はじめに
第 3 章では,2008 年の世界金融危機後という特別なタイミングで,中国政府が人民元の 国際化戦略を打ち出した背景や必要性について確認した。続いて,第 4 章と第 5 章では,第 3 章で示した戦略下で中国政府が整備した一連の制度と,そうした制度の下で市場参加者が どの程度人民元を選択してきたのかについて,貿易と国際投資の順で考察する。
先ず本章では,中国本土と海外オフショア市場の貿易業者が人民元建て決済を選好する 動機(実需面と投機面)を考察し,また,グローバルレベルでの人民元建て貿易決済利用の 度合いを確認する。さらに,近年,ASEAN や日本,韓国など周辺国の貿易建値通貨に占める 人民元シェアの変化に焦点を絞り,今後のアジア太平洋地域内における人民元建て貿易決 済の更なる発展の可能性について検討する。
第 1 節 クロスボーダー人民元建て貿易決済の規模
1.クロスボーダー人民元建て貿易決済額の推移
2008 年 12 月 8 日に,中国の国務院弁公庁が公布した「当面の金融による経済発展促進に 関する若干意見(〔2008〕126 号)」(「金融三十条」とも呼ばれる)の中で,香港での人民元 業務の発展の支援および,周辺諸国との貿易における人民元建て決済の実現などの内容が 言及されている(第 22 条)。また,同年 12 月 24 日の国務院常務会議では,広東省・長江デ ルタ地区(上海市,江蘇省,浙江省)と香港・マカオとの間,広西チワン族自治区・雲南省 と ASEAN との間の財貿易において,クロスボーダー人民元建て決済を試験的に導入する構 想が提出された。その後,約半年間の準備期間を経て,2009 年 7 月 2 日に,国務院の 6 部・
委員会(中国人民銀行,財務部,商務部,税関総署,国家税務総局,中国銀行業監督管理委 員会)が連名で「クロスボーダー人民元建て貿易決済試点管理弁法」を発表し,上海市と広 東省の広州市,深セン市,珠海市,東莞市の合計 5 都市で選ばれた 365 社のパイロット企業 と,香港,マカオ,ASEAN との間の財貿易に限定された人民元建て決済が正式に実施に移さ れた。さらに,2010 年 6 月 22 日から,クロスボーダー人民元建て貿易決済の解禁地域が,
国内の 20 省・直轄市・自治区と全世界との間の経常取引に拡大された。そして,2011 年 8 月 24 日から,国内の適用地域が全国の範囲にまで広がった。
こうした一連の動きにより,人民元建て貿易決済の解禁地域は全国に,貿易相手も全世界 に拡大されており,クロスボーダー人民元建て貿易決済額の増加も目立ち始めてきた139⁾。 図表 4.1 で示したように,人民元建て貿易契約決済が開始された 2009 年には,その取引額 は 36 億元にすぎなかったが,その後急速に拡大し,2015 年には 7.23 兆元を記録した。
139⁾ 『人民元国際化報告 2015 年版』,4 頁(表 1),8 頁(コラム 1)。
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図表 4.1 クロスボーダー人民元建て貿易決済額の推移(単位:兆元,右軸 %)
(出所)中国人民銀行資料より筆者作成。
(注)2020 年度は,1 月から 6 月までのデータを示す。
しかし,2015 年にピークに達した後,人民元建て貿易決済額は減少傾向に転じており,
経常取引に占める人民元建ての比率も徐々に低下してきている。2019 年のクロスボーダー 人民元建て貿易決済額は 6.04 兆元で,2017 年や 2018 年に比べ増加しているものの,2015 年の規模には及ばない140⁾。また,経常取引に占める人民元建ての比率も 2015 年の 25.3%
から 2019 年の 16.1%に低下した(図表 4.1 参照)。
2.順調なスタートから減少に転じた原因
クロスボーダー人民元建て貿易決済が,2015 年を境に減少に転じた原因についてはさま ざまな議論(例えば,中国 GDP 成長率の減速や,中国銀行部門の不良債権問題への懸念の高 まり,2015 年 6 月の上海株の急落など)141⁾がなされているが,2015 年(特に人民元為替制 度改革が実施された 8 月)以降,それまでの元高基調が元安基調へと反転したことが重要な カギとなる,ということが数多くの研究から明らかにされている。
