本章では、岸辺の幼稚園実践と口演童話活動についての考察を行う。岸辺が小学 校教育の中で実践した遊戯的教授の手法が口汝童話活動に活かされていることを確 認するとともに、自身が設立した幼稚園の教育方針を検討することで、岸辺が幼児 教育に求めたものを明らかにしたい。また、第2章で考察した小学校教育、本章で 取り上げる幼稚園教育のいずれにおいても、岸辺の教育観や教育方法の根底に「遊 戯」があることを確認し、岸辺が生涯に亘って行った教育がr遊戯」を基盤とした
ものであったことの証左としたい。
第1節 幼児教育への転向
小学校において遊戯の指導と研究、さらには遊戯的教授法を考案、実践した岸辺 は1903年(明治36年)、東京牛込納戸町の自宅に東洋幼稚園を開園する。
「東洋幼稚園」という名称は名前が大きすぎると東京府から呼び出しを受けたが、
断固として名称は変えなかった。「フレーべ一ルや、ペスタロヂは、西洋の児童教育 家でありますから、私は東洋のフレーべ一ルやペスタロヂを任ずるものです」1)と 東京府の役人に反論した。しかし、開園式の当日は、東京中の知人に招待状を出し たものの訪れてくれる者はなく、大変心細い思いをしたと後年岸辺白身が振り返っ
ている。
1903年(明治36年)10月30目に開園に至った東洋幼稚園であるが、開園当初 は入園児が3人しかおらず、また園舎を用意することもできなかったため、自宅に 4部屋あった日本間の畳を毎朝あげて保育室とし、夕方になるとまた畳を敷いてわ
が子を寝かしつけたという。
当時はようやく小学校の入学率が上がり始めたころであり、幼稚園にいたっては その必要性さえ疑問視されるほどに」般の認知度は低かった。幼稚園は、中産階級 以上の子弟が通う賛沢な教育機関と認識されていたといってよいだろう。
このような状況の中、なかなか入園者が増えず財政的に行き詰ったこともあり、
岸辺は明治38年『明治の家庭』という月刊誌を出版し、そこで得た収入を幼稚園
経営に充てて幼稚園教育を続けた。
小学校教師であった岸辺が幼児教育に転向した理由は何であったのだろうか。
彼は「(小学校での遊戯研究の)長年月の間には自然得るところがあって、いよい よその興味が忘れ難くなりましたから、さらに一歩を進めて、幼児教育を自分の天 職と信任して、一生この道のために尽くそうと思い立ち」2)と述べ、また師範学校
の生徒時代に高橋邦太郎氏から頭蓋骨診断を受け、「君は子供好きでせう。子供の教 員になる師範学校は、君の天命に従ふものです」3〕と言われたことが「私をして、
終に幼稚園の設立の希望に燃えたたすに到ったのであります。」4)と書き残している。
しかし、果たしてこのように子ども好きだったことだけが幼稚園開園の動機であ ったのだろうか。
岸辺は、当時の幼稚園が置かれた状況を「本邦に幼稚園が創立されてからすでに 三十年になりますに、左様進歩せぬように見受けられます」5)と批判する。
文部省規定の制度に胃を向けてみると、1899年(明治32年)に「幼稚園保育及 設備規定」が整備され、その中で保育内容が「遊嬉・唱歌・談話・手技」と具体化
された。
保育項目の中で、遊嬉は「共同遊嬉」と「随意遊嬉」に分けられる。前者は「共 同遊嬉ハ歌曲に合ヘル諸種ノ運動等ヲナサシメ」6)とあるように、ルールのある集 団遊び、行進等の集団行動を行うもの、唱歌に合わせて決まった振付を演じるもの を指す。後者は「随意遊嬉ハ幼児ヲシテ各自二運動セシメ」7)と記され、子どもが
自由に遊ぶことを指している。遊嬉の中に「共同遊嬉」と「随意遊嬉」の二種があ るものの、当時の幼稚園で主に取り入れられたのは共同遊嬉であり、随意遊嬉は付 随的に扱われることが多かった。
唱歌の項には「唱歌ハ平易ナル歌曲ヲ歌ハシメ」8)と書かれ、1900年(明治33 年)に出版された『幼稚園唱歌』を中心に言文一致体の幼児にも理解しやすい歌曲 が用いられた。
談話に関しては「談話ハ有益ニシテ興味アル事実及高言、通常ノ天然物及人工物 等二就キナ之ヲナシ」9〕と記される。子どもに適した題材の模索がなされ、明治初 期から続く道徳的内容の修身談話や偉人伝に加え西洋の童話や日本の昔話が取り入 れられていた。
手技とは「手技ハ幼稚園愚物ヲ用ヒ手双眼ヲ練習シ心意発育ノ資トス」lO)と明記
