第三章 崇高の判断と自然の他者性
四 崇高論における自然概念の領域から自由概念の領域への「移行」
こうして前節までの議論を考慮すれば、ベーメがカントの崇高論を誤解していることは 明白である。ベーメによれば、崇高の「主観化」は、理性的主観に優位を認めて自然を従 属させることを可能にする。というのは、自然ではなく理性的主観を崇高と見なすことに よって、自然の崇高さが理性的主観のうちに回収されていると解釈されるからである。し かし本研究の立場から見れば、こうした解釈は誤解である。というのは、構想力の限界が 理性の存在を感じさせるかぎり、構想力の対象である崇高な自然は、理性的主観のうちに 回収されることができないからである。言い換えれば、崇高な自然は、理性的主観を崇高 と見なす場合にも感性的主観に現前していなければならないからである。したがって、自 然ではなく主観のうちに崇高の根拠を位置づけることは、実践理性のもとで理性的主観が 自然を隷属させることを可能にするわけではないのである。
それでは崇高の反省は、自然をどのような存在として理解させてくれるのだろうか。こ のことは、自然概念の領域から自由概念の領域への「移行」の議論をもとに解き明かすこ とができる。第一章のなかで本研究は、自然概念の領域から自由概念の領域への「移行」
を次のように説明していた。すなわち、『純粋理性批判』によって確立した現象の世界と、
『実践理性批判』によって確立した「超感性的なもの」の世界は、相異なる世界として分 離されたままである。しかし道徳法則によって課せられた究極目的は、自然のうちで実現 されるべきである。そこで判断力は、この究極目的の実現を保証するために、自然の合目 的性の原理によって「移行」を可能にする。言い換えれば、判断力はこの原理をとおして、
現象の世界から「超感性的なもの」の世界への「移行」を可能にするのである。ところが 崇高論にかんしては、カント自身の論述においても、また従来のカント研究においても、
この「移行」が未だ十分に解明されないまま課題として残されている(18)。そこで本研究 は、崇高な自然の理解にとって必要なかぎりでこの「移行」を説明する。
崇高論における「移行」を説明する場合、C・プリースの考察は不可避の前提条件に属 する。崇高の論理によって批判哲学を読み解くプリースは、崇高による自然概念の領域か ら自由概念の領域への「移行」を次のように解釈した。すなわち崇高は、感性的なものか ら「超感性的なもの」へと「移行」するよう予め決定されている。というのも、崇高のう ちでは、「超感性的なもの」が感性的なものの観点から思考されるからである。このプリー ス説は、次の五点に要約することが可能である(19)。
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第一に、崇高のうちでは、主観自身の「使命(Bestimmung)」が詐取をとおして自然の 対象の「規定(Bestimmung)」として思考される。だがこの詐取は、たとえ詐取として認 識されたとしても、消滅することがないように思われる(20)。このように想定する根拠は 崇高論に見出される。その根拠として、カントは崇高な対象について語っている。また崇 高な自然は、「その直観がこれらの無限性という理念をともなうような、自然の諸現象のう ちでは、自然は崇高である」(V, 255)と定義される。さらにまたカントは、「心のうちに見 出される崇高性」(V, 245)にかんして、対象がこの崇高性の描出に役立つと説明する。これ ら の 定 義 や 説 明 は 、 カ ン ト が 崇 高 を 自 然 の 対 象 へ と 「 再 び 転 移 し て い る こ と (Rückübertragung)」を推測させる。
第二に、美および崇高にかんして、認識諸能力の調和は主観的なままであり、対象につ いて何も表現していない。いずれの場合にも、対象は最終的に問題にならず、対象が合目 的的に使用されるにすぎない。もっとも唯一の区別が存在する。崇高の快の契機は対象に 対応せず、主観によって付与されるだけである。また認識諸能力は、対比によってのみ調 和的であると表象される。しかしこのことは、主観の感情だけが崇高と特徴づけられるこ とを帰結するわけではない。自然の対象は、理性という無限の能力と比較すれば小さいと 評価される。だがこの自然に対する「否定的関係(negative Rückbezug)」が存在しなけれ ば、崇高の「より高次の合目的性」(V, 245)は思考できないからである。この「合目的性」
は、自然から理性へと観点を変更した局面ではじめて発見されることになる。
第三に、この「より高次の合目的性」を考慮すれば、次のことが想定される。それは、
この「合目的性」が純粋に主観的な水準で、経験の体系的統一にかんする思考を基礎づけ 促進することである。というのは、反目的的と思われる自然のうちで「より高次の合目的 性」が認められることは、自然の合目的性という主観的原理を想定するように勇気づける からである。またこのことは、経験の体系的統一が可能であることを予期させるからであ る。こうして「より高次の合目的性」をとおして、形式について経験の体系から逸脱した ものが克服される。経験の統一にかんして、カントの思考の根底にあるのは、まさにこの
