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国衙と地方官寺の整備

1.国衙の整備

はじめに

これまで、陸奥国多賀城・西海道大宰府・鴻臚館などの地方官衙をとりあげ、それぞれ の建築の改作や造営促進などの分析を進めてきた。前述したように、仙台平野の郡山遺跡

Ⅱ期官衙や郡山廃寺が多賀の地に移建され、多賀城Ⅰ期の造営が開始されたのが、養老六 年(722)の前半頃と推定した。一方、西海道では、朝堂院的配置型式をもつ瓦葺の大宰府Ⅱ 期政庁の大規模な改作や、掘立柱建物の鴻臚館が本格的な瓦葺建物に改作された時期が、

養老五年から始まる平城宮内裏の改作期の瓦当文様や製作技術と共通性をもつので、これ らの施設についても、養老年間の後半期頃の造営に想定した。そうした、地方における中 核的官衙が、養老年間の後半期のわずか数年の間に、大規模な新造や造営促進事業が行わ れたのは、単なる偶然ではあるまい。

陸奥国では、陸奥国府である郡山Ⅱ期官衙を多賀の地に移すが、直接多賀城Ⅰ期が成立 したわけではない。前述したように、多賀の地では、多賀城Ⅰ期の整地層の下層に、材木 塀と門などからなる前期多賀城とでもいうべき遺構が確認され、養老四年九月の蝦夷の反 乱に関係する木簡も検出されている。したがって、養老四年段階の陸奥国府は、すでに多 賀の地に置かれていた可能性はきわめて高いといえよう(1)

多賀の地では、養老四年における蝦夷の反乱を経て、養老六年頃に多賀城Ⅰ期の建設が 開始される。この問題について、課題とすべき点は多くあるが、ここでは二つの事柄につ いて検討しておきたい。一つは、養老四年の蝦夷の反乱に対する政府の対応をどのように 評価するかである。この課題については、文献史の立場からの熊谷公男や今泉隆雄などの 優れた先行研究があり、付け加える事柄は少ないが、本論の理解を助ける意味で再度検討 しておく。いま一つは、蝦夷の反乱以降に成立する多賀城Ⅰ期政庁の構造は、山中敏史に よって、8世紀第Ⅱ4半期頃に成立する定形化した国衙政庁の一類型とし評価されている。

ここでは、7世紀末から8世紀初頭頃に成立する初期国府が、定形化した形で整備される 時点を、養老六年の段階ととらえ、瓦葺き大宰府Ⅱ期政庁や鴻臚館の成立についても考え

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る。さらに、そうした地方統治機関の整備を、不比等政権の後を受け継いだ長屋王政権に おける地方政策の一環としてとらえ、以下、官衙遺跡を中心に検討する。

(a)養老六年の太政官奏と多賀城Ⅰ期の成立

養老四年(720)八月三日、政権の中枢にいた藤原不比等が薨去し、長屋王を首班とする政 権が誕生するが、養老四年は動乱の続いた年であった。まず、同年二月には大隅国守陽侯 史麻呂が隼人の反乱によって殺害されるという事件が起る(2)。政府はすぐさま中納言大伴旅 人を征隼人大将軍に任じ、征討に向かわせるが(3)、約半年後の八月に将軍旅人は召喚される。

副将軍笠朝臣御室・巨勢朝臣真人以下には、隼人を平定するまで現地に留まることが命じ られ(4)、斬首・捕虜を合わせ1400余人の戦果をあげて帰還したのは、翌七月七日であった(5)。 隼人の反乱の平定に、実に1年半を要したのである。

ところが、隼人の反乱がいまだ収まらず、征討軍を派遣している最中の養老四年九月、

今度は陸奥国で蝦夷の反乱が起り、按察使上毛野朝臣広人が殺害されるという事件が勃発 する(6)。政府は報告を受けた翌日、多治比真人県守を持節征夷将軍、下毛野朝臣石代を副将 軍に任命し、反乱の起った陸奥国へ派遣した。さらに、陸奥国側で起った反乱が出羽国へ 波及するのを未然に防ぐため、阿倍朝臣駿河を持節鎮狄将軍に任じ、出羽国へ派遣すると いう周到な方策がとられた(7)。蝦夷に対するこれまでの経験や、いまだ収まらない隼人の反 乱を念頭においての万全の対策がとられたのであろう。この時の征夷将軍と鎮狄将軍は、

7か月後の養老五年四月にそろって帰還するが(8)、現地での戦闘経過や戦果に対する記述は 一切見られないので、戦乱はひとまず収束したという認識であったのだろうか。

養老四年八月の不比等の薨去をはさみ、二月に九州の隼人が、九月に東北の蝦夷がほぼ 同時期に反乱を起こしたのは、国家の版図を拡大するための辺境政策を積極的に進めてき た、不比等の不予および薨去という政府の動揺を、隼人・蝦夷側が的確に認識していたか らであろう(9)。これらの事件が、これまでとまったく異なる性格をもつのは、和銅二年(709) の記事にみられるような、しばしば良民を殺害するといった程度の事態ではなく(10)、隼人や 蝦夷が明確な意図をもって、政府から派遣された最高責任者を殺害するといった行動に出 た事実である。そうした事態は、政府にとって初めての経験であり、衝撃の大きさは想像 に難くない。不比等政権のあとを継いだ長屋王政権は、発足した当初より、正面から辺境 を見据えた政策を打ち出さざるをえなかったのである。

