想 と 文 学 の 面 に 着 目 し て
―
一 は じ め に 艾
軒 学 派 は
、『 宋 元 学 案
』 に
「 艾 軒 学 案
」 と し て 位 置 づ け ら れ た 学 者 た ち か ら な る 理 学 の 一 流 派 で あ る
。『 宋 元 学 案
』 は 黄 宗 羲 ら に よ っ て 編 纂 さ れ
、 宋 代 と 元 代 の 学 問 の 源 流 と 伝 承 を ま と め た 著 作 で あ り
、 そ の 中 の 学 派 の 分 類 も 後 世 の 学 者 に よ っ て 認 め ら れ て い る
。 南 宋 時 代 に お け る 艾 軒 学 派 は 林 光 朝 を 開 祖 と し
、 そ の 伝 承 関 係 の 大 部 分 は す で に 南 宋 の 当 時 に お い て も 明 ら か に さ れ て い た
。 本 章 と 関 わ る
「 艾 軒 学 案 表
」(
『 宋 元 学 案
』 巻 四 十 七 よ り 引 用
) の 主 な 部 分 を 以 下 の 図 に 示 す
。 前
章 で 述 べ た よ う に
、 こ れ ま で
、 艾 軒 学 派 を 対 象 に し た 先 行 研 究 は 少 な い
。 王 宇
『 劉 克 荘 与 南 宋 学 術
』 と 侯 体 健
『 劉 克 荘 的 文 学 世 界
― 晩 宋 文 学 生 態 的 一 種 考 察
―
』 に お い て も 部 分 的 に 言 及 は あ る が
、 艾 軒 学 派 を も っ ぱ ら 論 じ た も の は な い
。 艾 軒 学 派 の 各 個 人 に つ い て も
、 林 光 朝 に 関 す る 先 行 研 究 が
、 管 見 の 限 り
、 僅 か 二 本 あ る の み で
、 い ず れ も 概 説 的 な 内 容 に 止 ま る(1
)
。 例 外 的 に
、 林 希 逸 と 劉 克 荘 に 関 す る 研 究 は 幾 つ か あ る が
、 こ の 三 人 を 除 く
、 艾 軒 学 派 に 連 な る
、 そ の 他 の 学 者 に つ い て は い ま だ 全 く 注 目 さ れ て い な い
。 し た が っ て
、 本 章 で は 艾 軒 学 派 全 体 を 取 り 上 げ
、 艾 軒 学 派 に
35
お け る 伝 承 関 係 を 中 心 に 考 察 を 加 え る
。 た だ し
、 前 掲 の 図 に 見 え る 劉 夙 の 支 脈 に つ い て は 不 明 な 点 が 多 い た め(2
)
、 本 章 で は 林 光 朝
、 林 亦 之
、 陳 藻
、 林 希 逸 の 支 脈 に 注 目 し
、 こ の 支 脈 に お け る 伝 承 と 変 転 に つ い て
、 も っ ぱ ら 考 察 を 進 め る こ と と し た い
。 二
艾 軒 学 派 に つ い て
『 宋 元 学 案
』は 清 代 の 学 者 で あ る 黄 宗 羲・ 黄 百 家・ 全 祖 望 ら に よ っ て 編 纂 さ れ た 宋 元 儒 学 史 の 大 著 で あ る
。『 宋 元 学 案
』 は 宋 元 儒 学 思 想 の 発 展 の 脈 絡 を 学 案
( 学 派
) 毎 に 分 け て 論 じ
、 学 術 の 源 流 と 師 承 関 係 の 分 析 に 重 点 を 置 い て い る
。 ま た 学 案 毎 に
、 学 案 表 も あ り
、「 学 案 表
」 は 学 者 間 の 師 承 関 係 を 具 体 的 に 図 式 化 し た も の で あ る と も 言 え る
。 艾 軒 学 案 は 諸 学 案 の 中 の 一 つ で あ り
、「 艾 軒 学 案 表
