第三章 崇高の判断と自然の他者性
六 否定的描出と「崇高な自然の解釈学」
前節では、崇高の解釈学的含意にかんしてピロウ説を吟味・検討した。ピロウによれば、
構想力が全体の意味を予期しながら多様な表象を総括し続けることは、芸術作品にかんす る「美感的理念の解釈」を意味する。このピロウ説は、構想力による総括の挫折に解釈学 的含意を見出したが、自然の反省には適用不可能であった。そのため本節では、美感的理 念の反省ではなく崇高の反省をもとに、自然を解釈することの含意を解明する。
ところで本研究は、第一章のなかで「自然の解釈学」を次のように把握することができ た。すなわち「自然の解釈学」とは、反省的判断力の対象である自然にかんして、表象の 多様を理念の「象徴的描出」として理解する、美感的および目的論的な反省である。この
「自然の解釈学」は、崇高論についても妥当するだろうか。
崇高論のうちに自然の解釈の含意を探る場合、カント自身の説明が重要な示唆を与えて くれる。カントによれば、崇高とは「その表象が心を規定して、自然の到達しがたさを諸 理念の描出として考えさせる」(V, 268)自然の対象である。換言すれば、構想力が崇高な自 然を表象する場合、理性が避けがたく加わり、心は構想力の表象を理念に適合させようと 努力する。この努力と、構想力がこの理念に到達できないという感情は、主観的に見て、
「自然そのものをその総体性のうちに、ある超感性的なものの描出として考えるように」
(ibid.)強いるのである。だが崇高にかんして、自然を理念の描出として考えることは可能 であろうか。第一章および第二章で論じたように、カントは『判断力批判』のなかで、本 来感性化できないはずの理念を感性化する新たな方法を導入した。それが、「図式的描出」
とは異なる「象徴的描出」である(Vgl. V, 351f.)。「図式的描出」は、悟性概念に対応する 直観をアプリオリに与える。これに対して「象徴的描出」は、感性的直観が適合できない 理性理念にある種の直観を与える。「図式的描出」は概念を直接的に感性化し、「象徴的描 出」は理念を間接的に感性化する。しかしながら、いずれの描出も崇高においては不可能 である。一方で、崇高な自然は理念の「図式的描出」として考えることが不可能である。
というのは、自然のうちに、空間および時間にかんして無条件的なものが存在しないから である。他方で、崇高な自然はまた理念の「象徴的描出」として考えることも不可能であ る。というのは、構想力が自然の表象の総括に挫折し、肯定的には何も描出できないから である(31)。
崇高において構想力は、図式的にも象徴的にも理念を描出することができない。だがこ のことは、構想力に対してあらゆる描出の可能性を否定するというわけではない。換言す れば、崇高にかんする描出は、「否定的」な描出として理解することができる(Vgl. V, 174f.)(32)。A・ベルティネットの解釈は、この「否定的描出(negative Darstellung)」の 観点から崇高論を解明したものであり、筆者にとって示唆的である。ベルティネットによ れば、崇高にかんして理念は、「描出不可能なもの」として描出されるので、まさに理念と して描出される。このベルティネットの解釈は、主要な論点を挙げれば、次の三点に整理 することが可能である(33)。
第一に、崇高にかんする美感的な量評価には、構想力の把捉と総括が必要である。把捉 は限りなく進むことができるが、しかし総括には限界がある。そのため美感的な量評価に は、超えることのできない最大値が存在する。こうして総括不可能な対象が、計り知れず
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反目的的なものとして現れるというわけである。この論証は、『純粋理性批判』における三 重の総合の理論によって説明できる。把捉と総括は、把捉の総合と再生の総合に対応する。
しかし崇高には、概念における再認識の総合が欠けたままである。そのため対象は、まさ に形式なきものとして直観されるのである。
第二に、美感的な量評価にかんして、構想力は総体性を描出することができない。とい うのは、構想力による総括が不可能であるからである。だが構想力の不適合が、主観のう ちなる超感性的能力の感情を呼び起こす。構想力は、対象を全体的なものとして描出する ことができない。この構想力の不適合が、絶対的総体性の「描出の不可能性」を描出し、
無限なものを与えられたものとして思考する「理性の要求」を描出する。描出能力として の構想力は、描出を完成させようと無限に努力し続けている。というのは構想力が、一つ の直観のうちで総括を要求する理性を満足させないからである。理性は、構想力の側から の肯定的な描出には満足できない。そのため、総体性の能力として理性が新たに措定され る。したがって、構想力が挫折する場合、理性が避けがたく付け加わることになる。
第三に、崇高は判断であり、崇高の感情は反省的判断力によって規則づけられている。
そのため、無限なものにかんして総括の挫折を感じるという事実は、理性の作用である総 体性の思想を含意する。構想力は、無限なものを描出しようとして挫折する。この挫折が 崇高の第一の契機であり、反目的的であるので不快をもたらす。だがこの挫折から、「理性 の呼び起こし(Erwecken)」が論理的に帰結する。この「呼び起こし」が崇高の第二の契機 であり、合目的的であるので新たに快をもたらす。この崇高の第二の契機は、「論理的」と 呼ぶことのできる仕方で第一の契機から帰結する。というのは、この判断が、反目的的で あ る 特 殊 な 主 語 を 合 目 的 性 と い う 普 遍 的 な 述 語 へ と 関 係 づ け る 、「 と し て 構 造
