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第2節 声の多様性を生かし学校教育に取り入れた コダーイ1ゾルターン
先にも述べたとおり、ハンガリーを代表する音楽家の名前を挙げよという間 いの答えの多くは、リスト・フェレンツかバルトーク・ベラであることが多い。
確かに日本に限ると特定分野の人を除いて、ニコダーイの知名度は低いかもしれ ないが、ハンガリーの音楽史の申では間違いなく重要人物の一人に挙げられる。
彼は祖国ハンガリーの音楽また音楽教育に貢献した。ここでバルトークと異な る点は、極めて「ハンガリー的」であった。
そして日本の特定分野の人にあたるのは、「合唱曲」を通して親しんでいる人々 のことである。彼はハンガリーの素朴な民謡を、声の持つ可能性を音楽へと結 びつけ、無限の多様性を用いることで、複雑にしかし柔和に、且つ表情豊かな 音楽作品へと変貌させたのである。
コダーイは1882年にハンガリー南部のケチュケメードに生まれる。その 後、現スロヴァキア領に位置する北部のガラーンタに転居しここで3歳から1
0歳までを過ごした。このガラーンタという地域はジプシー楽団発祥の地とし ても知られ、彼自身も幼少の頃、当地で有名だったジプシー楽団を聴いたと後 に振り返っている。10歳からはその少し北の歴史的な街ナジソソバト(こち
らも現スロヴァキア領)に移り、当地の管区ギムナジウムに通った。この時代 に彼はカトリックととりわけ音楽文化に深く触れた。声の音楽としてはガラー ンタで古い民謡に親しんだが、ナジソソバトでは教会合唱団に参加することで、
キリスト音楽の豊かなレパートリーを知ることとなった。学業においては全て の試験に抜群の成績を収めたが、特に文学と語学に秀でていた。同時にピアノ、
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロを習いオーケストラの演奏会のメンバーに加 わり、作曲も始めた。初期の作品のうち、フル編成のオーケストラのための序 曲二短調が王898年2月に、2台のヴァイオリンとヴィオラのための3重奏 曲変ホ長調が99年2月に演奏されている。
第2章 20雄紀ハンガリー音楽の発展
そんなコダーイだったが、彼に音楽の才能があることを認めながらも職業的 な音楽家となることに難色を示した両親の意向を汲んで、ブダペスト分科大学 哲学科に入学、ハンガリー語、ドイツ語とならんで文学を専攻した。同時に、
王立音楽院の入学試験も受け、作曲科で学ぶこととなった。(バルトークと同じ くヤーノシュ・ケシュレルに師事)バルトークより1年遅れの1900年のこ
とである。
ニコダーイは平行した2つの勉学についてこう語った。「2種類の勉学のバラン スをとるのは難しかった。ある時は一方に、別の時はもう一方に多くの時間を 割く、といった状態だった」らしく、王立音楽院では同時期に在学していたカ ールマン・イムレ(後にオペレッタ作曲家として世界的成功をおさめる)やヴ ェイネル・レオー(コダーイより年下の作曲家としては最も成功した一人)ら に奨学金や賞をもっていかれた。このことから、2つの専攻をまっとうするの はいかに優秀なニコダーイとて相当に難しく、苦労した様子が例える。
こうして1905年に音楽院を修了、翌年06年には大学でのハンガリー語 研究の成果をまとめた博士論文「ハンガリー民謡における韻律法の節構造」に
よって博士号を取得した。
このように言語や文学といった 言葉 にかかわる領域を学んだことで、幼 い頃から民謡やキリスト教の合唱音楽といった、言い換えれば 言葉を持った 音楽 に親しんできたコダーイであったが、音楽そのものでないとはいえ、音 楽と隣接した領域を選択し、博士論文が言語の研究ではあるものの題材に民謡 を取りあげていることで、彼の中では並行していた2つの勉学が、結局は1つ のものへと融合していったということが如実に示されている。
1906年10月にコダーイの《夏の夕べNy虹ieste》が王立音楽院でのデ
ィプロマ授与式の演奏会で演奏され、その結果として外国留学のためのささや第2章 20世紀ハンガリー音楽の発展
がな奨学金を受け取ることとなった。そしてコダーイは両親の意に反してでは あるが、音楽家の道を歩むことになった。
奨学金を受け、12月にベルリンヘ向けて出発し、次いで翌年4月にはパリ ヘ移った。この6ヶ月はコダーイの生涯を通じて唯一の外国生活であったが、
その間の最も印象深い経験は、この時期の多くの音楽家がそうであったように、
ドビュッシHの音楽との出会いであった。ハンガリーの伝統音楽の中で重要視 される5音音階がドビュッシーの旋律体系においても一定の役割を果たしてい ることに驚きを示している。ハンガリ㎞に帰国し、さらに度々の民謡収集旅行 から戻ったあとに、王立音楽院の教授に任命された。
彼は博士論文でも民謡を取り上げて、ドビュッシーの音楽の申にもハンガリ ーの伝統音楽との共通点を見出しているのだが、子供の頃に親しんだ伝統音楽 を深く理解するようになったのはいつ頃のことであろうか。
それについては、ナジソソバトのギムナジウムで学んだ頃に 楽譜 の形で残 された民謡集に触れる機会があった、と本人が述懐している。1896年のハ ンガリー建国1000牢記念博覧会で、民謡を本格的に収集した初期の民俗学 者として知られるヴィカール・べ一ラのコレクションに接し、1903年には ヴィカール本人からヴィカールが収集した蝋管録音から採譜・研究することも 許可されている。こうして先人の成果を事細かく調べ予備知識を身につけてか
