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― 劉

ドキュメント内 艾軒学派と江湖派詩人の研究 (ページ 107-120)

克 荘 と 林 公 遇 父 子 と 関 連 し て

は じ め に 詩

文 を 焚 く こ と

、 所 謂

「 焚 詩

」 ま た は

「 焚 稿

」 と い う 言 葉 は

、 宋 代 に 入 り

、 文 人 の 詩 作 と 文 集 の 中 に 頻 繁 に 現 れ て く る

。 こ こ で 言 う

「 焚 詩

」 と

「 焚 稿

」 は 特 に 著 者 が 自 分 の 作 品 を 自 ら 焚 く こ と を 指 す

。 宋 代 以 前

、 例 え ば

、 杜 牧

の よ う に

、 自 ら

「 焚 稿

」 を 行 う 文 人 も 偶 に は い た

。 時 代 が 降 っ て

、 宋 代 に な る と

、「 焚 稿

」 の 例 が 多 く な る

。 本 論 文 で 着 目 す る 江 湖 派 の 劉 克 荘 が 焚 稿 行 為 を 行 っ て お り

、 ま た 彼 の 妻 で あ る 林 節 の 父

( 林 瑑

) と 兄

( 林 公 遇

) も

「 焚 稿

」 を 行 っ て い る

。 こ の よ う な 一 つ の 家 族 に 限 っ て も

「 焚 稿

」 が し ば し ば 行 わ れ て お り

、 従 っ て 宋 代 の

「 焚 稿

」 と い う 現 象 を 全 体 的 に 考 察 す る の は 興 味 深 い こ と に な る と 考 え る

。 宋 代 文 人 の

「 焚 稿

」 に つ い て の 先 行 研 究 は 幾 つ か あ り

、 主 な 論 文 は 以 下 の 通 り で あ る

。 浅 見 洋 二 氏

「 焚 棄 と 改 定

― 唐 宋 期 に お け る 別 集 の 編 纂 あ る い は 定 本 の 制 定 を め ぐ っ て

」 は

、「 自 作 の 焚 棄 に は

、 作 者 の 創 作 能 力 と 鑑 賞 眼

、 ひ い て は 文 学 観 が 年 齢 を 重 ね る の に 伴 っ て 進 歩・ 変 化 し て ゆ く と い う こ と が 深 く 関 わ っ て い た と 考 え ら れ る

