語られにくい。そうこうするうちに、被 災した構造物はどんどん解体されてしまった。だが、「百聞は一見にしかず」
を体現し、ゴツゴツとした悲劇を実感できる震災遺構には、違う時間軸で向き 合うべきだ。この教訓は、将来の被災地でも語り継ぐべきメッセージだと考え る。
●「夢だけは壊せなかった大震災」
第2の事例は、宮城県女川町の石碑だ。町は住民約1万人のうち、827人が 死亡・行方不明になり、家屋の約7割が全壊した。その町の中学生たちが町内 の21カ所の浜すべてに、津波の到達点を伝える石碑を建てる。
悲劇を繰り返さないために、自分たちに何ができるか。震災直後に中学生に なった子どもたちが授業で話し合った。半年後、「とにかく逃げること」で 意見がまとまりかけたとき、「違うよ」と叫んだ子がいた。「『逃げよう』と 言っても逃げない人がいる。そういう人を助けようとして亡くなった人もい る」。避難を呼びかけに出た行政区長の祖父を失った子だった。
その後、生徒らがたどり着いた結論は①絆を深める②高台へ避難できる町を つくる③記録に残す――という3つの津波対策だった。
ここからが、すごい。記録に残すために、浜ごとに石碑を建てよう。それに は1千万円かかりそうだ。ならば、自分たちが100円募金で集めよう。日本の 人口の千分の1の人たちの協力を集められればできる、と考えた。
そして、修学旅行に行った東京でも募金活動をするなどして、本当に資金を 集めてしまった。すでに10基が立っている。
「女川いのちの石碑 千年後の命を守るために」と刻まれた石碑には、生徒 たちの句がある。「夢だけは壊せなかった大震災」とか、「逢いたくて でも 会えなくて 逢いたくて」などだ。
みんなで考えた文章も彫られている。「絶対に移動させないでください。も し、大地震が来たら、この石碑より上へ逃げてください。逃げない人がいて も、無理矢理にでも連れ出してください。家に戻ろうとしている人がいれば、
絶対に引き止めてください。今、女川町はどうなっていますか?悲しみで涙を 流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じ ています」
2015年3月、生徒たちは仙台市であった国連防災世界会議で現状を報告し、
大きな拍手を浴びた。