」 は そ の 師 承 関 係 を 表 し た も の で あ る
。 艾 軒 学 派 の 概 略 に つ い て は
、『 宋 元 学 案
』 の 中 で 以 下 の よ う に 記 載 さ れ て い る(3
。)
和 靖 高 弟
、 如 呂 如 王 如 祁
、 皆 無 門 人 可 見
。 塩 官 陸 氏 独 能 伝 之 艾 軒
、 于 是 紅 泉
、 双 井 之 間
、 学 派 興 焉
。 然 愚 読 艾 軒 之 書
、 似 兼 有 得 于 王 信 伯
、 蓋 陸 氏 亦 嘗 従 信 伯 遊 也
。 且 艾 軒 宗 旨
、 本 于 和 靖 者 反 少
、 而 本 于 信 伯 者 反 多
、 実 先 槐 堂 之 三 陸 而 起
。 特 槐 堂 貶 及 伊 川
、 而 艾 軒 則 否
、 故 晦 翁 于 艾 軒 無 貶 詞
。 終 宋 之 世
、 艾 軒 之 学
、 別 為 源 流
。 述 艾 軒 学 案
。 和
靖 の 高 弟
、 例 え ば 呂
、 王
、 祁 は
、 皆 門 人 を も た な か っ た
。 た だ 塩 官 の 陸 氏 だ け が 艾 軒 に 伝 授 し た
。 そ こ で 紅 泉 と 双 井 の 間 に
、 学 派 が 興 っ た
。 然 る に 私 は 艾 軒 の 書 を 読 む と
、 王 信 伯 の も の も 兼 有 し て い る よ う で
、 お そ ら く 陸 氏 は ま た 嘗 て 信 伯 に も 従 っ て 交 遊 し て い た で あ ろ う
。 し か も 艾 軒 の 宗 旨 は
、 和 靖 に よ る 者 反 っ て 少 な く
、 信 伯 に
36
よ る 者 反 っ て 多 く
、実 に 槐 堂 の 三 陸 に 先 ん じ て 起 こ る
。特 に 槐 堂 は 伊 川 を も 貶 し た が
、艾 軒 は そ う で は な か っ た
。 故 に 晦 翁 は 艾 軒 に 対 し て 貶 す る 言 葉 は 無 か っ た
。 宋 の 終 わ り ま で
、 艾 軒 の 学 は
、 独 自 の 源 流 と 為 っ た
。 艾 軒 学 案 と 言 う
。 以
上
、 艾 軒 の 学 術 の 源 は 程 頣 の 直 弟 子 で あ る 尹 焞
( 号 は 和 靖 処 士
) に 溯 っ て
、 ま た 王 信 伯 か ら 得 た と こ ろ も 多 く
、 朱 熹 に 尊 敬 さ れ て い た こ と な ど を 記 述 し て い る
。艾 軒 学 派 の 開 祖 で あ る 林 光 朝 は 理 学 者 と し て
、当 時 の 他 の 学 者 に「 艾 軒 先 生
」 と 敬 称 さ れ た
。 著 作 と し て
『 艾 軒 集
』 が 残 っ て い る
。 艾 軒 学 術
( 林 光 朝 の 学 術
) は 福 建 地 方
、 特 に 福 清 と 莆 田 の 両 地 域 を 中 心 に 伝 播 し
、 多 く の 門 人 と 弟 子 を 持 っ て い た
。 宋 末 元 初 の 劉 壎 は
『 隠 居 通 議
』 巻 三 で
、 林 希 逸 の 言 葉 を 引 用 し て
、当 時 の 学 術 情 勢 に つ い て 語 っ て い る(4
)
。そ の 中 で
、林 光 朝 が 当 時 の 儒 学 の 代 表 的 存 在 で あ る 呂 祖 謙
、朱 熹
、 張 栻
、陸
九 淵 の 四 人 と 並 び 立 っ て い た と 言 っ て い る
。実
際
、林 光 朝 の 学 術 と そ の 伝 承 は 当 時 に お い て す で に 一 つ の「 学 派
」 と し て 認 め ら れ て い た と 考 え ら れ る
。 宋 末 の 曽 由 基
( 生 卒 年 不 詳
) の
「 賀 林 正 字(5
