1.寺院併合令と坂東の寺院
はじめに
平城京遷都直後の8世紀前半期は、律令政府が仏教に対し最も厳しい統制を加えた時代 である。養老元年( 717) 四月( 1 )には僧尼の行動に規制を加えて寺院定住の徹底をはかり、
翌五 月(2)には、百姓が課役を回避するための得度に規制を加え、養老二 年(3)には、官僧の質 の向上を目指した学業の奨励に対する布告をし、 さらに、 養 老四 年(4)には、僧侶としての 規範を守るための公験制の改革を行うなど、矢継ぎ早に仏教に対する統制が加えられてい った。
一方、この時期までに造営された寺院のほとんどを占める官寺以外の寺院対策について は、和銅六年(713)四月( 5 )に、諸寺の田記の錯誤を改正させ、同年十 月(6)には、諸寺が無数 に所持していた田野のうち、格を過ぎた数を還収させるなど、和銅年間ごろから寺院の所 有する寺田対策が問題とされるようになってきた。
近江の守であった藤原武智麿が、国内の寺院を巡察し、その荒廃した状況を奏言したの もこの時期である( 7 )。武智麿はその中で、寺院の荒廃はひとり近江国に限られた状態ではな く、余国もまた同様である点を強調したのである。それが漸く、霊亀二年(716)に至り、
詔として発布されたのが、いわゆる「寺院併合令」である。
この寺院併合令は、仏教寺院としてふさわしくない草堂の統廃合、荒廃した、あるいは 未完成のまま放置された寺院の清浄化、さらに、和銅六年頃に問題となった寺田対策など に関する規定がまとめて出された法令である。この法令に対する研究は、霊亀から養老年 間にさかんに行われた仏教統制政策の一つとしてとらえ、制度面や法令の面での性格につ いて、文献史学のうえからの先行研究は多い。しかし、この法令がどのような影響をあた えたのかを、文献史料のみから検討するには限界があり、そうした点で、考古学的資料を もとに実態面からアプローチしようとした三舟隆 之(8)や岡本東 三(9)らによる分析は、評価で きる。
しかし、考古学的方法においても、実際に発掘調査が実施され、実態が明らかとなった
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寺院はさほど多くはなく、多くが表採資料というわずかな資料をもって検討するには、お のずと制約がある。また、方法論的にも検討できる事柄とそうでない場合とがあり、あら かじめ検討内容を絞っておく必要がある。そのように考えると、考古学的資料からも寺院 併合令による影響を検討できる範囲は、ごくわずかな部分に限られるかも知れない。
しかし、古代寺院の多くが、公的性格をもつことが期待されて成立したと考えるならば、
それらの寺のその後の消長を考えたとき、『藤氏家伝』下 武智麻呂伝や「寺院併合令」に 記載された内容はきわめて重要である。なぜなら、古代律令国家が、国家が期待する仏教 をどこまで貫徹しえたのか、という根幹にかかわる問題を含んでいるからである。そこで、
ここでは寺院併合令の検討を通し、地域的には坂東の寺院にしぼって、8世紀前半期にお けるその影響を検討してみたい。
(1)寺院併合令の検討
霊亀二年五月庚寅条の詔については、文献史学の面からの研究が多く、最近では、寺院 併合令の実質的効果を評価する観点からの櫻井信也による論攻がある(10)。ここでは、櫻井に よる先行研究にしたがって私なりの若干の分析を行い、法令の柱となるいくつかの事柄の 中から、考古学的に検討できる範囲を前もってしぼっておきたい。
霊亀二年五月庚寅条
A 詔曰、崇‐二飾法蔵一、粛敬為レ本、營‐二修仏廟一、清浄為レ先。
イ 今聞、諸国寺家、多不レ如レ法。或草堂始闢、争求二額題一、幢幡僅施、即訴二田畝一。 或房舎不レ脩。馬牛群聚、門庭荒廃。荊棘弥生。遂使下無上尊象永蒙二塵穢一、甚深法 蔵不上 レ免二風雨一。多歴二年代一、絶無二構成一。於レ事斟量、極乖二崇敬一。今故併-二 兼数寺一。合成二一区一。庶幾、同レ力共造、更興二頽法一。諸国司等、冝下明告二国師・
衆僧及檀越等一、条‐二録郡内寺家可レ合并財物一、附レ使奏聞上。
ロ 又聞、諸国寺家、堂塔雖レ成、僧尼莫レ住、礼住無レ聞、檀越子孫、摠‐二摂田畝一、 専養二妻子一、不レ供二衆僧一、因作二諍訟一、誼‐二擾国郡一。自レ今以後、厳加二禁断
一、其所レ有財物・田園、並須二国師衆僧・及国司檀越等、相対検挍、分明案記、充 用之日、共判出付一。不レ得二依レ旧檀越等専制一。
B 近江国守従四位上藤原朝臣武智麻呂言、部内諸寺、多割二 区一、無レ不二造脩一、虚上二 名籍一。観二其如一 レ此、更無二異量一。所レ有田園、自欲レ専レ利。若不二匡正一、恐致
二滅法一。
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C 臣等商量、人能弘レ道。先哲格言。闡‐二揚佛法一。聖朝上願、方今、人情稍薄、釈教陵 遅、非二独近江一。餘国亦爾。望、遍下二諸国一、革レ幣還レ淳、更張二弛綱一、仰称二 聖願一 。許レ之。
この詔の内容は、櫻井の分類に見られるように、三つの部分から成り立っている。一つ は、A諸国の寺院に対する法令の基本的な部分。二つ目は、B近江国守藤原武智麻呂の奏 言の部分。三つ目は、C太政官の審議の部分である(11)。