」と 分 析 し て い る

。 向 以 鮮 氏

「 劉 克 荘 焚 毀 早 期 詩 歌 的 詩 学 衝 動

」 は

、「 劉 克 荘 の 焚 稿 行 為

、 其 の 真 の 原 動 力 は ま さ に 彼 の 広 く 大 き く 壮 麗 な 詩 学 の 衝 動 に よ る も の だ

」 と し て

、 劉 克 荘 の 焚 稿 行 為 を 解 釈 す る

。 郭 艶 華 氏

「 楊 万 里 焚 棄 千 首 江 西 体 詩 的 原 因 新 探

」 に お い て は

、楊 万 里 の 焚 稿 行 為 に つ い て

「 科 挙 の 文 章 を 捨 て 去 る こ と は

、楊 万 里 が 創 作 方 向 を 明 確 に す る 関 鍵 で あ り

、 彼 は 焚 詩 の 行 為 に よ っ て 科 挙 の 文 章 に お け る 媚 び る 詩 風 に 対 す る 態 度 を 表 明 し た

。 こ れ は 理 学 家 と し て の 道 徳 人 格 と 密 接 な 関 係 が あ る

」 と 論 述 し て い る

。 こ の 三 つ の 先 行 研 究 は 詩 学 認 識 の 変 遷 に せ よ

、 創 作 技 術 の 進 歩 に せ よ

、 個 人 的

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な 原 因 は そ れ ぞ れ あ る が

、 結 果 的 に は

、 以 前 の 作 品 に 不 満 を 抱 い て

、 自 己 の 作 品 を 捨 て 去 る こ と に お い て 共 通 で あ っ た

。 そ こ で

、 本 章 に お い て は

、 先 行 研 究 に は 見 ら れ な い 例 を 取 り 上 げ て

、「 焚 稿

」 に つ い て 詳 し く 考 察 し た い

。 張 方 平

( 一

〇 七

― 一

〇 九 一

) が 蘇 洵

( 一

〇 九

― 一

〇 六 六

) の た め に 作 っ た

「 文 安 先 生 墓 表

」 の 中 に

、 こ の よ う な 記 述 が あ る

一 日

、 因 覧 舊 文

、 作 而 曰

、 吾 今 之 学

、 乃 猶 未 之 学 也 已

。 取 舊 文 稿 悉 焚 之

、 杜 門 絶 賓 友

、 繙

『 詩

』『 書

』 経 傳

、 諸 子 百 家 之 書

、 貫 穿 古 今

、 由 是 著 述 根 柢 深 矣

。 あ

る 日

、 自 分

( 蘇 洵

) の 旧 作 を 閲 覧 し

、 立 ち 上 が っ て 曰 く

、 現 在 の 私 の 学 識 は

、 な お 無 学 の 学 の よ う だ

。 そ こ で

、 旧 稿 を 取 り 出 し て 悉 く 焼 き 捨 て

、 門 を 閉 め て 客 を 断 り

、『 詩

』『 書

』 経 伝

、 諸 子 百 家 の 書 物 を 繙 き

、 古 今 を 貫 き

、 よ っ て 著 述 の 根 底 は 深 く な っ た

。 蘇

洵 は こ れ ま で の 自 分 の 学 識 及 び 旧 作 に 不 満 を 持 っ た た め

、 旧 稿 を 全 部 焼 き 捨 て て し ま っ た

。 実 際 に は

、 蘇 洵 が 旧 稿 を 焚 い た の は よ り 現 実 的 な 刺 激 を 受 け た か ら で あ る

。『 宋 史

』 巻 四 四 三

「 蘇 洵 伝

」 に は

「 挙 進 士

、 又 挙 茂 才 異 等

、 皆 不 中

。 悉 焚 常 所 爲 文

、 閉 戸 益 読 書

、 遂 通 六 経

、 百 家 之 説

、 下 筆 頃 刻 数 千 言

… 一 時 学 者 競 効 蘇 氏 爲 文 章

( 進 士 の 試 験 を 受 け

、 さ ら に 茂 才 な ど の 試 験 を 受 け た 末

、 全 部 落 第 し た

。 以 前 書 い た 文 章 を 悉 く 焼 き 捨 て

、 門 を 閉 め て 一 層 読 書 を し

、 遂 に 六 経 と 百 家 の 説 に 精 通 し

、 文 章 を 書 く と た ち ま ち の う ち に 数 千 言

… 当 時 の 学 ぶ 者 た ち は 蘇 氏 の 文 章 を 競 っ て 学 ん だ

)」 と 記 載 し て い る

。科 挙 に 落 第 し た 蘇 洵 は 以 前 の 文 章 を 焼 き 捨 て て

、数 年 間 独 学 し て

、学 問 に 没 頭 し た た め

、 そ の 後 彼 が 作 っ た 文 章 は 当 時 の 人 々 に 学 ば れ る よ う に な っ た

。 こ の

「 焚 稿

」 は

、 蘇 洵 の 学 問 と 文 章 技 術 を 進 歩 さ せ る

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契 機 と な っ た の で あ る

