克 荘 と 林 公 遇 父 子 と 関 連 し て
―
一
は じ め に 詩
文 を 焚 く こ と
、 所 謂
「 焚 詩
」 ま た は
「 焚 稿
」 と い う 言 葉 は
、 宋 代 に 入 り
、 文 人 の 詩 作 と 文 集 の 中 に 頻 繁 に 現 れ て く る
。 こ こ で 言 う
「 焚 詩
」 と
「 焚 稿
」 は 特 に 著 者 が 自 分 の 作 品 を 自 ら 焚 く こ と を 指 す
。 宋 代 以 前
、 例 え ば
、 杜 牧(1
)
の よ う に
、 自 ら
「 焚 稿
」 を 行 う 文 人 も 偶 に は い た
。 時 代 が 降 っ て
、 宋 代 に な る と
、「 焚 稿
」 の 例 が 多 く な る
。 本 論 文 で 着 目 す る 江 湖 派 の 劉 克 荘 が 焚 稿 行 為 を 行 っ て お り
、 ま た 彼 の 妻 で あ る 林 節 の 父
( 林 瑑
) と 兄
( 林 公 遇
) も
「 焚 稿
」 を 行 っ て い る
。 こ の よ う な 一 つ の 家 族 に 限 っ て も
「 焚 稿
」 が し ば し ば 行 わ れ て お り
、 従 っ て 宋 代 の
「 焚 稿
」 と い う 現 象 を 全 体 的 に 考 察 す る の は 興 味 深 い こ と に な る と 考 え る
。 宋 代 文 人 の
「 焚 稿
」 に つ い て の 先 行 研 究 は 幾 つ か あ り
、 主 な 論 文 は 以 下 の 通 り で あ る
。 浅 見 洋 二 氏
「 焚 棄 と 改 定
― 唐 宋 期 に お け る 別 集 の 編 纂 あ る い は 定 本 の 制 定 を め ぐ っ て(2)
」 は
、「 自 作 の 焚 棄 に は
、 作 者 の 創 作 能 力 と 鑑 賞 眼
、 ひ い て は 文 学 観 が 年 齢 を 重 ね る の に 伴 っ て 進 歩・ 変 化 し て ゆ く と い う こ と が 深 く 関 わ っ て い た と 考 え ら れ る
」と 分 析 し て い る
。 向 以 鮮 氏
「 劉 克 荘 焚 毀 早 期 詩 歌 的 詩 学 衝 動(3
)
」 は
、「 劉 克 荘 の 焚 稿 行 為
、 其 の 真 の 原 動 力 は ま さ に 彼 の 広 く 大 き く 壮 麗 な 詩 学 の 衝 動 に よ る も の だ
」 と し て
、 劉 克 荘 の 焚 稿 行 為 を 解 釈 す る
。 郭 艶 華 氏
「 楊 万 里 焚 棄 千 首 江 西 体 詩 的 原 因 新 探(4
)
」 に お い て は
、楊 万 里 の 焚 稿 行 為 に つ い て
、
「 科 挙 の 文 章 を 捨 て 去 る こ と は
、楊 万 里 が 創 作 方 向 を 明 確 に す る 関 鍵 で あ り
、 彼 は 焚 詩 の 行 為 に よ っ て 科 挙 の 文 章 に お け る 媚 び る 詩 風 に 対 す る 態 度 を 表 明 し た
。 こ れ は 理 学 家 と し て の 道 徳 人 格 と 密 接 な 関 係 が あ る
」 と 論 述 し て い る
。 こ の 三 つ の 先 行 研 究 は 詩 学 認 識 の 変 遷 に せ よ
、 創 作 技 術 の 進 歩 に せ よ
、 個 人 的
103
な 原 因 は そ れ ぞ れ あ る が
、 結 果 的 に は
、 以 前 の 作 品 に 不 満 を 抱 い て
、 自 己 の 作 品 を 捨 て 去 る こ と に お い て 共 通 で あ っ た
。 そ こ で
、 本 章 に お い て は
、 先 行 研 究 に は 見 ら れ な い 例 を 取 り 上 げ て
、「 焚 稿
」 に つ い て 詳 し く 考 察 し た い
。 張 方 平
( 一
〇
〇 七
― 一
〇 九 一
) が 蘇 洵
( 一
〇
〇 九
― 一
〇 六 六