らの1905年夏、すなわち音楽院卒業直後に幼少時代を過ごしたガラーンタ に自ら収集旅行に出かけたのである。驚くべきは、公式にコダーイの民謡収集 は3歳の188δ年から始まったことになっている。聴き覚えた曲を楽譜に書 き付けるという作業を年端のいかない頃から行っていたということである。彼 は聴き馴染んだ民謡を、普通ならただ聞き流すところを、聴いて記録するとい う、かなりの能力を要求される作業を幼い頃から習慣的に行っており、こうし た経験が20代前半までに相当な情報量を蓄積させたということになるだろう。
第2章 20世紀ハンガリー音楽の発展
年齢では1歳年上のバルトークがハンガリーの伝統音楽についての教えを乞 いにまずコダーイのところに出向いたという出来事の背景には、バルトークも 一目置くほど広く深い知識をコダーイが持っていたことにある。そうして二人 は民謡収集を通じて緊密な関係に深まっていった。バルトークは自叙伝風の記 録にコダーイについて次のように記している。(1918)「彼はその明解な洞 察力を健全な批評眼によって、音楽のいかなる部門にも大変に貴重な助言と有 用な忠告の両方を与えることができる」。そしてコダーイは自身のラジオ番組
《バルトークの思い出Bart6kem16ke戯e》(1955,11,3)のなかで、彼 らの共同研究の基礎とその始まりについて次のように述べている。「民衆の間か ら新たに生まれた教養あるハンガリーの未来が私たちの前に浮かび上がってき た。我々はその実現に向けての生涯をささげる決心をした」。2人の初めての共 同企画は《ハンガリー民謡Magyamるpda1ok》(1906)の出版であり、1コダ ーイによってまとめられた序文には、彼らの計画が述べられている。そして2 人は第1次世界大戦勃発によ り収集旅行に終止符が打たれるまで研究を続けた。
1907年に母校である王立音楽院の作曲の教師となったが、自らの作曲と 研究活動のほかに、後進の指導という責務が加わった。この頃からコダーイは 作繭家としても、音楽研究者としても、もっとも影響力のある音楽家として内 外で知られるようになっていった。外国での仕事が頻繁になっていく最中でも、
コダーイの関心はやはりハンガリーで行うべき仕事に向けられた。彼は教育活 動の範囲を広げていき、1925年以降は若い世代に対する音楽の訓練に特別 な注意を向けるようになった。この目的のためにソルブエージュ練習曲を書き、
合唱曲を作曲した。このため彼の作品の大部分は合唱繭なのである。他の20 世紀の作菌家で、彼ほどこのジャンルについて精通し、情熱を注いでいる者は いないといっても過言ではない。もとは素朴な民謡をモチーフであっても、コ ダーイは無限の多様性を持つ声を用いることで、複雑な表現を持った音楽作品 へと変貌させていった。
第2章 20世紀ハンガリー音楽の発展
その流れの申で、学校教育における音楽はどうあるべきか、また学校教育を 終えた人々が社会生活の申でどのように音楽と関わっていけるのか、そもそも ハンガリー人のための音楽教育とはどういうものなのか、といった課題と向き 合いながら研究に取り組んでいった。このときに生かされたのが伝統音楽の研 究と、その中でも彼の場合は「人の声の音楽」に向き合ったことにあった。人 間の声の美しさと歌うことの魅力は尽きぬ泉であり、その魅力をあらゆる合唱 音楽の形態に注ぎ込んでいる。中でも中心的な位置を占めるのは、子供のため のものである。そのため音楽を器楽で演奏するのではなく、自分の声で性格に 表現出来ることを目指し、その声で歌う母語の良さをもっともよく伝える民謡 やわらべ歌を教材に取り入れるという、当時としては画期的な考えを打ち出し た。これがrコダーイ・メソッド」である。これにより主にハンガリーの伝統 音楽を用いた膨大な数の教材や合唱曲が生まれ、この教育法を普及されるため
にコダーイは亡くなるまでの40年以上、ハンガリー全国を精力酌に訪れた。
こうして浸透し、定着した子供のための音楽教育法rコダーイ・メソッド」は ハンガリーだけに留まらず、世界的に注目されるようになったのである。
「コダーイ・メソッド」とは音楽家としての特殊な能力以前に、子供たちの 一般的な音楽能力を作り上げることに主眼を置き、そのやり方としては徹底し て自分の声で音楽を表現するところに特徴がある。同時に自国の文化や伝統、
母国語に深く根ざしたもので、 教師たちは音楽人として以前に、ハンガリー人 として祖先から受け継がれてきたものをいかに理解しているかを求められるも のである。そのため、授業の中心は歌唱活動であり、音楽の授業が「唱歌 餉ek」
と呼ばれた。日本の音楽の授業ではピアノ伴奏ありきであるが、ハンガリ㎞の r唱歌」の授業ではピアノはおろか、まったく楽器を使用しないのが普通であ る。無伴奏(ア・カペラ)であることが大前提なのだ。正確な音程は先生がそ の都度、音叉でとり、後は声だけで授業は進められる。
教材はというと、ハンガリー人らしい音楽性が自然な形でそなわるように、
母語の歌を用いる。これは子供が成長の段階とともに自然に母語を身につけて