。 続 け て

、 陳 師 道

( 一

〇 五 三

― 一 一

〇 一

) の 場 合 を 見 て み よ う

。 彼 は

「 答 秦 覯 書

」 の 中 に

「 僕 於 詩 初 無 師 法

、 然 少 好 之

、 老 而 不 厭

、 数 以 千 計

。 及 一 見 黄 豫 章

、 盡 焚 其 稿 而 学 焉

( 私 は 詩 に 対 し て

、 初 め 師 か ら 伝 授 は な か っ た

。 け れ ど も 若 い 頃 か ら 好 み

、老 い て も 厭 き ず

、千 数 篇 餘 が あ っ た

。ひ と た び 黄 豫 章 と 会 う に 及 び

、原 稿 を 全 部 焚 い て 彼 に 学 ん だ

)」 と 書 い て い る

。詩 の み な ら ず

、文 に 対 し て も

、陳 師 道 は 非 常 に 慎 重 な 態 度 を 取 っ て い る

。『 衢 本 郡 斎 読 書 誌

』巻 十 九「 陳 無 己 後 山 集 二 十 巻

」 条 に

「 爲 文 至 多

、 少 不 中 意 則 焚 之

、 存 者 才 十 一

( 彼 が 作 っ た 文 章 は 非 常 に 多 く

、 い さ さ か 気 に 入 ら な い と そ れ ら を 焼 き 捨 て た

。 保 存 さ れ た の は 僅 か 十 分 の 一 だ っ た

)」 と 記 述 す る

。 こ の よ う に

、 宋 代 文 人 が 自 分 の 旧 作 に 不 満 を 持 っ て

、 そ れ ら を 焼 き 捨 て た こ と は 稀 で は な い

。 し か し

、 こ れ だ け が 宋 代 文 人

「 焚 稿

」 の 全 体 像 と は 考 え に く い

。 自 分 の 旧 作 に 不 満 を 持 つ た め の

「 焚 稿

」 は

、 宋 代 文 人

「 焚 稿

」 の 一 部 に 過 ぎ な い と 思 わ れ る

。 そ の た め

、 本 章 で は 宋 代 文 人 の 様 々 な

「 焚 稿

」 行 為 を 新 し い 視 点 か ら

、 総 合 的 に 把 握 す る こ と を 試 み て

、 以 下 の 三 つ の

「 焚 稿

」 の 場 合 を 提 示 し た い

。 但 し

、 本 文 で は

、 官 吏 が 公 文

( 実 用 的 な 文 章

、 或 い は 非 文 学 的 な 文 章

) を 焚 い た こ と は 対 象 か ら 除 外 す る

。 二

党 争 と の 関 わ り 周

知 の よ う に

、 宋 代 で は

、 党 争 と い う 官 僚

( 士 大 夫 か つ 文 人

) た ち の 間 に 起 こ る 政 治 的・ 学 術 的 な 闘 争 は 絶 え る こ と な く

、 終 始 存 在 し て い た

。「 熈 豊 党 争

」、

「 元 祐 党 争

」、

「 紹 興 党 禁

」、

「 慶 元 党 禁

」 な ど の 例 が 挙 げ ら れ る

。党

争 に 伴 っ て

、 学 術 上 或 い は 文 学 上 の 禍 が 常 に 生 じ た

。 そ の 中 に は

、「 烏 臺 詩 案

」、

「 車 蓋 亭 詩 案

」、

「 江 湖 詩 禍

」 な ど の 規 模 が 大 き い 事 件 が あ っ た

。 一 旦

「 詩 禍

」 が 起 こ る と

、 文 人 た ち は 作 品 の 版 木 を 毀 す こ と を 余 儀 な く さ れ る

。 南 宋 の 張 震

( 生 卒 年 未

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) は

「 文 禁

」 の 禍 の 状 況 を こ の よ う に 語 っ て い る

。「 将 近 世 名 公 文 集

、 尽 行 毀 板

、 不 問 是 非

、 玉 石 倶 焚

( 現 今 の 有 名 な 士 人 の 文 集 は

、 尽 く そ の 版 木 が 毀 さ れ る

。 是 非 を 問 わ ず

、 良 い も の も 悪 い も の も す べ て 焚 く

」。 こ の よ う な 宋 代 の 文 学 と 政 治 学 術 闘 争 の 関 係 に つ い て は

、 沈 松 勤 の

『 北 宋 文 人 与 党 争

』 と

『 南 宋 文 人 与 党 争

』、 ま た 張 秀 民

『 中 国 印 刷 史

第 一 章 の

「 宋 代

・ 書 禁 与 板 権

」 に 詳 し い

。 こ れ ら 三 書 に は 党 争 と 詩 禍 が 起 こ っ た 後

、 政 府 が 文 人 の 文 集 の 版 木 を 焚 く こ と 及 び 文 集 出 版 へ の 抑 制 な ど の 内 容 が 詳 述 さ れ て い る