) の た め に 作 っ た
「 文 安 先 生 墓 表
」 の 中 に
、 こ の よ う な 記 述 が あ る(5
。)
一 日
、 因 覧 舊 文
、 作 而 曰
、 吾 今 之 学
、 乃 猶 未 之 学 也 已
。 取 舊 文 稿 悉 焚 之
、 杜 門 絶 賓 友
、 繙
『 詩
』『 書
』 経 傳
、 諸 子 百 家 之 書
、 貫 穿 古 今
、 由 是 著 述 根 柢 深 矣
。 あ
る 日
、 自 分
( 蘇 洵
) の 旧 作 を 閲 覧 し
、 立 ち 上 が っ て 曰 く
、 現 在 の 私 の 学 識 は
、 な お 無 学 の 学 の よ う だ
。 そ こ で
、 旧 稿 を 取 り 出 し て 悉 く 焼 き 捨 て
、 門 を 閉 め て 客 を 断 り
、『 詩
』『 書
』 経 伝
、 諸 子 百 家 の 書 物 を 繙 き
、 古 今 を 貫 き
、 よ っ て 著 述 の 根 底 は 深 く な っ た
。 蘇
洵 は こ れ ま で の 自 分 の 学 識 及 び 旧 作 に 不 満 を 持 っ た た め
、 旧 稿 を 全 部 焼 き 捨 て て し ま っ た
。 実 際 に は
、 蘇 洵 が 旧 稿 を 焚 い た の は よ り 現 実 的 な 刺 激 を 受 け た か ら で あ る
。『 宋 史
』 巻 四 四 三
「 蘇 洵 伝(6)
」 に は
「 挙 進 士
、 又 挙 茂 才 異 等
、 皆 不 中
。 悉 焚 常 所 爲 文
、 閉 戸 益 読 書
、 遂 通 六 経
、 百 家 之 説
、 下 筆 頃 刻 数 千 言
…
… 一 時 学 者 競 効 蘇 氏 爲 文 章
( 進 士 の 試 験 を 受 け
、 さ ら に 茂 才 な ど の 試 験 を 受 け た 末
、 全 部 落 第 し た
。 以 前 書 い た 文 章 を 悉 く 焼 き 捨 て
、 門 を 閉 め て 一 層 読 書 を し
、 遂 に 六 経 と 百 家 の 説 に 精 通 し
、 文 章 を 書 く と た ち ま ち の う ち に 数 千 言
…
… 当 時 の 学 ぶ 者 た ち は 蘇 氏 の 文 章 を 競 っ て 学 ん だ
)」 と 記 載 し て い る
。科 挙 に 落 第 し た 蘇 洵 は 以 前 の 文 章 を 焼 き 捨 て て
、数 年 間 独 学 し て
、学 問 に 没 頭 し た た め
、 そ の 後 彼 が 作 っ た 文 章 は 当 時 の 人 々 に 学 ば れ る よ う に な っ た
。 こ の
「 焚 稿
」 は
、 蘇 洵 の 学 問 と 文 章 技 術 を 進 歩 さ せ る
104
契 機 と な っ た の で あ る
。 続 け て
、 陳 師 道
( 一
〇 五 三
― 一 一
〇 一
) の 場 合 を 見 て み よ う
。 彼 は
「 答 秦 覯 書(7
)
」 の 中 に
「 僕 於 詩 初 無 師 法
、 然 少 好 之
、 老 而 不 厭
、 数 以 千 計
。 及 一 見 黄 豫 章
、 盡 焚 其 稿 而 学 焉
( 私 は 詩 に 対 し て
、 初 め 師 か ら 伝 授 は な か っ た
。 け れ ど も 若 い 頃 か ら 好 み
、老 い て も 厭 き ず
、千 数 篇 餘 が あ っ た
。ひ と た び 黄 豫 章 と 会 う に 及 び
、原 稿 を 全 部 焚 い て 彼 に 学 ん だ
)」 と 書 い て い る
。詩 の み な ら ず
、文 に 対 し て も
、陳 師 道 は 非 常 に 慎 重 な 態 度 を 取 っ て い る
。『 衢 本 郡 斎 読 書 誌
』巻 十 九「 陳 無 己 後 山 集 二 十 巻(8
)
」 条 に
「 爲 文 至 多
、 少 不 中 意 則 焚 之
、 存 者 才 十 一
( 彼 が 作 っ た 文 章 は 非 常 に 多 く
