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106 第9章 森林組合組織の自立化と限界性

1 戦時体制下に設立された森林組合の戦後再建

わが国は太平洋戦争へと突き進む戦時体制となり、国家総動員法(1938年)の公布以降はあ らゆる産業に対する物資の統制・運用、需給調整、物価の統制など国民生活の細部にいたるまで、

国家の規制と監視の権限は拡大され、“挙国一致”の体制がつくられることになった。

林業・林産業分野では木炭・薪の生産・価格統制、用材生産統制(1939年)、1941年には木 材統制法が施行され森林法もこの木材統制法に入った。森林法では私有林すべてが施業案の編成 義務を負うものとされ、森林所有者は森林組合の組合員として施業案に協力することになった。

ところが森林法の施行に盛り込む「植伐計画」がまとまらず、「施業案に先行して統制法による 伐採が開始される状況となって施業案編成に対する指導も大きく変更せざるをえなかった」1 のである。

1944年(昭和19年2月)、「決戦非常措置要綱」の閣議決定が出され、森林法改正の「森林 組合による民有林の施業案編成と指導」は「すなわち戦時経済の急進展は、森林法を基軸にした 林野行政から林産物の統制を基軸とする行政の転換」注2と無力化し、戦時体制下では官民問わ ず強制的に伐採が進められ、本道でも戦時下の森林伐採量は一挙に増加した。

1939年(昭和14年)森林法改正で北海道に森林組合の設立が認められた。1941年には美幌町、

野付牛町(現在の北見市)、中頓別町において森林組合が設立され、同年度末に30組合、1942 年には108組合が誕生し、1943年度までの3年間に211組合となり、ほぼ全道に森林組合がつ くられた。急変する状況下にあって、国家の強制的指導力により森林組合の設立が行われた。

その典型例である石狩当別町森林組合の設立に至る経過を見る。1943年(昭和18年)3月、

石狩当別町長は道庁からの「森林組合指針」を受けて同月のうちに森林組合創立発起人総会(20 名)の開催並びに発起人代表の選定。同月28日には各町内会長、部落会長、隣保班長を通じて 森林組合設立趣意書並びに同意書の取り付けを開始し、8月には設立認可申請書を北海道長官に 提出した。10月には追補責任石狩当別森林組合の設立が認可された。この間約8ヵ月の早い設 立だった。森林組合設立に同意する者は372名、同意しない者118名だったが設立認可を得た。

短期間に森林組合設立の同意を取り付けることができたのは町内の有力者が進めたからである。

それでも118名の不同意者がいたことからも分かるように決して森林組合設立の趣旨や目的が 十分に浸透して理解されたものではなかった。

このように森林所有者が森林組合組織を必要として発議されたものでなく、戦時体制下の国か らの要請に従うための設立であった。設立の同時期には製材、木材加工部門の事業に着手、その 後には薪炭卸業とともに木材加工場の許可を得て移動式製材機を導入し、14名の従業員を雇用 して加工事業を開始した。美瑛町森林組合(1942年設立)でも「不採算林分」を伐採するとい う理由で移動製材機を導入し、町有林材の払い下げを受けて30馬力のバンドソー製材機も入れ た注3

1942年(昭和17年1月)、北海道庁の要請を受けて北海道森林組合連合会(以下、道森連)

の設立も動きだし、同年3月には創立総会が開催され、連合会会長は北海道長官、副会長に道庁

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拓殖部長、常務理事に道庁林政課長が就任した注4。わが国が戦時経済体制に全面的に移行する という事態のなかで、全国民有林の森林資源を軍事用物資として供出させるために森林組合も産 業統制上必要な機関として位置付けられた。木材統制法では「立木伐採計画」が強権的な命令と して行使され、道森連は戦時体制下において木材供出の主たる機能を持つことになった。

戦後の森林組合は木材統制下の組織から農協、漁協とともに協同組合理念の原則を備えた協同 組合として再出発した。木材統制下で設置されていた諸施設は組合員の共同施設としてそのまま に引き継がれ、戦後森林組合の財産とした。「資本的に弱体な森林組合は製材その他の事業によ って資本を集積し、その集積した資本を森林経営に投資してゆく方式を取ることが、終戦後の本 道ではかなり行われていた」注5のである。

例えば、先の石狩当別町森林組合は戦後も製材工場を整備拡充して森林組合の主力事業へと引 き継いだ。そのほかの例では、空知管内の栗沢村(現在の栗沢町)や上川管内の当麻町の森林組 合は設立当時からの移動式製材工場や家具工場、苗圃、十勝管内の広尾町森林組合では苗圃や漁 箱と下駄の加工場、北見市森林組合は年間2千 ㎥規模の製材加工場を森林組合の共同施設として 残った。また胆振管内の厚真町森林組合は常勤理事1名、常勤職員5名、工員7名(1952年)

の体制で直営の製炭事業で年間約3万トン(1955年)を生産し、枕木の製材出荷のために帯鋸 や丸鋸製材機で操業を進めることができた。素材生産の直営事業では地元住民の出役で年間約2 万㎥(1955年頃)の生産量があった。