(‚als‘-Struktur)」をもつからである。絶対的総体性が、「描出不可能なもの」として描出さ
れるかぎり、この総体性を描出しようとして「挫折した描出」が理念の描出である。こう して理念は、「描出不可能なもの」として描出されるので、まさに「理念」として描出され るのである。
このようにベルティネットの解釈は、崇高における「否定的描出」の機能を解明した。
以上の解釈を要約すれば、美感的な量評価において、構想力は表象を総括しようとして努 力するが挫折してしまう。だがこの挫折が、絶対的総体性の描出の不可能性を描出し、無 限なものを与えられたものとして思考する理性の要求を描出する。このように構想力の挫 折をとおして、理性が論理的に呼び起こされる。というのは、崇高は判断である。この判 断をとおして、構想力の活動が理性に対して合目的的なものとして捉え返されるからであ る。言い換えれば、崇高の判断をとおして、挫折したはずの描出が理念の描出として新た に理解されなおすからである。
以上の考察から、「否定的描出」の機能を考慮すれば、「自然の解釈学」は、崇高な自然 の反省にかんしても妥当する。上述のように、崇高とは「その表象が心を規定して、自然 の到達しがたさを諸理念の描出として考えさせる」(V, 268)自然の対象である。このことは 構想力について、自然の表象の総括が不可能であることが、まさに理念の描出として理解 されることを意味する。言い換えれば、崇高な自然は、構想力が描出不可能なものを描出 しようとする努力に対する、実例による説明に他ならない。このように崇高な自然が、構 想力によって総括不可能な「総体性」にかんして、描出不可能な理念を描出するものとし
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て理解されることには、たしかに解釈の含意が見出される。というのは、「総体性」として の崇高な自然に対して、理念のもとで特定の意味が与えられるからである。崇高な自然は、
構想力にとって反目的的であり、総括することができないので形式を欠いたまま残されて いた。ところがこの自然が、総括不可能であるという点で、描出不可能な理念の描出とし て理解されなおすのである。こうして本研究は、崇高の判断における自然の美感的反省を
「崇高な自然の解釈学」として把握することが可能である。すなわち、この「崇高な自然 の解釈学」は、描出不可能な理性理念の「否定的描出」として、構想力が総括できない自 然の表象を理解する美感的反省に他ならない(34)。
七 「崇高な自然の解釈学」と自然の他者性
以上の考察によって本研究は、「崇高な自然の解釈学」の立場から、ベーメのカント批判 に対して次のように反論することができる。上述のように、ベーメは、崇高論が自然支配 という近代のプロジェクトに属することを批判していた。カントは、自然そのものを崇高 と見なすのではなく、自然が引き起こす主観の結果を崇高と見なす。つまり崇高の根拠は 主観のうちにある。だがこうした崇高の「主観化」によって、理性的主観に優越性を認め て自然を従属させることが可能になる。というのは、自然ではなく理性的主観を崇高と見 なすことによって、自然の崇高さが理性的主観のうちに回収されていると解釈されるから である。
しかし本研究の考察によれば、こうした批判が妥当しないことは明らかである。そこで 本研究は、ベーメのカント批判に次のように反論することができる。
第一に、崇高の感情は道徳的感情とは異なり、美感的判断力による認識諸能力の調和の 反省に基づいていた。そのため、主観の感性的自然と構想力を含めた諸能力は、純粋実践 理性によって規定されないまま残されている。感性的自然と構想力は未規定のまま反省さ れ、その限界をとおして理性的主観の存在を意識させる。このことは、理性的主観を崇高 と見なす場合に、理性の存在が構想力をとおして感じ取られることを意味する。言い換え れば、理性の存在は、構想力の限界の意識のうちで間接的に感じられるのである。このよ うに構想力の限界が理性の存在を感じさせるかぎり、構想力の対象である崇高な自然は、
理性的主観のうちに回収することが不可能である。すなわち崇高な自然は、理性的主観を 崇高と見なす場合にも感性的主観に現前していなければならない。というのは、崇高な自 然がまさに現前していなければ、構想力は限界に至らず、理性の存在を感じさせることが できないからである。
第二に、崇高の判断における自然の美感的反省は、「崇高な自然の解釈学」として把握す ることができた。この「崇高な自然の解釈学」は、描出不可能な理性理念の「否定的描出」
として、構想力が総括できない自然の表象を理解する美感的反省である。
ところで、構想力による総括にかんして、ピロウ説は次のような解釈を提示していた。
「崇高な反省」は、規定的に統一された全体として芸術作品の意味を把握することに挫折 する。むしろこの「反省」は、美感的理念のうちで、作品の可能な意味に対する「部分的 で不完全な洞察」を提供するにすぎない。こうした反省は、ピロウによれば、「異質な他者」
に対する解釈的応答のモデルを提供する。換言すれば、「崇高な反省」は、概念によって把