。 し か し

、 こ れ ら の 書 に お い て

、 文 人 自 身 の 自 分 の 文 集 に 対 す る 態 度 や 処 置 方 法 な ど の 詳 細 な と こ ろ に ま で

、 十 分 に 注 目 し て い る と は 言 い 難 い の で

、 こ こ で 少 し 補 充 し て お き た い

。 慶 元 四 年( 一 一 九 八

)、 韓 侂 胄 が 程 学 を

「 偽 学

」と し て 排 斥 す る た め に 起 こ し た「 慶 元 党 禁

」に 巻 き 込 ま れ た 朱 熹 は

、 劉 季 章 に 宛 て た 書 簡

「 答 劉 季 章

」 第 八 書 の 中 に

、 以 下 の よ う に 言 う

王 晋 輔 来

… 欲 得 鄙 文 編 次 鋟 木

。此 雖 未 必 果 然

、亦 不 可 有 此 聲

。恐 渠 後 生 未 更 事

、不 識 時 務

、不 知 此 是 大 禍 之 機

… 望 痛 為 止 之

。 王

晋 輔 が 来 て

… 私 の 文 章 を 編 集 し て 上 梓 し よ う と し た

。 こ の こ と は 必 ず し も 果 た し て そ の 通 り に な る と は 限 ら な い が

、 そ の よ う な 名 声 を 有 し な い ほ う が よ い

。 恐 ら く 彼 は 若 く て 未 熟 で

、 情 勢 に う と く

、 こ れ が 大 き な 禍 が 起 こ る き っ か け と な る こ と か も し れ な い

… こ れ を 止 め る こ と を 痛 切 に 望 む

。 朱

熹 は 王 晋 輔 が 文 集 を 上 梓 し よ う と す る こ と を 恐 れ て 劉 季 章 に 頼 ん で 止 め さ せ た

。 朱 熹 の こ の 態 度 は 禍 を 避 け る 方 法 に す ぎ な い

。 し か し

、 宋 代 で は こ れ よ り 一 層 厳 し い 政 治 状 況 の も と で

、 文 集 を 出 版 す る こ と

、 さ ら に は

、 そ れ ら を

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保 存 す る こ と さ え 恐 ろ し い 時 期 が あ っ た

。 例 え ば

、 紹 興 年 間

、 秦 檜 が 権 力 を 握 っ て い る 時 期

、 程 瑀

( 一

〇 八 七

― 一 一 五 二

) が 程 倶

( 一

〇 七 八

― 一 一 四 四

) の た め に 書 い た

「 程 公 行 状

」 の 中 に

、 次 の 記 述 が あ る

。 公

平 生 著 述 不 可 勝 紀

、 已 抱 病 猶 不 輟

。 然 憂 深 慮 危

、 時 時 芟 削 焚 棄

、 今 所 存 者

、『 北 山 小 集

』 四 十 巻

、『 麟 臺 故 事

』 五 巻

、『 黙 説

』 三 巻

、 餘 無 傳 焉

。 公

の 一 生 の 著 述 は 非 常 に 多 く

、 す で に 病 に 冒 さ れ て も な お 書 く こ と を や め な か っ た

。 し か し 深 く 憂 慮 し て

、 常 に 削 除 し 焼 き 捨 て た

。 今 残 っ て い る の は

『 北 山 小 集

』 四 十 巻

、『 麟 臺 故 事

』 五 巻

、『 黙 説

』 三 巻 だ け で

、 他 は 伝 わ っ て い な い

「 紹 興 党 禁

」 の 厳 し い 状 況 下

、 程 倶 は 文 集 を 保 存 す る の も 不 可 能 に な り

、 彼 は 書 い た 文 章 を 絶 え ず 焼 き 捨 て た

。 こ の よ う に

、 政 府 か ら の 弾 圧 を 受 け て

、 文 人 た ち は 文 集 を 世 間 に 出 さ な い よ う に 抑 制 し て い た

。 つ ま り

、 禍 を 避 け る た め

、 自 身 の 意 志 に 背 き

、 自 分 の 文 章 を

「 焚 稿

」 し て い た の で あ る

。 三

文 集 編 纂 と の 繋 が り 前

掲 の 浅 見 洋 二 氏 論 文 の 中 で こ の 原 因 に つ い て 触 れ て い る が

、 こ こ で は 重 複 を い と わ ず 宋 代 の 文 集 編 纂 と 文 人 の 出 版 意 欲 を 考 慮 し て 考 察 し た い

。 北 宋 時 代 か ら

、 文 人 た ち は 既 に 自 分 の 文 集 を 編 纂 す る 意 識 を 持 ち つ つ あ っ た

。 例 え ば

、 歐 陽 脩 の

『 居 士 集

』 の 編 纂

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