「より高次の合目的性」である。
第四に、感性的なものから「超感性的なもの」へ到達することだけを考慮すれば、崇高 は前者から後者へと「移行」するよう予め決定されている(21)。というのも、崇高のうち では、「超感性的なもの」が感性的なものの観点から思考されるからである。構想力は、そ の挫折をとおして理性の存在を美感的に証明する(22)。そのため構想力は、主観の感性的 局面として、同じ主観の超感性的局面を示唆する。主観の使命と自然の規定との詐取を考 慮すれば、自然は「超感性的なもの」を指示する。これを言い換えれば、自然現象を機縁 として「超感性的なもの」の可能性が思考されるのである。この場合、自然は「超感性的 なもの」の「記号(Zeichen)」に他ならない。だがそれは、自然が「超感性的なもの」の象 徴であるという意味においてではない。むしろ自然が主観のうちに「超感性的なもの」を 呼び起こすからである。
第五に、崇高は、自然現象が主観のうちに超感性的使命を呼び覚ます可能性を明らかに する。崇高のうちでは、感性的な自然の表象が、「この表象のある可能な超感性的使用に役 立つものとして、判定される」(V, 267)。崇高は、「移行」の問題を引き起こす理念の描出 不可能性にかんして、次のような可能性を意味する。すなわち崇高は、自然現象を理念の
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描出として把握する可能性を意味し、同時に理念の描出不可能性を強調する唯一の可能性 を意味する。こうして崇高は、プリースによれば、「感性的なもの」と「超感性的なもの」
との区別を否定せずに「移行」を可能にするのである(23)。
このようにプリースの解釈は、崇高論における自然概念の領域から自由概念の領域への
「移行」をおよそ解明した。崇高は、「感性的なもの」から「超感性的なもの」への「移行」
を可能にする。というのは、崇高にかんして、主観の感性的局面としての構想力が、同じ 主観の超感性的局面を示唆するからである。崇高はまた、自然が主観の超感性的使命を呼 び覚ます可能性を明らかにする。というのは崇高のうちで、自然の表象が超感性的使用に 役立つものとして判定されるからである。
こうしてプリース説にしたがって、崇高による「移行」を考慮すれば、崇高論における 自然は次のように理解される。すなわち崇高な自然は、自然概念の領域から自由概念の領 域への「移行」にとって必要不可欠である。というのは、この自然を契機として、自由概 念の領域に属する「超感性的なもの」の可能性が思考されるからである。言い換えれば、
崇高な自然は、「超感性的なもの」を主観のうちに呼び起こすので、この「超感性的なもの」
の記号である。崇高な自然は、感性的なものの観点から見れば、「超感性的なもの」を意味 する記号として理解される。だがこのことは、崇高な自然が、反省的判断力によって「超 感性的なもの」との関係に置き入れられ、たんなる感性的な対象であることを超えて、「超 感性的なもの」の理念のもとで理解されることを意味する。こうした理解の仕方は、後述 するように、反省的判断力の解釈作用に基づく理由で、解釈学的理解と呼ぶことができる。
したがって崇高な自然の反省は、崇高な自然の解釈を可能にするのである。
そこで次節では、この自然の解釈を詳細に解き明かすために、崇高論の解釈学的研究を 検討する。
五 「崇高な反省」と解釈作用
前節では、自然概念の領域から自由概念の領域への「移行」の解明をとおして、崇高論 のうちで自然の解釈が可能であることを説明した。それでは、自然を解釈することは具体 的に何を意味するのだろうか。今日、崇高論における解釈の可能性を探究する場合、K・
ピロウ説の検討は不可避の課題である。ピロウは、芸術作品の反省に限定したとは言え、
崇高論の解釈学的含意を解明した。ピロウによれば、優れた芸術作品は、人間がその可能 な意味の全体を規定しようとしても決して規定できない豊かな内容を含んでいる。だが芸 術作品が提起する挑戦に対する解釈的応答は、崇高の経験における構想力の反省によって 定式化することが可能である。このピロウ説の要点は、筆者から見れば、次の五点に整理 することができる(24)。
第一に、芸術作品にかんする美感的判断は、判断の二つの契機を含む。それは、作品の
「美しい形式」を反省する判断であり、また作品の「崇高な内容」を把握する判断である (25)。美感的理念が呼び起こす主題的素材は、美感的判断の形式によって表象されるかも しれない。だが美しい形式が美感的理念を表現するという事実は、美感的理念の主題的内 容が、この形式にかんする美感的判断によって評価されることを含意するわけではない。
つまりカントは、美感的理念の主題的内容が趣味判断の対象であることを示唆していない