(1) 大宰府Ⅱ期政庁の年代
はじめに
1968年に開始された大宰府の調査は、中枢部にあたる政庁跡の遺構の実態究明を目的と した。これまで三期に及ぶ遺構の重複が確認されている。現在地表に残されている礎石は 政庁の最終期の姿であり、それ以前の遺構については、地表下に埋もれている事実が明ら かにされている。
Ⅰ期の遺構は、上層遺構との重複関係が調査上の大きな制約となり、具体的な遺構の構 成はほとんど明らかにされていないが、すべて掘立柱建物によって構成されていたと考え られている。中門跡の下層の調査では、掘立柱建物の柱掘方に2回の切り合いが認められ、
Ⅰ期政庁の遺構には、三時期の小期がある状況が明らかになった。この時期の建物群は、
この地区全体の整地工事後に建てられた施設であるが、整地層中に含まれる土器の下限が 7世紀中頃である点から、ほぼ7世紀後半代を中心とした時期の遺構と考えられている。
天智二年(663)、白村江戦での大敗の後、天智三年からその翌年にかけて、水城や大野・基 肄の両城を築き、防人や烽を配備するなどの本格的な国防戦略を展開してきたが、政庁下 層のⅠ期の遺構は、そうした戦略に関連した遺構の一部とみられる。
Ⅱ期政庁は、Ⅰ期の掘立柱建物をすべて取り払い、新たに礎石建ての瓦葺建物を用いた 本格的な朝堂院的配置に改められた時期である。その成立年代は、南門・中門の基壇中央 部から鎮壇具として出土した須恵器の長頚壺・短頚壺の特徴や、Ⅱ期政庁に主体的に使用 された鴻臚館Ⅰ式と呼ばれる軒先瓦の瓦当文様が、大和興福寺の創建瓦と共通する点など から(1)、長い間、8世紀初頭頃と考えられてきた。
Ⅱ期政庁の遺構上には、政庁のほぼ全域にわたり焼土層がみられ、その焼土層中に含ま れる土器などの遺物の年代から、10世紀代に起きた火災によって、Ⅱ期政庁の建物群が消 滅したと考えられている。この頃の大宰府において、大規模な火災を発生するような事件 として、天慶四年(941)の藤原純友の乱があげられる。『扶桑略記』には、「府の財物を奪い 取って火を放ち、府の建物は焼亡した」とみえる記録から、政庁のほぼ全域に及ぶ焼土層
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をこの時期の遺構や遺物と考えると、Ⅱ期政庁は純友の乱によって消失した可能性が高い。
したがって、Ⅲ期政庁の造営は、乱後の再建になる。以上、大宰府政庁について、これま での成果を概略的に述べてきたが、ここでは、Ⅱ期の段階で朝堂院的配置型式による大宰 府政庁が誕生し、大きな画期を迎えるので、この時期の検討から行う。
(a) Ⅱ期政庁のこれまでの年代
Ⅱ期政庁に主体的に使用された瓦は、鴻臚館Ⅰ式とよばれる軒先瓦である事実が明らか にされている(図3-2)。政庁からの出土量は、鐙瓦223型式が39.4%、宇瓦635型式が36.8%
とほぼ均等の量を示し、他の軒先瓦の出土割合と比べると圧倒的に多い(2)。これまで指摘さ れてきたように、鴻臚館Ⅰ式の軒先瓦をもって、Ⅱ期の本格的政庁に改作されたと考えて 間違いないだろう。
鴻臚館Ⅰ式の年代については、大隅・薩摩を除いて、ほぼ九州全域に分布する鴻臚館系 軒先瓦を詳細に分析した高橋章の論攻がある(3)。大宰府出土の鴻臚館系軒先瓦の出土率や出
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土状況などを分析した高橋は、Ⅱ期政庁に主体的に使用された瓦群である事実を明らかに した。そのうえで、南門および中門基壇から鎮壇具として出土した須恵器短頚壺・長頚壺 の年代的検討、興福寺の創建を和銅三年(710)とする『興福寺流記』が示す年代と、創建期 の興福寺式鐙瓦と鴻臚館Ⅰ式鐙瓦とが酷似する点などを総合的に判断して、「8世紀前半、
それも早い時期」という年代を付与した。
