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快楽の想い出

ドキュメント内 i I II III (ページ 53-61)

「馬を見たことある?」

バザールであたりを見回した。バザールは、記憶どおり、美しかった。記憶形式とし て、美は過ぎ去ったもの、終わったものの表象だ。すなわち、死の表象。でも、いま現存 する歓びは記憶と等しかったので、美は名づけ得なかった。求める男に接近中にちがいな いと思った。

匂いがかげるようになりだしたので、あたしは匂った。

「馬を見たことある?」しなびたカシューナッツがあたしの記憶のことをきく。こいつ はすでに死を過ぎて生きてるにちがいない。

「心を開いた今となっては、あたしは何も思い出せないの。あたしにあたしを売りつけ る気?」ここではみんな何かを売りつけようする。あたしに。ここの男はみんなあたしを 売り飛ばそうとする。

「あんたは売り飛ばそうとするまでもない」老カシューナッツは注意深く指示してくれ た。「馬を見たことある?」

「馬なんてどこにいんの?」

「こっち」小道は古いところで、古すぎる。壁は鐘乳石から切り出されたもの。液体は ひたすら液体。舗装もでこぼこ。

あたしは馬を探した。こうしてバザールから遠ざかり、自分のいる所も、いる可能性が ある所もわからなくなった。ここでは記憶なんか役にたたなかったし、記憶に規定される こともなかった。この小道では、何世紀もの時間が何世紀もの上に積み重なり、あたしは 無時間に、不死になった。あたし、すなわち時間の反対は、子供になり、無垢になった。

唯一の強みは無垢。老カシューナッツは、この小道ではあたしを好きなようにできた。

そいつの長い骨は、あたしのももに差し支えなかった。

絶望的に、子供だった時のことを思い出そうとした。だれかだった時のことを。まる で、記憶がそれとなにか関係があるみたいに。バラの刺繍が散ったピンクの毛布。洗わな

きゃいけないと称して、やつらはそれを取り上げて、二度と返してくれなかった。あたし は泣いた。自分がいつも、なんでもねだってるのは知ってる。自分がいつも、おねだり乞 食として人前に出るのは知ってる。乞食、死んだイメージ。この小道で、この老人と。何 も感じなかった。知らない以上、この建築の荒廃、この昔の石灰石の壁以外のどこへ続く わけでもない、最終的には無限の退屈に続くだけの相続不動産を惜しむ気もなかった。記 憶なんて些末なことばっか。オブセッションの欠如。

あたしは愛への鍵みたいなものを発見。そいつの長い骨は、あたしのももに差し支えな かった。

すると、老カシューナッツに白い光が一筋あたった。彼はどこかをガイドしてくれて る。あらゆるしわ、毛穴まで、その無限のすじが入った肉の、皮膚ガン前段階のあらゆ るホクロ、時間であるあらゆる形態を見せてくれた。ここには記憶はない。あるのは死 だけ。

そして背骨が崩壊したかのように、ジジイはコンクリートに沈んだ。骨という骨が。コ ンクリートは濡れてる。だれかがこいつをつかまえたんだ、あるいはなにかが。なにかっ てのはいつもそうだ。あたしもついになにかを知った。時間というのはあらゆる事象であ り現象であるから、なにも崩壊させない。時が崩壊する。

年寄りの背中から血が噴出。それまで老人が体内にあんなに血をもってるとは思わな かった。時が、ある特殊なかたちで、人間の、彼のかたちで、自ら崩壊したんだ。西洋の 精神にとって、統一性を認識するのはむずかしい。認識できるのは死だけ。あたしのガイ ドは消えた。

一種の態度表明としてあたしはヤブれた老ヤブのからだを、小道からひきずり出した。

夜明け前の青が、街と彼とあたしの肉を浸した。

あたしはまだ医者の指示にしたがわなきゃならなかった。まだあたしの男を見つけな きゃならなかった。あたしは知覚者になろうとしてたけど、その未知の男が知覚された がってるかは見当もつかなかった。白昼に。