」)
と い う 詩 の 中 に も
「 艾 軒 派
」 の こ と に 言 及 し
、 当 時 艾 軒 学 派 が 存 在 し て い た こ と が 窺 え る
。 ま た
、 艾 軒 学 術 の 内 容 に つ い て は
、『 宋 元 学 案
』 の 中 に 以 下 の よ う な 叙 述 が あ る(6
)
。 先
生 学 通 六 経
、 貫 百 氏
、 言 動 必 以 礼
、 四 方 学 者 亡 慮 数 百 人
、 然 未 嘗 著 書
、 惟 口 授 学 者
、 使 之 心 通 理 解
。 嘗 曰
「 道 之 本 体
、 全 于 太 虚
。 六 経 既 発 明 之
、 後 世 注 解 已 渋 支 離
、 若 復 增 加
、 道 愈 遠 矣
」。 又 曰
「 日 用 是 根 株
、 言 語 文 字 是 注 脚
」。 説 者 謂 南 渡 後 倡 伊 洛 之 学 于 東 南 者
、 自 先 生 始 云
。 先
生 の 学 は 六 経 に 通 じ
、 百 氏 を 貫 き
、 言 動 は 必 ず 礼 に 沿 っ て 行 い
、 四 方 か ら の 学 ぶ 者 は お お よ そ 数 百 人 も い た
。
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し か し 先 生 は 嘗 て 書 を 著 さ ず
、 た だ 学 ぶ 者 に 口 授 し て
、 彼 ら を 心 中 に 会 得 さ せ
、 理 解 さ せ た
。 先 生 は 嘗 て 言 っ た
「 道 の 本 体 は
、 太 虚 に そ ろ っ て い る
。 六 経 は 既 に こ れ を 明 ら か に し
、 後 世 の 注 解 は 已 に 支 離 に 渋 り
、 も し ま た そ れ に 加 え れ ば
、道 は ま す ま す 遠 く な る
」。 ま た こ う 言 っ た「 日 々 の 所 作 は 根 本 で あ り
、言 語 文 字 は そ の 注 脚 で あ る
」。 説 く 人 は 謂 う
、 南 渡 の 後 伊 洛 の 学 を 東 南 で 倡 え る 者 は
、 先 生 よ り 始 ま る と
。 以
上
、 林 光 朝 は 経 典 の 文 字 の 訓 詁 に 拘 泥 せ ず
、 聖 賢 の 心 を 知 り
、 そ れ に 対 す る 実 践 を 尤 も 重 要 視 し
、 ま た 自 ら 著 述 す る こ と を 軽 視 し て い る こ と も 見 て 取 れ る(7
。)
つ ま り
、 林 光 朝 の 学 問 の 中 核 は 儒 学 の 実 践 に あ り
、 経 典 の 解 釈 に な い の は 明 ら か で あ る
。 そ れ ゆ え
、 当 時 福 建 の 学 者 の 間 で は
、 学 ぶ 者 の 姿 を 見 れ ば そ の 人 が 艾 軒 の 弟 子 か 否 か が 判 断 で き る と い う 話 さ え 出 て い た(8
。)
清 代 の 李 清 馥 が 編 纂 し た
『 閩 中 理 学 淵 源 考
』 の 中 に も
、「 文 節 林 艾 軒 先 生 光 朝 学 派
」 と い う 一 項 が あ り
、 陳 俊 卿
( 一 一 一 三
― 一 一 八 六
) と 林 希 逸 の 言 葉 を 引 用 し 次 の よ う に 説 明 し て い る(9
)
。 陳 俊 卿 は
、 莆 田 地 域 に お い て 洛 学 を 尊 重 す る 学 風 は 艾 軒 先 生 に よ る と 指 摘 し
、 林 希 逸 は
、 東 南 地 域 で 経 学 と 品 行 を 提 唱 し
、 聖 賢 の 心 は 訓 詁 に あ ら ざ る こ と を 知 ら し め た の が 莆 の 南 夫 子 よ り 始 ま る と 指 摘 し て い る