このように設立まもない多くの森林組合は、自己資本が乏しかったが地元内の木材需要と消費 あるいは小口の生産販売を組合運営の糧としていたのである。道内各地の森林組合は戦時経済統 制下での負債を抱えて、戦後に向けた復興への足がかりを得るほどの資金も人材も少なく苦しい 組合運営だったが、森林組合は地域の小さな需要に応える協同組合的な活動をしていたのである。

森林法の改正とともに制定された「農林漁業協同組合再建整備法」(1951年6月)は、自主 的な再建を促すために、国は固定債権や在庫品を資金化しやすいように補給金、奨励金を交付す るようになり、道森連は多額の欠損金、特に薪炭特別会計債務の処理問題を抱える状態のままだ った。道森連の薪炭特別会計債務は、戦時中に政府薪炭の輸送代行機関として引取買収の要請を 受けていた。それが不良在庫となり多額の欠損金が生じたという事情を汲んで、国と道森連との 間で和解条件を付けて1967年まで債務支払いが続いた。道森連は戦中処理から抜け出して戦後 復興の出発する頃にはすでに日本が高度経済成長期に入っており、戦後造林ブームに間に合うよ うな状況ではなかった。

1952年(昭和27年4月)、“新生道森連”は組織内の機構改革を行い、大幅に人員を整理し て再発足した。同時に道内の森林組合も新設森林組合も含めて、とりあえず同年4月には210 組合、市町村有林も参加した組合員約6万2千人、組合員面積83万ha、総出資額108,586千円 の体制が整った。1954年度の所有規模別の組合員の加入状況(北海道林業統計)をみると、組 合員55千人のうち10ha以下が78%(43千人)を占めていたが、森林組合のある地区内森林所有 者数に対する加入率は65%、地区内森林面積の加入面積は28%と、森林組合の事業基盤は脆弱 そのものであったことが分かる。

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道森連も含めて森林組合は戦前期の旧体制をほぼそのまま残して移行したこともあり、多くの 不振組合を抱え込み、「このため、協同組合として脱皮できず、組合員は組合意識が希薄で多く の不振組合を生じたことは否めない」注6という問題を残した再出発だった。戦時体制期の森林 組合の組織体制を改善するために、多くの不振組合を整理して合併を進めることになったが、北 海道の林業や林産業は、木材需要の増加と木材価格の高騰が連動して木材生産が活発な状況にあ り、国有林の「生産力増強計画」と民有林のカラマツ造林の最盛期を迎えていた。

一方、「森林組合合併奨励事業」(1960~63年)による森林組合の合併は8組合の減にとど まり、職員数も市町村職員の兼務が多い状態が続いた。単位組合は組織基盤が脆弱で合併どころ ではなかった。出資金総額をみると、202組合で約3億3千万円、1組合平均165万円と、脆弱 な自己資本力のままだった。当時森林組合は苗木の斡旋などの購買事業だけで組合運営は零細な がら維持され、市町村は森林組合が補助金申請の窓口業務の機能を持っていたために森林組合を 自ら手放すことをしなかったことも要因にあった。

森林組合の経済事業をみると、民有林の人工造林が1952年(昭和27年)以降、年間3万ha と戦後造林のピークにあったのに対して森林組合の造林事業は年間3~4千ha程度で、旺盛な 森林所有者の造林意欲を取り込む水準には届いてはいなかった。森林組合の造林事業が1万ha に達したのは1967年からであり、それも長くは続かず、“拡大造林”の終息とともに再び5千 ha台の造林に低迷する。しかし多くの森林組合では苗畑を確保していたことから、苗木の斡旋 業務は盛んで、森林組合第1次振興計画の実施時期(1958年~60年)だけでも年平均400万本 を出荷していたのは大きな力となっていた。

旺盛な造林で幼苗不足が生じていたので、道森連は長野県内の種苗業者と幼苗生産の委託契約 を結ぶなど、安定した樹苗の供給体制を確立し、種苗生産者よりも多い苗木を供給することがで きた。苗木の供給力の面で森林組合の活動は評価される。多くの苗木を供給しながら造林を事業 化できなかった背景には、森林組合の造林労務体制が不十分であったことや組合員は森林組合か ら苗木を購入して家族労働力による造林を盛んに行っていたからである。戦後間もない最初の

“拡大造林”時期に森林組合が深く関わるほどの指導力、資金力は足りなかった。森林組合の執 行体制が脆弱であったために農家造林が先行し森林組合は農家の旺盛な造林意欲を組織拡充に 取り込む絶好の機会を逃したとも言える。

一方で1950年代の森林組合の林産事業や製材加工事業をみると、林産事業は当時の民有林の 伐採量に対して森林組合の取扱量は7万 ㎥台から13万㎥とさまざまだった。坑木用材等の一般 用材も減少し、また森林組合には労務組織もなく直接に森林組合が素材生産するだけの作業員の 確保や機械の整備が不足している森林組合が多かった。製材加工事業もすでに述べたように新規 の設備投資もなく旧式の移動式製材機で賃挽き加工主体の製材事業を行っていたからである。

2 林業構造改善事業による森林組合の強化

森林組合は組合員=森林所有者の森づくりに必要なさまざまな便宜を提供するために、組合員 1人では調達できない物資や資材、労務、機械類を共同利用とし、また組合員に不利益が及ばな

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