• 検索結果がありません。

下野薬師寺の建立

はじめに

天武朝に発願された下野薬師寺の名が、最初に文献上に登場するのは、天平五年(733) のことである。『正倉院文書』の「右京計帳(1)」には、平城京右京三条三坊に住む於伊美吉子 首が、下野薬師寺造寺工として赴任していた事柄が記されている。その時の子首の官位は 従六位上であり、技術者の官位からして、下野薬師寺の造寺に関する技術者集団の指導的 立場にあったと思われる。同じく、『正倉院文書』天平十一年(738)の「駿河国正税帳(2)」に は、下野薬師寺司の宗蔵一行が、東海道駿河国を通過した様子が記されている。「下野国造 薬師寺司」は、官寺に昇格した下野薬師寺を造営するための政府機関であるが、その時の 宗蔵は、従僧2人、従者9人をともなっており、従者の数からして造寺司の高官クラスであ ったと想定できる。於伊美吉子首は技術者として、宗蔵は寺僧として、ともに下野国造薬 師寺司の機関に所属していた。この二つの文献から、下野薬師寺が少なくとも天平年間の 前半期には、官寺としての姿を明確にした状態がわかる。

また、寺院の経済活動に歯止めをかけるため、諸寺が所有する墾田地の限度を定めた、

天平勝宝元年(749)には、法隆寺・四天王寺・筑紫観世音寺などとともに500町歩の墾田地 限が定められ、官寺としての寺格が明確にされたのである(3)。さらに、天平宝字五年(761)、

筑紫観世音寺とともに戒壇が設置されたのは、唐僧鑑真が来朝し、東大寺に戒壇院が創設 されてから6年後の出来事である。筑紫観世音寺は西海道9か国の、下野薬師寺は坂東8か国 と陸奥・出羽の2国を加えた10か国の僧侶の受戒の寺として、ここに日本三戒壇が成立した。

受戒作法の実施機関の設立は、これまで律令国家が目指してきた仏教の保護・統制政策を 遂行するうえでの、一つの到達点を迎えたと評価できる。

天平五年にはすでに官寺に列せられ、天平勝宝元年には官寺としての寺格が定められた 下野薬師寺のある下野国河内郡の地は、大宝律令の撰定に中心的にかかわり、正四位下式 部卿を極位極官として、和銅二年(709)に卒した下毛野朝臣古麻呂の本貫地とされる。古麻 呂の中央政界での活躍と、下野薬師寺がのちに官寺に列せられた事態とが、無関係に存在 したとは思われないが、ここでは、下層の遺構から完成にいたるまでの過程を、官寺化の 時期を中心に検討したい。

64

65 (1)下層の遺構

(a)竪穴建物

下層の竪穴建物は、おもに寺院地南西部地区、東塔地区、寺院地北東部地区で確認され ている。回廊西地区は、大型の土取遺構がある事情やトレンチ調査のためもあり、1215竪 穴建物一棟が検出されたのみである。また、中心伽藍地についても、基壇建物を確認する ための小範囲の調査である点などから、一軒も確認されていない。本来は、いま少し広が りをもっていた可能性がある。寺院地南西部の1210~1213竪穴建物は、遺物が出土してい ないため、時期が不明の遺構もあるが、ほとんどが7世紀中頃から後半代の建物である。竪 穴内の覆土は、いずれも埋め戻されていた。集落は、寺院地の南西に隣接した落内遺跡お よびその周辺にまで広がると考えられ、一連の遺跡と思われる。

東塔地区内にみられる竪穴建物は、5世紀から6世紀後半の建物と、7世紀初頭から中葉頃 の竪穴建物とがあるが、1219建物を除くといずれも掘込みが浅い。寺院地南西部の集落と は時期が異なり、別の性格をもつ集落であろう。

寺院地北東部の竪穴建物は、1224建物が7世紀中頃から後半に位置づけられるほかは、8 世紀後半と9世紀末から10世紀代の建物が中心で、むしろ、8世紀後半以降の竪穴建物で占 められている。寺院全体の位置からすると北東の鬼門の方角にあたり、寺の下働きに関係 した寺奴婢などの居住地の可能性が高 い(4)。下野薬師寺の賤院としての機能をもつ施設が置 かれた地区に相当する可能性がある。

以上のように、寺院下層の竪穴建物は多くはなく、しかも、下野薬師寺が造営される直 前の遺構はほとんどみられない。寺院地南西部にみられる竪穴建物で、覆土が埋め戻され た遺構についても、寺院造営にともなった建物ではなく、後述するように、むしろ、下層 の掘立柱建物群との関係を考えた方がよい。

(b)掘立柱建物

下層の掘立柱建物は、南門の西および寺院地西地区で4棟、西面回廊の西および下層で2 棟、さらに西門地区で1棟の合計7棟が確認され(図2)、昭和40年代の調査でも2棟が検出さ れている(5)。竪穴建物と同様、西面回廊の西地区には大型の土取り遺構があり、さらにトレ ンチ調査のため1131建物が検出されたのみである。また、中心伽藍地についても、基壇建 物の確認を目的とした調査である状況から、西面回廊と一部重なった1115建物を除き(図2)、

確認されていないが、むしろ、中心伽藍地の下層に集中して存在する可能性が高いであろ

66 う。

建物規模は、7間×3間建物が1棟、5間×2間建物が3棟、2間×3間以上の建物が1棟、3間

×1間以上の建物が1棟、規模不明が1棟の合計7棟が確認されている。桁行規模が不明な建 物についても、柱掘方の規模や柱間寸法などから判断すると、桁行が5間ないしそれ以上の 規模になる可能性がある。特に、西面回廊の西雨落構と重複した1115建物は、梁間3間が2.17 mの等間であるのに対し、桁行の柱間寸法が3.3mあり、確認された掘立柱建物のなかでは、