また、これとは別の観点から、Ⅱ期政庁の年代比定を行った石松好雄の論攻がある(4)。石 松は、政庁南門前面の広場と、不丁地区官衙とを区切る溝SD2340の下層からの出土資料 を分析し(図2)、鴻臚館Ⅰ式軒先瓦と共伴する郡名を標記した木簡群の中に、和銅六年(713) に定められた「機内七道諸国郡郷名看好字」とされる以前の郡名を銘記した木簡が含まれ る資料を根拠に、「平城宮遷都後の間もない頃」と考えた。また、鴻臚館Ⅰ式軒先瓦と興福 寺創建瓦との比較・検討と、『興福寺流記』の示す興福寺の創建年代との対比から、「第Ⅱ 期の建物はほぼ8世紀初頭ごろに造営されたとみて大過ない」と指摘する(5)。一方、大宰府 から出土する老司Ⅱ式の軒先瓦について(図4-2)、発掘調査の結果や文様構成を分析した石 松は、文様の割り付けや技法上の特徴から、老司Ⅰ式の年代と大差ない点を指摘し、およ そ700年前後の年代観を示した(6)。
その後、大宰府出土の鐙瓦・宇瓦・女瓦を詳細に検討し、体系化したのが栗原和彦である(7)。 栗原は、基本的には、高橋・石松の年代観を踏襲し、さらに、森郁夫が提示した筑紫観世 音寺出土の老司Ⅰ式軒先瓦の年代観を援用して(8)、老司Ⅱ式を8世紀初頭頃、鴻臚館Ⅰ式を やや後続する時期に位置づけた(9)。いま一つ、栗原の指摘で重要な点は、大宰府Ⅱ期政庁に 使用された女瓦の凸面が、当初から縄叩文であり、少なくとも、天平年間の前半期には一 枚作りが出現した事実を論証したことである(10)。これは、大宰府条坊跡第68次調査で出土し た瓦積井戸(SE020)の女瓦を検討した狭川真一の分析結果に導かれた論攻であるが(11)、栗原 の分析の対象とした不丁地区官衙の東限を区画する溝 SD2340出土の共伴遺物や、Ⅱ期政庁 の造営当初から畿内系技術が導入された実態を検討するうえで、その意義は大きい。
その後、栗原は、政庁正殿跡の第180次調査において、Ⅱ期政庁正殿跡の基壇下の暗渠に、
凸面縄叩文女瓦が使用されている事実などを根拠に(12)、大宰府政庁Ⅱ期を8世紀第Ⅰ四半期 の末頃と想定し、鴻臚館Ⅰ式軒先瓦の年代の上限とした(13)。一方、政庁跡から出土する土器 の年代については、多量に出土した割には良好な資料に恵まれないようであるが、正殿基 壇 層 お よ び 基 壇 積 土 中 、 北 門 第 1 整 地 層 中 、 さ ら に 不 丁 地 区 官 衙 の 東 限 を 区 画 す る 溝 SD2340などから出土した土器群の検討から、政庁Ⅰ期の下限を8世紀第Ⅰ四半期の範疇で
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捉えられるとした(14)。以上、老司Ⅱ式と鴻臚館Ⅰ式軒先瓦および政庁跡出土の土器の年代観 について、これまでの成果を概略的に触れてきたが、以下、私見を述べておきたい。
(b) 老司Ⅱ式軒先瓦の年代
老司式軒先瓦については、これまでも指摘されてきたように、老司Ⅰ式が観世音寺、老 司Ⅱ式が大宰府所用瓦である実態が明らかにされている(15)。老司Ⅰ・Ⅱ式鐙瓦は、基本的に はよく似た文様構成であるが、瓦当径、中房の蓮子数、鋸歯文数など細部の点で相違がみ られる(図5-1・2)。技法面からは、枷型の使用が両者にみられる点で共通し、星野猷ニ分 類のa型式が主流を占める(16)。老司Ⅱ式鐙瓦の段階で新たに見られる現象に、瓦当裏面に布 目痕をもつ例と、布による押圧後に、瓦当裏面や側縁に櫛歯状工具による調整痕がみられ る事例が認められる点である(図4-2-a・b)。前者は、枷型内に粘土を加えた上に布をお き、扇状の板で押さえた後に瓦当裏面と男瓦部との間に粘土をつめる方法で、後者は、最 終段階に瓦当裏面や側縁を調整したものである。両者の最大の相違は、老司Ⅰ式鐙瓦特有 の瓦当裏面の周堤帯が、老司Ⅱ式にはみられない点である。老司Ⅱ式鐙瓦は、老司Ⅰ式の 瓦当文様の系譜は受け継ぐが、技法はまったく異なり、老司Ⅰ式を主流とする筑紫観世音 寺とは別組織による生産である。