、 い さ さ か 気 に 入 ら な い と そ れ ら を 焼 き 捨 て た
。 保 存 さ れ た の は 僅 か 十 分 の 一 だ っ た
)」 と 記 述 す る
。 こ の よ う に
、 宋 代 文 人 が 自 分 の 旧 作 に 不 満 を 持 っ て
、 そ れ ら を 焼 き 捨 て た こ と は 稀 で は な い
。 し か し
、 こ れ だ け が 宋 代 文 人
「 焚 稿
」 の 全 体 像 と は 考 え に く い
。 自 分 の 旧 作 に 不 満 を 持 つ た め の
「 焚 稿
」 は
、 宋 代 文 人
「 焚 稿
」 の 一 部 に 過 ぎ な い と 思 わ れ る
。 そ の た め
、 本 章 で は 宋 代 文 人 の 様 々 な
「 焚 稿
」 行 為 を 新 し い 視 点 か ら
、 総 合 的 に 把 握 す る こ と を 試 み て
、 以 下 の 三 つ の
「 焚 稿
」 の 場 合 を 提 示 し た い
。 但 し
、 本 文 で は
、 官 吏 が 公 文
( 実 用 的 な 文 章
、 或 い は 非 文 学 的 な 文 章
) を 焚 い た こ と は 対 象 か ら 除 外 す る
。 二
党 争 と の 関 わ り 周
知 の よ う に
、 宋 代 で は
、 党 争 と い う 官 僚
( 士 大 夫 か つ 文 人
) た ち の 間 に 起 こ る 政 治 的・ 学 術 的 な 闘 争 は 絶 え る こ と な く
、 終 始 存 在 し て い た
。「 熈 豊 党 争
」、
「 元 祐 党 争
」、
「 紹 興 党 禁
」、
「 慶 元 党 禁
」 な ど の 例 が 挙 げ ら れ る
。党
争 に 伴 っ て
、 学 術 上 或 い は 文 学 上 の 禍 が 常 に 生 じ た
。 そ の 中 に は
、「 烏 臺 詩 案
」、
「 車 蓋 亭 詩 案
」、
「 江 湖 詩 禍
」 な ど の 規 模 が 大 き い 事 件 が あ っ た
。 一 旦
「 詩 禍
」 が 起 こ る と
、 文 人 た ち は 作 品 の 版 木 を 毀 す こ と を 余 儀 な く さ れ る
。 南 宋 の 張 震
( 生 卒 年 未
105
詳
) は
「 文 禁
」 の 禍 の 状 況 を こ の よ う に 語 っ て い る
。「 将 近 世 名 公 文 集
、 尽 行 毀 板
、 不 問 是 非
、 玉 石 倶 焚
( 現 今 の 有 名 な 士 人 の 文 集 は
、 尽 く そ の 版 木 が 毀 さ れ る
。 是 非 を 問 わ ず
、 良 い も の も 悪 い も の も す べ て 焚 く(9
))
」。 こ の よ う な 宋 代 の 文 学 と 政 治 学 術 闘 争 の 関 係 に つ い て は
、 沈 松 勤 の
『 北 宋 文 人 与 党 争
』 と
『 南 宋 文 人 与 党 争(10
)
』、 ま た 張 秀 民
『 中 国 印 刷 史(11
』)
第 一 章 の
「 宋 代
・ 書 禁 与 板 権
」 に 詳 し い
。 こ れ ら 三 書 に は 党 争 と 詩 禍 が 起 こ っ た 後
、 政 府 が 文 人 の 文 集 の 版 木 を 焚 く こ と 及 び 文 集 出 版 へ の 抑 制 な ど の 内 容 が 詳 述 さ れ て い る
。 し か し
、 こ れ ら の 書 に お い て
、 文 人 自 身 の 自 分 の 文 集 に 対 す る 態 度 や 処 置 方 法 な ど の 詳 細 な と こ ろ に ま で
、 十 分 に 注 目 し て い る と は 言 い 難 い の で
、 こ こ で 少 し 補 充 し て お き た い
。 慶 元 四 年( 一 一 九 八
)、 韓 侂 胄 が 程 学 を
「 偽 学
」と し て 排 斥 す る た め に 起 こ し た「 慶 元 党 禁
」に 巻 き 込 ま れ た 朱 熹 は