。 こ の よ う に
、 林 光 朝 は 福 建 地 方 に 伝 え た 洛 学 の 代 表 者 と し て
、「 南 夫 子
」 と 呼 ば れ て い た
。 彼 ら 二 人 の 言 に よ っ て
、 彼 の 南 宋 儒 学 史 に お け る 地 位 が 認 め ら れ て い た こ と が 窺 え る の で あ る
。 と こ ろ で
、 南 宋 後 期
、 程 頤 の
「 文 を 作 る は 道 を 害 す
」「 詩 を 作 る は 道 を 妨 げ る
」 と い う 説 が 多 数 の 理 学 者 の 反 発 を 招 き
、 艾 軒 学 派 も そ れ を 反 映 す る 典 型 的 な 一 例 で あ っ た こ と が 伺 え る
。 何 故 な ら
、 林 光 朝 は 一 般 の 理 学 者 と 異 な っ て
、 特 に 詩 文 創 作 を 重 視 し
、 ま た そ の 理 念 が 彼 の 弟 子 た ち に 継 承 さ れ た か ら で あ る
。 以 下 に お い て
、 林 光 朝 の 詩 文 に 対 す る 評 論 を い く つ か 挙 げ よ う(10
)
。 楊 万 里
『 誠 斎 詩 話
』 の 中 に
、 林 光 朝 に つ い て
、 次 の よ う な 記 述 が あ る(11
。)
38
自 隆 興 以 來
、 以 詩 名
、 林 謙 之
、 范 至 能
、 陸 務 観
、 尤 延 之
、 蕭 東 夫
。
…
… 前 五 人 皆 有 詩 集 伝 世
。 隆
興 以 来
、 詩 を 以 っ て 著 名 で あ る の は
、 林 謙 之
( 光 朝
)、 范 至 能
( 成 大
)、 陸 務 観
( 游
)、 尤 延 之
( 袤
)、 蕭 東 夫
( 徳 藻
)。
…
… 前 の 五 人 の 詩 集 は 皆 世 に 伝 わ っ た
。 つ
ま り
、 楊 万 里 は 林 光 朝 を 当 時 の 四 大 詩 人 と 並 ぶ 人 物 と 考 え て い た の で あ る
。 ま た
、 後 世
、 明 代 の 林 俊
( 一 四 五 二
― 一 五 二 七
) は 林 光 朝 の 詩 に つ い て
、「 艾 軒 は 道 学 を 莆 田 で 倡 え た だ け で な く
、 詩 も 莆 田 の 祖 で あ る(12
」)
と い う よ う に 彼 の 詩 を 高 く 評 価 し て い る
。 次 に 林 光 朝 の 文 章 に 対 す る 評 論 を 見 て み た い
。ま
ず 劉 克 荘 の 評 論 を 引 用 す る
。彼 が 書 い た「 艾 軒 先 生 集 序
」の 中 に
、 次 の よ う な 記 述 が あ る(13
。)
以 言 語 文 字 行 世
、 非 先 生 意 也
。 然 先 生 学 力 既 深
、 下 筆 簡 厳
、 高 処 逼
「 檀 弓
」『 穀 梁
』、 平 処 猶 与 韓 並 駆
。 言
語 と 文 字 を 以 っ て 世 間 に 流 行 し た の は
、 先 生 の 意 で は な か っ た
。 し か し 先 生 の 学 力 は 深 く
、 筆 を 下 せ ば 簡 潔 で 厳 正 で あ っ た
。 高 く は
「 檀 弓
」『 穀 梁
』 に 逼 り
、 近 く は ま る で 韓 愈 と 並 走 す る よ う で あ る
。 劉
克 荘 の こ の 評 論 は 少 し 褒 め す ぎ か も し れ な い が
、 艾 軒 の 文 章 は 当 時 に お い て 強 い 影 響 力 の あ っ た こ と は 確 か で あ る
。 ま た
、 林 希 逸 の
「 丘 退 斎 文 集 序