瓦当裏面に布痕をもつ例は、大和では久米寺瓦窯に始まり、平城宮・京瓦窯に急速に伝 わるが、特に、興福寺の6301系に多い(17)(図4-1-a~c)。老司Ⅱ式の特徴は、藪中五百樹が大 和興福寺6301Aを例にして実験・分類した2次成型A技法とは異なり(18)、二次瓦当粘土の上 面のみに布痕をもち、平城宮でのⅡ類b種に近い(19)。また櫛歯状工具による男瓦凹面から瓦 当裏面にかけての最終段階の調整痕は、興福寺6301Aでも確認が出来るなど(図4-1-c)、老 司Ⅱ式鐙瓦には、これまで九州地方にはみられなかった都の技法が登場する。
これと組み合う老司Ⅱ式宇瓦には、顎部幅の長いものと短い形態との二者がある。前者 は老司Ⅰ式宇瓦と共通する粘土紐作りであるが、後者は粘土板作りによる新たな技法で制 作されている(20)。瓦笵には笵割れや笵傷がみられ、当初は、上外区の左から2番目の珠文と、
左脇区の上から3番目の鋸歯文にかけて傷が生じ(図5-5)、その後、上外区の右から8番目 の珠文と、下外区の右から3番目の鋸歯文にかけて笵割れをおこす(図5-6)。顎形態との関 係では、笵割れや笵傷の有無に関わらず長・短の顎が存在し(図5-4-a~c)、顎形態による 時間差は見られない。女瓦部凸面は、いずれも縦位の縄叩きであるが、顎部には横位縄叩 きと横ナデとがある。しかし、その場合も、顎形態による叩き具の差異は認められないの
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で、2つの工人グループが一つの瓦笵を共有して瓦生産にあたったと考えられる。
さらに注目すべきことは、老司Ⅱ式宇瓦の瓦当面に縄叩き目の痕跡が認められる点であ る(図6-7・8)。この縄叩き目は、瓦笵を押捺する以前に(21)瓦当面の調整を目的として叩かれ た例で、これまで九州ではみられない技法である。大和では歌姫西瓦窯周辺で多くみられ る技法であり、老司Ⅱ式宇瓦もこれを同様に、瓦当面の調整を目的としたものであろう。
ただ、歌姫西瓦窯周辺でみられるような瓦当面の四周に縄叩きされた例はなく、また、大 和興福寺6682D型式宇瓦や下野薬師寺202型式宇瓦のように、外区外縁の縄叩き目を削り取 ることもない。その点では、両者の中間に位置付けられるが、老司Ⅱ式宇瓦については、
外区外縁がきわめて狭い形状が特徴である点を考慮すれば、あえて削り取る必要もなかっ たとも考えられる。そうであれば、大和興福寺6682D や下野薬師寺202に近い事例になる。
平城宮では、瓦当裏面に布痕をもつ鐙瓦のうち、奈良時代に入ると裏面に第三次粘土を あてるⅡ類 a 種が一般化し、次第に布目痕を残すb種へと移行する傾向にあり、奈良時代 を通じてⅡ類b種が保持される(22)。また、瓦当面に縄叩きをもつ宇瓦では、顎部長が7cm を 超え、山崎分類第2段階の一枚作り6667A型式が初現形態と考えられる(23)(図6-1)。第3章の 下野薬師寺の項で述べたように、この特徴をもつ宇瓦は旧藤原不比等邸から集中して出土 し、瓦窯は歌姫西瓦窯付近に想定されている。不比等邸造営時の6667Aは桶巻き作りであ る事実から、一枚作りの6667A(図6-1)は、養老年間の前半期頃に想定されている(24)。瓦当面 に縄叩きをもつ宇瓦は、旧不比等邸(図6-1)、歌姫西瓦窯6667A(図6-2)、大和興福寺6682 D(図6-4)、下野薬師寺202(図5-5)、音如ヶ谷西瓦窯6685B(図6-3)のいずれも一枚作りな ので、粘土板作りの老司Ⅱ式宇瓦も一枚作りであった可能性が高い(25)。
九州歴史資料館で確認した瓦当面に縄叩きをもつ老司Ⅱ式宇瓦は、いずれも笵割れを起 こす以前の事例で、顎部長の短い段顎の特徴をもち、平城宮での顎部の変遷からは、およ そ養老年間の後半から神亀年間の特徴として位置づけられる(26)。老司Ⅱ式軒先瓦にみられる そうした新しい要素を総合的に検討すると、これまで言われてきたように、8世紀初頭の時 期まで遡らせて考えるのは困難である。むしろ、養老年間の後半期から遅れても神亀年間 頃に比定したほうがよいだろう。老司Ⅱ式宇瓦は鴻臚館跡からも出土する。鴻臚館跡では、
大宰府での老司Ⅱ式鐙瓦と組み合わせは異なるが、実見した例は、いずれも瓦当文様がき れいで笵傷がみられない段階の資料である(27)。したがって、鴻臚館跡出土の老司Ⅱ式宇瓦は、
大宰府に先行する可能性が高い。