されるように愚物の取り扱いを指す。それまでの幼稚園教育は愚物教授が中心であ ったが、愚物の取り扱いが「手技」という項目に一括されたことは幼稚園教育が愚 物一辺倒から離脱し始めたことを指すのであり、従来の愚物教授に加え、愚物を他 の一般玩具と同じように扱う所謂「愚物解体」が行なわれ始めた時期でもあった。
このように、保育内容が具体化されたものの、その内容が広く一般に浸透するに は至っておらず、岸辺が幼稚園を創立した当時には、幼稚園草創期から変わらず愚 物教授を中心とするフレーベル主義の幼稚園が大勢を占めていた。しかし、一方で
はフレーベル主義を脱却しようとする幼稚園も現れ始めた。
明石女子師範学校附属幼稚園の保育方針(1904年・明治37年)には次のような 方針が見られる。
「(一)幼児ヲシテ健全ナル身体ノ発達ヲ遂ケシムルコト
(二)幼児ノ心情ヲ溜養シ且ツ善良ナル習慣ヲ得シムルコト
(三)以上ノ目的ヲ充分二達セシメ心身ノ完全ナル発達ヲ計リ以テ家庭教育ヲ 神ヒ併セテ完全ナル学校教育ヲ受クルニ適当ナラシメントス」王1〕
このように、子どもの心身の発達を図り、学校教育に備えることを目的とする新 しい幼稚園が現れ始めていたのである。
機を同じくして岸辺も「(教育の)其効果を十分にあげることは、運用者其人にあ ると考えられます。理論に明らかなるものは実際に暗く、実際に巧みなるものは理 論に通じないのを常としますから、原理と実際との程よい調和を見ないのが、我が 幼稚園教育不進歩の原因であろうと察せられます。」12)と述べる。遊戯研究時代に 自らを「理論を理想とした実際家」と称していた岸辺はこれからの幼稚園が理想と する理論と、実際の実践が乖離状態にあることを憂い、その隙間を自ら埋めるべく 幼稚園教育に乗り出したのである。
また、岸辺が学生時代と小学校訓導時代を過ごした明治20年代の後半から明治 30年代にかけては急速に国内の幼稚園数が増した時期でもあった。特に京都・大 阪・神戸を中心とする保育関係者の活動は大きなものがあり、1897年(明治30年)
に「京阪神連合保育会」として結実し、胃本の幼稚園教育発展に大きな影響を及ぼ している。岸辺が在籍した兵庫県尋常師範学校の近隣にはフレーベル主義を謳う
A.L.ハウが設立した煩労幼稚園があった。頒栄幼稚園は師範学校時代の岸辺の下宿 に隣接していたといい、そこで遊ぶ子どもたちの姿を見て、自分もあのように子ど もと一緒に遊びたいと思ったともいう。
このような岸辺の附属小学校訓導時代に設立された京阪神連合保育会、煩労幼稚 園で見聞した幼稚園教育の改革運動が、彼を幼稚園設立へと導いた一因とも考えら れるのである。
第2節 教育としての口演童話
幼稚園を設立し幼児教育を志した岸辺は、実践を通して「子どもはお話が好き である」と確信し、童話の口演活動に積極的に取り組んだ。そして、後年には口演 童話の創始者とされる巌谷小波、その弟子の久留島武彦と並んで「三大口演童話家」
と呼ばれるほどに活躍した。
本節では岸辺の口演童話家としての足跡をたどり、巌谷や久留島の児童文化とし ての口演童話とは異なる、教育の一環としての口演童話の実際を明らかにしたい。
その上で、岸辺が口演童話を通して教育の中にどのように遊戯的要素を持ち込んだ のかを考察する。
a)談話の技術
岸辺は1909年(明治42年)に日本初の口演童話指導書といわれる『お伽噺仕方 の理論と実際』を「明治の家庭杜」から出版する。この著書で岸辺は口演童話に関 する理論と実際の話し方を挿絵入りで細かに書き記している。前半部分に理論、後 半部分には14種の身振りと4話のお話を含む実際の指導例を挙げており、この実 践に即した具体的な著述スタイルは遊戯の指導書を記した頃から変わっていない。
理論だけに傾倒するのではなく指導の実際例を記した目的は、実践に役立っ指南書 としての性格を意識したからであろう。すなわち、童話口演を実践しようとする者 がこの本を開けば、すぐ実践に取り掛かれるよう配慮されていることが読み取れる。
この著書で岸辺が提示した口演の際の身振りとは次の14種である。
表3−1 『お伽噺仕方の理論と実際』に図説される身振り
・悲哀 ・失望
・感謝 ・憤怒
・思案 ・決断
・戯虐 ・感嘆
岸辺の口演スタイルは、童話を語って聞かせる際、台詞の言い回しや声の調子だ けでなく場面に応じて様々な感情を上記14種の身振り付きで演じるものであり、
臨場感あふれる演技であったことがうかがえる。