最大規模の建物になる可能性がある。

平面構造のうえからは、1116建物の桁行方向の両脇間の柱間寸法が2.5m、中央の3間が 2.1m、1129建物の桁行の両脇間が2.7m、中央の5間が2.1mと、両脇間を広く取る場合と、

1113建物のように中央間を2.5mと広くとり、脇間を2.0mとする例などがある。柱掘方の 形状は、1116建物のように1.5m×1.0mの長方形で、隅柱の柱掘方を対角線上に置く在地 型と、1112・1115建物のように方形の柱掘方もつタイプとがあるが、わずかに横長の形状 を有する例が多い。

建物方位については、東西棟の1112建物と1129建物が、座標北に対し5度50分東に振れ、

1113建物と1131建物が4度55分、やや離れた西門地区の1116建物も4度40分東に振れるなど、

ほぼ同じ方位をとる。特に、南北棟の1120建物と1129建物とは、南側柱筋を通して計画さ れた建物で、1113建物と1131建物も同様に計画性が高い。寺院地を区画する一本柱塀と重 なる東西棟の1111建物は1度50分東、1115建物が0度35分西に振れる建物もあり、方位のみ から分類すると、同じ下層遺構でも異なる計画の一群がある可能性もある。

掘立柱建物の時期を知る資料として、重複関係にある1212竪穴建物と1113掘立柱建物、

1215竪穴建物と1131掘立柱建物がある。7世紀中頃から後半にかけての時期の竪穴建物であ るが、いずれも竪穴建物が古い構築であり、掘立柱建物の上限を知ることができる。また、

重複関係にない他の掘立柱建物についても、建物配置に計画性がみられるから、同様に考 えられる。一方、下限については、後述するように、下野薬師寺の創建時期との関係から、

690年代頃に置くことができよう。検出された掘立柱建物は、いずれも建替が認められない 点で共通するので、存続期間はさほど長くはなく、7世紀第Ⅳ四半期のなかにおさまる蓋然 性が高い。

以上の掘立柱建物のほかに、1121掘立柱塀がある。西回廊の下層遺構の項で述べたよう に、この地区の遺構は、1121掘立柱塀→1114六脚門・掘立柱塀→瓦葺回廊の順に変遷する。

こ の う ち 、 瓦 葺 回 廊 の 造 営 時 期 が 下 野 薬 師 寺 の 官 寺 化 に と も な う 改 作 期 、 そ の 下 層 の

67

68

1114六脚門とそれにともなう掘立柱塀を創建期の遺構と考えると、1121掘立柱塀はそれ以 前に帰属する時期になる。柱掘方も長方形を呈し、古い形状をもつ。ただ、下層の掘立柱 建物で計画性をもつ1112建物、1113建物、1130建物、1131建物などが4度~5度東に振れる のに対し、1121掘立柱塀は1度40分東に振れている。下層の掘立柱建物でいえば、いま一つ のグループである1111建物や1115建物の振れに近く、このグループに含まれる可能性もあ る。しかし、寺院全体からすると一部分の調査なので、1121掘立柱塀の性格については、

明らかにし得なかった。

(c)下層掘立柱建物群の性格

これまで述べてきたように、下野薬師寺の下層で検出された7棟の掘立柱建物は、竪穴建 物との重複関係と下野薬師寺の造営年代などから、下野薬師寺が造営される直前の7世紀第

Ⅳ四半期頃と想定できよう。これらの建物群は、下野薬師寺の創建時の在り方や前史を探 るうえで重要な資料である。寺院遺構の解明を目的とした調査なので、これら建物群の調 査は一部にとどまっており、全体的な空間構成や機能などについては不明な部分が多く、

ここでは、現時点で考えられる項目について整理しておきたい。

これまで判明している下層の掘立柱建物群を再度整理すると、①長方形の大型柱掘方を ともなう建物が含まれている。②柱間寸法は、いずれも7尺以上である。③桁行が5間以上 の建物が多い。④脇間の柱間寸法が広く、中央間が狭い建物がある。⑤縦列、横列の計画 的な配置がみられる、などの諸点をあげられる。これらの建物規模や配置の計画性などの 特徴からは、一般集落を構成する一部分とは考えがたい。

古代寺院では、上野山王廃寺(6)や常陸茨城廃寺(7)、さらに伯耆上淀廃寺(8)などでみられるよう に、その下層や隣接地において、寺院に先行する掘立柱建物群が確認される場合がある。

これは、史料にみられる飛鳥寺の造営時や、蘇我馬子の邸宅の場合も同様である。そうし た下層の掘立柱建物群を取りあげた小笠原好彦の先行研究では、小規模な南北棟建物を主 体とし、小規模な建物で建物小群を構成したA類と、大型の東西棟建物を主体とし、それ に大型の南北棟、もしくは東西棟などを含んで構成されたB類とに分けられると指摘する(9)。 さらに、A・B類とも有力氏族が居住した集落にかかわる建物群の性格をもつが、A類は、

寺院造営の主体となった有力首長につながる一族が居住した建物群、B類は在地首長層が 居住した住宅に関連した性格をもつと推定する。

下野薬師寺の下層の場合は、その全体像が判明しているわけではないが、大型の東西棟

関連したドキュメント