第四章 目的論的判断と自然の自立性
三 有機的な自然と「生ける自然」
それではカントにとって、有機的な自然は「生ける自然」を意味したのだろうか。「目的 論的判断力の批判」によれば、たしかにカントは、有機的な自然が機械論的に説明できな いことを認めている。しかしカントは、この自然のうちに生命が存在することを肯定する わけではない。言い換えれば、カントは、「生ける自然」の存在を認めているわけではない のである。このことは、次のように説明することができる。
カントによれば、有機的な自然は機械論的に説明することが不可能である。「メカニズム (Mechanismus)」という機械的な諸原理に依拠するかぎり、悟性は「草の葉一枚」の産出 でさえ説明することができない(Vgl. V, 400, 409)。この「メカニズム」の概念は、『判断力 批判』のなかで三つの意味をもっている(12)。第一に、メカニズムの概念は、独立した諸 部分の性質による、ある全体の産出を意味している(Vgl. V, 408, XX, 247)。この意味での メカニズムによる説明とは、独立した構成要素である諸部分の集合として、ある全体とし ての対象を説明することである。第二に、メカニズムの概念は、作用原因を意味している (Vgl. V, 360)。この意味でのメカニズムは、第一の意味でのメカニズムと同一ではない。
というのは、先行する原因から必然的に帰結するものとしてある対象を説明することは、
独立した構成要素である諸部分によって、この対象を説明することと同じではないからで ある。第三に、メカニズムの概念は、物理的な作用原因を意味している(Vgl. XX, 235)。こ の意味でのメカニズムによる説明とは、力学の諸法則である物質と運動の普遍的法則によ って、物質としての対象を説明することである。この物質と運動の普遍的法則による説明 が、『判断力批判』におけるメカニズムの中心的な意味に他ならない(13)。
こうして、第三の意味におけるメカニズムを前提すれば、有機的な自然が説明不可能で あることは明らかである。カントによれば、有機的な自然は、類としてのみならず個体と しても自分自身を産出することができる。またこの自然の諸部分でさえも、自分自身を産 出することが可能である(14)。こうした有機的な自然に固有の産出関係は、自然がみずか ら「二重の意味で原因および結果である」(Vgl. V, 370f.)関係として、上記のメカニズムに よる説明の射程を超え出ている。というのは、物理的な作用原因としてのメカニズムは、
ある原因によって自然の産出を説明する。しかしこのメカニズムは、「結果」としての自然 が、類あるいは個体として「原因」でもあることを説明できないからである。したがって カントは、有機的な自然の固有の産出関係を理由として、この自然が機械論的に説明でき ないことを認めているのである(15)。
すると有機的な自然は、機械論的に説明できないことを理由として、「生ける自然」を意
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味するように思われるかもしれない。しかしながらカントは、有機的な自然のうちに生命 が存在することを肯定するわけではない。カントにとって生命とは、「内的原理に基づいて、
行動へと自分を規定する実体の能力」(IV, 544)であり(16)、あるいは「欲求能力の法則に したがって行為する、ある存在者の能力」(V, 9)である。こうした生命の意味は、物質とし ての自然の定義に合致しない。そのためカントは、有機的な自然のうちに生命を認める立 場を「物活論(Hylozoismus)」と見なして批判するのである(17)。カントによるこの物活論 の批判は、筆者の見解では、次のように要約可能である(Vgl. V, 374f., 394f.)。
第一に、物活論は、物質に生命が内在することを認める立場と、「世界霊魂(Weltseele)」
を認める立場とに区別することができる。この「世界霊魂」とは、物質に生命を与える内 的原理である。前者の物活論は、物質としての物質に対して生命を付け加え、「生ける物質 (lebende Materie)」の可能性を主張する立場である。これに対して後者の物活論は、物質 に、物質とは異種でありながら物質と交わっている霊魂を連れ添わせ、「生命をあたえられ た物質(belebte Materie)」の可能性を肯定する立場である。
第二に、物質に生命が内在することを認める物活論は、「生ける物質」の概念が矛盾を含 むという理由から無意味である。『自然科学の形而上学的原理』によれば、力学の第二法則 は、物質のあらゆる変化が外的原因をもつこととして定義されている(Vgl. IV, 543f.)。つ まり、この法則は慣性の法則である。慣性の法則によれば、物質の慣性とは、物質が「生 命をもたないこと(Leblosigkeit)」に他ならない。というのも生命とは、ある行動を行うよ うに、内的原理に基づいて自分自身を決定する能力を意味するからである。したがって、