知覚する者とされる者の共通の焦点は、あの心臓にある切迫した部分だって読んだこと がある。あたしは絶対無垢だった。あたしの心は、どっかで絶対待ってる。

それからコンクリートとその他の石でできたジェットコースターを通り抜けた。それは パリのモンジェ地区を思わせた。墓場で直立するボードレールは、死ぬしばらく前、梅毒

をうつされたとたんにそのガールフレンドと恋に落ちた。異性愛の一例。ここには、広告 はなかった。

四角い中庭を見た。四方に家が建ち上がってる。家の壁の後ろや屋根の上では、家族や 子供の群れが銃を撃ち合ってた。ある群れだか人だかが、ピンクと灰色の、下の中庭に急 降下して、ジェットコースターみたいに急上昇。戦争にうんざりしてきたんで、あたした ちが撃ち合いしてた最上階の窓から離れ、廊下に出た。しばらくしてそこに戻るだろう。

どこにも行き場がなかった。

二つ目の墓地にいた。自分の墓の中で立ち上がる死んだキリスト教徒たちの手は腐っ てた。

拷問者を見た。もっぱら政府に抗議する人たちの性器に電極をあてて過ごしてる。言わ れたとおりにすることで報酬を得てる、仕事人だった。自分がぶちのめされたがってるの がわかった。わけわかんない。

これじゃ不十分。十分なんて無い、無いだけが不十分。自分の知らない規範ってものに 到達したかった。言い替えると、あたしは怒りたかった。無感覚になるんじゃなくて、記 憶や理性を越えて怒りたかった。腹をたてたかった。あたしはさらに都市に入り込んで いった。

十四才の時、やつらはあたしを屋根裏に閉じ込めた。1、屋根裏で、あたしは指をマン コにつっこんで、自分のヒーメンを破った。2、あたしはヤク中がヤクを渇望するように 愛を渇望する。一番(肉体的欲望)は二番(精神的欲望)と関係あるでしょうか? この 限りない発狂しそうな渇望は、あたしを閉じ込めたやつらに対する反応であり、怒りの行 為だった。道徳家のことならまかせて。

あたしは魔女で邪悪でほとんど人非人。自分の血を醸しつつあるから。それでいまのあ たしは冷感症。お母さんがあたしの欲望を利用して、結び目をつくったムチみたいにあた しを愛するようにしたから冷感症なんじゃない。あたしが自分の血とウンコと死だけで遊 んでるんだって、ママがあたしに彼女の希望どおりにしかならないように命じたからで、

それは不可能になれってことなんだけど、存在してしかも不可能な存在であるなんて可能 じゃない。自分の血とウンコと死で遊ぶことで、あたしは自分の生を支配してる。冷感症 だから、あなたがあたしを傷つけるのは性的に貫く時だけ。あたしの疾走する馬である血

の冷やかさは、過去の出来事の記憶があたしを形成してきたし、形成しつつあるのを証明 してる。自閉症でおしで無感動な冷血になるよりも、全組織  家族と記憶  に地獄に 落ちていただきたいですわ。

激怒する。

馬に会った、ウマ射ったことはなかったけど。子供時代をさかのぼりつつ、ほかのすべ てといっしょにそれを捨てた。ことさら美しい空間を通り過ぎる。川のすみのひびわれた セメントの曲部。あたしの足の下の、本物のしょんべんの底に、ハトの死体が、アスピッ ク漬けで保存されたみたいに、大きな枯れ枝やへこんだミルク・パックのかたまりに混 じって押しつぶされてた。ウォッカの空きびんが川に浮いてるとこ。

緑の大海原があった。その海には十から二十隻のボートがあった。あたしは自分の身分 証を持ってボートの一つに乗ってる。どこかよそにいたときは、巨大で、一部が黒い、ど んなボートより三倍から四倍は大きい舟を見た。うねりはじめた波は、巨大なおそるべき 波が生じようとしているのを告げてる。あたしは自分の小さなボートに戻って身分証を 取ってこなきゃならなくて、その波頭が、危険でもいいから、あたしを放り上げてほしい と思った。空中のあたしが美しくなれるように。

テームズ川を思い出す。視界のすみで棒が光る右腕に注射針の先端。やつらがあたしを 置き去りにする。あたしが自分を置き去り。たった今、唯一の恋人を失った。言うなれば ね。もう記憶もない。

あたしの不在。無の存在すらあたしを表象しない。老カシューナッツとちがって意識が 戻ると、あたしは見つけた最初の公衆電話の受話器をとった。

だれかが出た。「死」

「それはあたしの名前じゃない」生きてるあたしは抗議。

「おまえのコードだよ」この声は知ってた。死の治療者。「生きるものにとって、冬は死 だもの」

ドキュメント内 i I II III (ページ 53-61)

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