さらに、A には二つの法令がある。イの前半部分は、諸国の寺家は、多く法に従わず、
草堂のような粗末な堂を建てると、争って寺名の入った額を要求し、寺を飾る幢幡をわず かに寄進することで寺田を賜わるよう訴え、あるいは、僧侶が住む僧坊も整備せず、牛馬 が寺内に群れ集り、境内が荒れ果て、いばらが繁茂し、ついに尊い仏像が塵ほこりをかぶ り、奥深い仏の教えの経巻を風雨から守れないでいる。多く年数を経ているのに、寺を整 備することすらできない、と聞いている。
ロの後半部分では、堂塔がすでに完成している寺についても、そこには僧侶が止住す る状況もなく、そこには仏の礼拝もなく、壇越の子孫が寺の田畑をすべて支配し、専らそ の妻子を養うのみで、衆僧の役に立てようともしない。そのため双方の争いが起こり、喧 しく騒がれているという。今後はそのような事体を堅く禁じ、寺が所有する財物や田園は 国師や衆僧と、国司・壇越らが立合って検査し、分明に記録したうえで、財物や田園を使 用する時には、相方が可否を判断したうえで、支出すべきである。従来のように、壇越ら が勝手に処理してはならない。
B の近江守藤原武智麻呂の言上の部分では、部内の諸寺は、多く寺の境界を分け取るだ けで、寺を造営せず、偽りの僧侶の名籍を提出している。このような状況を見ると、寺が 所有する田畑について、専ら利益を独占しようとするためと思われる。もしこれを正さな いと、恐らく仏法を滅ぼすことになろう。
「僧尼令」では、「寺院」と「道場」とを区別するが、 発 掘調査で確認される寺の構造 には、さまざまな形態がみられる。これは、檀越の仏教に対する認識差や経済力、あるい は地域的偏差などのさまざまな事柄がからみ合って生み出された結果であろう。政府が仏 教 や 寺 院 造 営 を 奨 励 す る こ と で 7 世 紀 か ら 8 世 紀 初 頭 に か け て 造 営 さ れ た 仏 教 寺 院 が 急 増 し、それにともなってさまざまな構造を持つ寺が誕生した。これらのなかで、どの程度 の機能と構造を持った仏教施設を寺と認識しうるのか。ここでは、律令国家によって寺と 認識できる仏教施設と、そうでない施設との基準が新たに示されたといえよう。これは、
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仏教を広めるための拠点となる寺院造営を急ぐあまり、寺としての構造や、運営上必要な 施設に対する一定の基準があいまいであったからだと思われる。粗末な、寺とよべないよ うな仏堂を始めてひらいた檀越は、これを寺院と称し争って額題を求め、これに幢幡のよ うな仏具をわずかに施入すると、すぐさま寺田を要求するというのである。しかも、肝心 の仏堂は荒廃し、寺としての体裁すらも整っていない状態であった。淘汰すべき対象とな ったのは、仏教寺院としての寺観や機能が整備されていない草堂のような仏教施設であり、
ましてや、それが荒廃した状態は看過できなかったのであろう。ここでは律令政府が仏教 を推進するうえで、仏教寺院と認められないような仏教施設が多く存在する状況に対し、
歯止めをかけた法令である。従って、数寺を合わせ一区に合併すべき対象となったのは、
寺として認めることのできない草堂と荒廃した寺院、さらに未完成のまま放置された寺で ある(12)。
一方、Aロは堂塔を構成する寺についての、ここでは、堂塔をそなえた整備された寺院 であっても、そこには僧侶がいなかったり、僧侶がいる場合であっても、寺の財産を壇越 らが支配し、寺僧の供養に役立てようとしない実態が多くあった実態がわかる。正規の手 続きを経た寺田は班田収受の対象からはずされたが、それを悪用する場合が多かったよう だ。ここでは、使途の内容を分明に記録する正確さが求められた。寺田の不当な扱いに対 する抑制である。
したがって、寺院併合令にみられる主旨は、(1) 寺 として認識できないような仏教施 設、および未完成・荒廃した寺院の合併と淘汰、(2) 寺 としての寺観の整った寺の修造 と存続、(3) 檀 越の寺院を利用しての不当な経済活動に対する抑制の、およそ三点であ る。(1) に ついては、発掘調査によって寺院の全貌が明らかになったとしても、草堂を 合併することによって、その片方が廃寺になった実態を、それが寺院併合令に基づいて実 施されたのか否かを立証するには、併合した事実を証明する文字資料でも出土しない限り、
明らかにするのはほとんど不可能に近い。(2) に ついても、8世紀前半におこなわれた 修復の痕跡を、それが寺院併合令を背景に実施されたのか、それとも法令とは無関係に檀 越が自主的に修復したのかを区別することはできない。しかし、(2)の事柄については、
もともとこの法令は、近江守であった藤原武智麻呂が、近江国を巡察したさいに見聞した 状況を奏言したことがきっかけとなって発令された。寺を造営せず、偽りの名籍を提出し、
自らの利益のみを追求している状態では、仏法は滅びてしまう、と強調したのである。
さらに、養老五年(721)には(13)、