物質に生命を認める物活論は、慣性の法則に矛盾することを理由として拒絶されなければ ならない。
第三に、「世界霊魂」を認める物活論は、生命を与えられた物質の可能性が経験のうちで 明らかにされるかぎりでのみ、辛うじて仮説として認められるにすぎない。しかしこの物 活論は、物質の可能性を説明するために生命の存在を認めることが許されない。有機的な 自然を物質の生命から説明しようとして、この生命をふたたび有機的な自然のうち以外で は認めないとすれば、この物活論は説明のうちで循環を犯すことになるからである。した がって、生命を与える内的原理を認める物活論もまた、物質の可能性を説明しようとする かぎり拒否されなければならない。
このように物活論は、物質に生命が内在することを認める立場であれ、「世界霊魂」を認 める立場であれ、妥当な理論として採用されることができない。したがってカントは、有 機的な自然のうちに生命が存在することを肯定しない。言い換えれば、カントは、有機的 な自然が「生ける自然」であることを認めていないのである(18)。しかしこのことは、カ ントにとって、有機的な自然がたんなる物質であったことを意味するわけではない。この 有機的な自然の含意を明らかにするために、次節では、啓蒙期の生気論との比較をとおし て、カントが主張する自然目的論の基礎的性格の解明を試みる。
四 「啓蒙の生気論」とカントの自然目的論
前節で論じたように、カントは、有機的な自然が機械論的に説明できないことを認めつ つも、この自然のうちに生命が存在することを肯定するわけではない。それではカントは、
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有機的な自然をどのように理解するのだろうか。そこで本研究は、P・H・ライルが近年の 研究のなかで定式化した「啓蒙の生気論(Enlightenment Vitalism)」という思想を手がか りとして、カントの自然目的論の基礎的性格を解明する。ライルによれば、「啓蒙の生気論」
とは、「生ける自然」という自然観に権威を与えた啓蒙思想である。この思想の要点は、筆 者の見解では、次の三点に総括することが可能である(19)。
第一に、「啓蒙の生気論」は、機械論的な自然哲学に対する懐疑によって形成された啓蒙 思想である。1680年代から1740年代におよぶ啓蒙の前期は、形式的で数学的な推論の方 法と想定を自然現象の説明に組み入れる、機械論的な自然哲学が優勢であった。しかし 1750年代になると、この自然哲学の想定が懐疑的な批判に曝されることになった。この批 判は、「体系の精神(spirit of systems)」や、現実にかんして整合的なイメージを構成する 抽象的な推論に反対して、知識や自然、人間性など、啓蒙の中心的な観念の再定式化を要 求したのである。その結果、啓蒙の自然哲学者のための新たなプロジェクトが確立される ことになった。このプロジェクトとは、理性の能力を制限し「認識論的な謙虚さ」を認め ることであり、自然の「複雑性」を強調し熟慮することであり、さらには自然を「歴史化」
することであった。したがって「啓蒙の生気論」とは、これらのプロジェクトを遂行した 啓蒙思想に他ならない。また「啓蒙の生気論者」とは、自然史や化学の領域で、また医学 を含む生命科学の諸領域で、これらのプロジェクトを実行した多くの思想家たちのゆるや かな集団を意味する(20)。そのリストは、ビュフォン、ヘルダー、ゲーテ、フンボルト兄 弟をはじめとして、ドーバントン、ロビネ、ブルーメンバッハ、フォルスター、キールマ イヤーをも含むのである。
第二に、「啓蒙の生気論」は、機械論的な自然哲学に反対して、生気論的な自然観を形成 した思想である。「啓蒙の生気論者」にとって、機械論的な自然哲学の致命的欠陥は、この 自然哲学が「生ける物質(living matter)」の存在を説明できないことであった。周知のよ うに、機械論的な自然哲学は精神と物質を徹底的に分離した。その結果、精神と物質との 関係は、機会原因論や予定調和の試みが示すように、神の介入によってのみ説明すること ができるようになった。これに対して「啓蒙の生気論者」は、「生ける物質」のうちに目的 論的な性格をもった活動的な諸力の存在を認めることによって、精神と物質の分離を架橋 しようと試みたのである。この「生ける物質」は、自己運動あるいは自己有機化の内在的 な原理を含むと見なされ、そうした運動や有機化は、物質自身のうちにある「活動的な能 力」に由来すると見なされた。こうして「啓蒙の生気論者」は、「選択的親和力(elective affinities)」や「生命原理(vital principles)」、「共感」や「形成衝動(formative drives)」と いった生命力に基づいて、生気論的な自然観を形成したのである(21)。