」 の 中 で も
「 老 艾 一 宗 之 学
、 固 非 止 於 為 文
、 而 艾 軒 之 文 視 乾 淳 諸 老 為 絶 出
( 老 艾 は 一 つ の 学 派 と し て
、 固 よ り 文 を 為 す こ と に 止 ま ら な い
。 艾 軒 の 文 は 乾 淳 の 諸 老
( 引 用 者 注
: 朱 熹
、 陸 九 淵
、 陳 亮
、
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葉 適 な ど を 指 す
) よ り 傑 出 し て い た(14
))
」 と 高 く 評 価 さ れ て い る
。 さ ら に
、 劉 壎 の
『 隠 居 通 議
』 巻 三 の 中 に(15
、)
周 益 公 銘 其 墓
、「 公 学 造 深 醇
、 所 為 文 奥 雅 篤 厚
、 刊 落 華 腴
、 而 宿 於 理
」。
…
… 大 概 直 是 一 博 洽 之 儒
、 醇 正 之 作
、 尤 深 於 経 者
。 其 蒼 勁 処
、 非 浅 学 能 及
。 周
益 公
( 周 必 大
) は 彼
( 林 光 朝
) の 墓 誌 銘 を 書 い た
。「 公 の 学 は 深 く て 芳 醇 で あ っ た
。 作 っ た 文 は 奥 深 く 典 雅 篤 厚 で あ り
、華 や か さ や 余 計 な も の を 削 っ て
、理 に 宿 っ た
」。
…
… お お よ そ 一 人 の 博 識 の 儒 者 で あ り
、そ の 作 は 純 正 で
、 尤 も 経 に 深 い 者 だ
。 そ の 力 強 さ は 浅 学 の 及 ぶ も の で は な い
。 と
い う 記 述 が あ る
。 こ こ で 周 必 大 は 林 光 朝 の 文 章 が 理 を 含 み
、 華 麗 な 部 分 を 削 り
、 奥 雅 篤 厚 の 境 地 に 至 っ た と 評 価 し て い る
。 劉 壎 は そ の 評 価 を 受 け 入 れ た う え で
、 林 光 朝 の 文 章 は 凡 才 に は と う て い 及 ぶ も の で は な い と い う 結 論 も 加 え て い た
。以 上 の 幾 つ の 論 述 か ら 見 る と
、林 光 朝 の 文 章 は 当 時 に お い て 重 要 な 地 位 を 占 め て い た こ と が 分 か る で あ ろ う
。 民 国 の 劉 咸 炘 は
『 宋 元 文 派 略 述
』 の 中 で
、「 艾 軒 文 派
」 の 存 在 に つ い て
「 以 文 伝 派 者
、 又 有 閩 中 林 氏
、 林 光 朝 伝 林 亦 之
、 亦 之 伝 陳 藻
、 藻 伝 林 希 逸
。 其 旁 支 劉 克 荘
( 文 を 以 っ て 派 を 伝 ふ る 者
、 又 た 閩 中 の 林 氏 有 り
、 林 光 朝 は 林 亦 之 に 伝 へ
、 亦 之 は 陳 藻 に 伝 へ
、 藻 は 林 希 逸 に 伝 ふ
。 其 の 旁 支 は 劉 克 荘 な り(16
))
」 と 述 べ て い る
。 劉 咸 炘 氏 が 記 す よ う に
、 艾 軒 学 派 は 理 学 の 学 派 で あ り な が ら も
、 文 を 以 て 学 派 を 伝 承 し た こ と も 認 め ら れ る の で あ る
。 以 上
、 述 べ て き た よ う に
、 艾 軒 学 派 は 儒 学 と 詩 文 の 両 面 を 重 視 し た 学 派 で あ る こ と が 明 ら か に な っ た
。 以 下 に お い て は
、 こ の 両 面 か ら
、 艾 軒 学 派 に お け る 伝 承 と 変 転 に つ い て の 考 察 を 行 う
。