しかし実際には、隼人・蝦夷の反乱の直後に、大きな政策がとられた様子はなく、養老

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四年十一月に、陸奥・石背・石城3国の調・庸と租が減免され、同五年六月に陸奥・筑紫 における戦乱地での疲弊した民の調・庸と、軍功者の賦役が免除された政策がとられたに すぎない(11)。隼人の反乱については、鎮圧に1年半を要したが、征討軍は斬首・捕虜を合わせ 1400余人の戦果をあげて帰還した。その後、隼人の反乱記事がみられないので、この時の 鎮圧をもって反乱は終息したと考えられる。しかし、陸奥国ではその後も深刻な状況が続 いたとすれば、調庸の減免策をとる程度の対処で、辺郡での疲弊や治安が解決するとは考 えてはいなかったと思われる。

隼人・蝦夷の反乱後、現地の状況把握と議政官での検討が行われ、政府の基本政策とし て打ち出されたのは、2年後の養老六年(722)である。政府はまず、同六年四月に陸奥の蝦 夷や大隅・薩摩の隼人を征討した将軍以下と、功績があった蝦夷と訳語人に勲位を授け(12)、 ついで、同六年閏四月には百万町歩開墾計画を含む、次の4項目からなる太政官奏が奏上さ れたのである(13)

太政官奏曰

1 逎者、辺郡人民、暴被冦賊、逐適東西、流離分散。若不矜恤、恐胎後患。 是以、聖王立制、亦務実辺者、蓋以中国也。望請、陸奥按察使管内、百姓 庸調侵免、勧課-農桑、教-習射騎、更税助辺之資、便夷之禄。其税者、

卒一人、輸布長一丈三尺、闊一尺八寸、三丁成端。其国授刀・兵衛・々士及 位子・帳内・資人、并防閤・仕丁・

采女・仕女、如此之類、皆悉放還、各従本色。若有考者、以六年叙、

一叙以後、

自依外考。即他境之人、経年居住、准例徴税、以見来占附後一年、而後依 例。

2 又食之為本、是民所天。随時設策、治国要政。望請、勧農積穀、以備水旱、 仍委所司、差-発人夫、開-墾膏腴之地良田一百万町、其限役十日、便給粮 食、所須 調度、官物借之、秋収而後、即令造備。 若有国郡司詐作逗留、不 肯開墾、並即解却、雖経恩赦、不限。如部内百姓、荒野・閑地、能加功 力、収-獲雑穀三千石巳上、賜勲六等。一千石以上、終身勿事。見帯八位已 上、加勲一転。即酬賞之後、稽遅不営、追奪位記、各還本色

3 又公私出拳、取利十分之三。

4 又言、用兵之要、衣食為本。鎮無儲粮、何堪固守。募民出穀、運-輸鎮

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道遠近上 レ差。委輸以遠二千斛、次三千斛、近四千斛、授外従五位下。 奏可之。其六位已下、至八位已以、随程遠近穀多少、亦各有差。語具格中。 要約すると、第1項は、陸奥国按察使管内の百姓の調庸免除、農桑の勧課と射騎の教習、

京に出仕・出役している兵衛・衛士・仕丁などの本国への召還などを命じた政策で、陸奥 国の軍事力の強化を目的とした計画であろう。第2項は、いわゆる百万町歩開墾計画であ るが、公民の生活を安定させるための耕地の拡大と、水旱・飢餓などの不慮に対する備蓄 を目的とした政策であろう。この計画が、どの程度実施されたのかは明らかではなく、ま た、翌年に出された三世一身法との関係も不明な点が多いが、当時の経済的行き詰まりを 打開しようとした積極政策として評価できよう。第3項は、公私出挙を3割に軽減した計 画で、養老四年三月の太政官奏で私出挙を5割とした段階から一歩踏み込み、私出挙を3 割に引き下げている(14)。第4項は、用兵のための軍粮を鎮所へ運輸し、備蓄を奨励した政策 である。鎮所は多賀城と玉造五柵を指すと考えられるが、私穀の貢納は地域を限定せず、

多くの地方豪族に期待した。

この太政官奏については、陸奥国按察使管内に関連した第1・4項を対象に、多賀城お よび辺郡城柵の造営の問題を論じた、熊谷公男(15)と今泉隆雄(16)の詳細な分析がある。両氏が指 摘した内容は多岐におよぶので、ここでは、本稿の主題に沿って、多賀城の創建年代を中 心に検討しておく。

熊谷は、かつて平川南が指摘した多賀城政庁と外郭南門とを結ぶ道路の暗渠から出土し た木簡の分析(17)から、道路付設の時期を「養老五年四月以降おそらく養老六年にかけての頃」

と推定した論攻を足掛りに、太政官奏の詳細な分析を試みる。そして、養老四年九月に蝦 夷の反乱が勃発したあと、すぐさま征夷軍が編成され乱の鎮圧にあたるが、その後「中央 政府が陸奥の現地に対してとった措置は、もっぱら調庸の減免策であり、辺郡の動揺に対 する対症療法的なものにとどまった」とし、「従前のような辺境対策では蝦夷の反乱を未然 に防ぎ、辺郡を安定的に支配することは不可能であるという認識をもつにいたり」その結 果、画期的かつ組織的である養老六年閏四月の太政官奏が出されたとする。さらに太政官 奏は、奥羽政策の根本的な転換をはかったもので、とくに、多賀城と玉造五柵を指すとみ られる「鎮所」が初めて登場することから、「多賀城=玉造五柵体制や黒川以北十郡建置な どが立案され、実施に移されたのも、二度目の調庸免除が行われている養老六年閏四月前 後にかけての時期」と論をすすめ、多賀城や玉造五柵、さらに黒川以北の諸郡の郡家の造 営開始時期を、「養老六年の前半前後とみる推定は、かなり蓋然性が高い」と結論した。

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