第三に、「啓蒙の生気論」は、自然の解読方法として記号論を導入した思想である。自然 に生命力を認めたことは、自然哲学的な探究や説明の方法の再評価を引き起こした。さら に「生ける物質」の概念は、観察者と観察対象との厳密な区別を解消することになった。
というのは、両者がともに、「生ける物質」のより大きな結合作用のうちで関係づけられて いるからである。関係や諸力の共同作用、相互作用が、物質を定義する原理としての集合 や因果関係に取って代わったのである。「生ける物質」の世界は、あらゆる形態の「生ける 物質」に影響し、この物質を共感的な相互作用のうちで結合する諸関係の全体によって構 成されている。だが「啓蒙の生気論者」は、生命力が伝統的な意味における「隠れた能力
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(occult powers)」であり、直接的には不可視であることを認めていた。生命力は、外に現 れる記号によって知られるが、記号の意味は、間接的に把握することができるだけである。
言い換えれば、自然の真実は物体の内部に潜んでいると考えられ、直接観察できるものは 表面的なものと見なされた。そのため「啓蒙の生気論者」は、自然を解読する方法として 記号論を導入したのである(22)。
以上の論点を要約すれば、「啓蒙の生気論」とは、生気論的な自然観を形成して、精神と 物質との分離を克服しようと試みた啓蒙思想である。「啓蒙の生気論者」は、物質のうちに 生命力の存在を認めることによって、機械論的な自然哲学では統一できなかった自由と決 定論を媒介しようと企てた。そしてこの媒介を行う方法が、自然の解読方法としての記号 論であった。それゆえ「啓蒙の生気論」にとって、「生ける自然」は「自由と決定論が溶け 合う場所」となり、この自然は道徳の領域に由来する隠喩によって記述されることになっ たのである(23)。
こうして「啓蒙の生気論」と対比すれば、カントの自然目的論は次のように理解するこ とができる(24)。すなわち、たしかにカントは、機械論的な自然哲学に対する懐疑を「啓 蒙の生気論者」と共有している。しかしカントの自然目的論は、「生ける物質」の可能性を 認めず、目的論的で活動的な諸力の存在も認めていない。そのためカントにとって、有機 的な自然は物質の生命という原理に基づくわけではない。むしろ有機的な自然は、目的論 的判断力という主観の認識能力に基づいて反省されるのである。このことは、反省的判断 力の「自己自律」によって説明することができる(Vgl. V, 185f., XX, 225)。反省的判断力は、
自然の合目的性の原理を立法するので自律的である。もっとも反省的判断力は、悟性や理 性とは異なる意味で自律的であると言うことができる。具体的に言えば、悟性の自律は、
客観的に妥当する自然の理論的諸法則の立法に基づき、理性の自律は、同じく客観的に妥 当する実践的諸法則の立法に基づく。ところが反省的判断力は、自然に対しても自由に対 しても立法的ではなく、むしろ自分自身に対して立法的であるにすぎない。というのは、
反省的判断力が客観的に妥当する原理をもたず、たんに自然を反省するために主観的に妥 当する原理を立法するからである。したがってカントの自然目的論は、「啓蒙の生気論」の ように、物質の生命という客観的原理から有機的な自然を説明するわけではない。むしろ この自然目的論は、反省的判断力の主観的原理によって有機的な自然を反省するのである。
この反省的判断力の主観性は、カントの自然目的論の基礎的性格をさらに明確にしてく れる。反省的判断力は、自然の合目的性という主観的原理にしたがって、有機的な自然を 反省する。このことは、目的概念を人間自身から自然に転用することによって、有機的な 自然を理解することを意味している。有機的な自然にかんしてカントが直面した問題は、
この自然が、人間と同種的な存在者ではないにもかかわらず、意志や目的をもって作用し ているように見えることであった。1788年に執筆されたカントの論文『哲学における目的 論的原理の使用について』によれば、有機的な自然は、「そのうちに含まれているすべての ものが、目的であり手段であるという仕方で関係しあうことによってのみ可能であるよう な存在者」(VIII, 181)として定義される。そのため、有機化を引き起こす根本力は、その 作用の可能性の根底に目的を置く「目的にしたがう作用因」(ibid.)として考えなければな らない。ところが人間は、そうした根本力を、その規定根拠にかんして、経験をとおして
「自分自身のうち」でのみ知っている。その根本力とは、技術作品という、ある目的へむ