、 劉 季 章 に 宛 て た 書 簡
「 答 劉 季 章
」 第 八 書 の 中 に
、 以 下 の よ う に 言 う(12
。)
王 晋 輔 来
…
… 欲 得 鄙 文 編 次 鋟 木
。此 雖 未 必 果 然
、亦 不 可 有 此 聲
。恐 渠 後 生 未 更 事
、不 識 時 務
、不 知 此 是 大 禍 之 機
…
… 望 痛 為 止 之
。 王
晋 輔 が 来 て
…
… 私 の 文 章 を 編 集 し て 上 梓 し よ う と し た
。 こ の こ と は 必 ず し も 果 た し て そ の 通 り に な る と は 限 ら な い が
、 そ の よ う な 名 声 を 有 し な い ほ う が よ い
。 恐 ら く 彼 は 若 く て 未 熟 で
、 情 勢 に う と く
、 こ れ が 大 き な 禍 が 起 こ る き っ か け と な る こ と か も し れ な い
…
… こ れ を 止 め る こ と を 痛 切 に 望 む
。 朱
熹 は 王 晋 輔 が 文 集 を 上 梓 し よ う と す る こ と を 恐 れ て 劉 季 章 に 頼 ん で 止 め さ せ た
。 朱 熹 の こ の 態 度 は 禍 を 避 け る 方 法 に す ぎ な い
。 し か し
、 宋 代 で は こ れ よ り 一 層 厳 し い 政 治 状 況 の も と で
、 文 集 を 出 版 す る こ と
、 さ ら に は
、 そ れ ら を
106
保 存 す る こ と さ え 恐 ろ し い 時 期 が あ っ た
。 例 え ば
、 紹 興 年 間
、 秦 檜 が 権 力 を 握 っ て い る 時 期
、 程 瑀
( 一
〇 八 七
― 一 一 五 二
) が 程 倶
( 一
〇 七 八
― 一 一 四 四
) の た め に 書 い た
「 程 公 行 状
」 の 中 に
、 次 の 記 述 が あ る(13
)
。 公
平 生 著 述 不 可 勝 紀
、 已 抱 病 猶 不 輟
。 然 憂 深 慮 危
、 時 時 芟 削 焚 棄
、 今 所 存 者
、『 北 山 小 集
』 四 十 巻
、『 麟 臺 故 事
』 五 巻
、『 黙 説
』 三 巻
、 餘 無 傳 焉
。 公
の 一 生 の 著 述 は 非 常 に 多 く
、 す で に 病 に 冒 さ れ て も な お 書 く こ と を や め な か っ た
。 し か し 深 く 憂 慮 し て
、 常 に 削 除 し 焼 き 捨 て た
。 今 残 っ て い る の は
『 北 山 小 集
』 四 十 巻
、『 麟 臺 故 事
』 五 巻
、『 黙 説
』 三 巻 だ け で
、 他 は 伝 わ っ て い な い
。
「 紹 興 党 禁
」 の 厳 し い 状 況 下
、 程 倶 は 文 集 を 保 存 す る の も 不 可 能 に な り
、 彼 は 書 い た 文 章 を 絶 え ず 焼 き 捨 て た
。 こ の よ う に
、 政 府 か ら の 弾 圧 を 受 け て
、 文 人 た ち は 文 集 を 世 間 に 出 さ な い よ う に 抑 制 し て い た
。 つ ま り
、 禍 を 避 け る た め
、 自 身 の 意 志 に 背 き
、 自 分 の 文 章 を
「 焚 稿
」 し て い た の で あ る
。 三
文 集 編 纂 と の 繋 が り 前
掲 の 浅 見 洋 二 氏 論 文 の 中 で こ の 原 因 に つ い て 触 れ て い る が
、 こ こ で は 重 複 を い と わ ず 宋 代 の 文 集 編 纂 と 文 人 の 出 版 意 欲 を 考 慮 し て 考 察 し た い
。 北 宋 時 代 か ら
、 文 人 た ち は 既 に 自 分 の 文 集 を 編 纂 す る 意 識 を 持 ち つ つ あ っ た
。 例 え ば
、 歐 陽 脩 の
『 居 士 集
』 の 編 纂