140⁾ 近年,クロスボーダー人民元建て貿易決済では,財貿易のシェアが徐々に低下したのに対して,サー ビス貿易とその他(投資収益と経常移転)のシェアが上昇傾向にある。例えば,2019 年には人民元建 て財貿易やサービス貿易,その他(投資収支と経常移転)の決済額はそれぞれ 4.24 兆元,9,515 億元,
8,048 億元となり,サービス貿易とその他のシェアは約 30%に達している。さらに,2019 年に貨物貿 易における人民元建ての比率は 13.4%で,サービス貿易(23.8%)とその他(49.8%)の水準を大き く下回っている(『人民元国際化報告 2020 年版』,6-7 頁)。
141⁾ 梶谷(2016),梶谷(2017),清水(2019),鳥谷(2017),鳥谷(2019b), Eswar Prasad(2018),Ito
(2017),Weitseng Chen(2018)などを参照されたい。
0 5 10 15 20 25 30
0 2 4 6 8 10
2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016 2017 2018 2019 2020H1 財の貿易 サービス貿易とその他 経常取引に占める人民元建ての比率(右軸)
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人民元の国際化戦略が打ち出されて以降,クロスボーダー人民元建て貿易決済を通じた 資金流出が,香港をはじめとするオフショア市場に長期的に流動性を供給する主なルート となった142⁾(香港交易所,2017)。クロスボーダー人民元建て貿易決済では資金の純流出が 続くなか,香港や台湾,シンガポールなど主要なオフショア市場での人民元建て預金はわず か数年でおよそ 1.6 兆元(CD を含む,2014 年末)に急増した143⁾。ただし,2015 年にクロス ボーダー人民元建て貿易決済額は 7.23 兆元とピークを記録したにもかかわらず,人民元建 て輸入に伴う支払額は 2014 年に比べ大きく減少し,2009 年以来初めての資金純流入がみら れた(図表 4.2 参照)。その後,資金の純流出が続いているものの,クロスボーダー人民元 建て貿易決済の規模が大きく減少しており,香港などオフショア市場での人民元建て預金 の規模も減少傾向をたどっている(図表 4.3 参照)。その原因は,2015 年以降,中国国内で システミック・リスクへの懸念が生じたことに加え,為替相場が人民元安方向に動く中で,
中国本土の貿易業者が外国との貿易取引において人民元建てで決済するインセンティブが 弱まっており,また,香港などオフショア市場での投資家の間で,人民元安を見込んで人民 元建て預金の一部をドルなど他の通貨建て預金に切り替える動きが広がったことにある。
図表 4.2 クロスボーダー人民元建て貿易決済の内訳(単位:兆元,右軸‣%)
年 受取額(輸出) 支払額(輸入) 合計 受取額:支払額
★純流出額
2010 779 億元 4,284 億元 5,063 億元 1:5.50 0.35 兆元 2011 7,708 億元 1.31 兆元 2.08 兆元 1:1.70 0.54 兆元 2012 1.30 兆元 1.57 兆元 2.87 兆元 1:1.21 0.27 兆元 2013 1.88 兆元 2.75 兆元 4.63 兆元 1:1.46 0.87 兆元 2014 2.73 兆元 3.83 兆元 6.55 兆元 1:1.40 1.10 兆元 2015 3.91 兆元 3.32 兆元 7.23 兆元 1:0.85 —0.59 兆元 2016 2.15 兆元 3.08 兆元 5.23 兆元 1:1.43 0.93 兆元 2017 1.77 兆元 2.60 兆元 4.37 兆元 1:1.47 0.83 兆元 2018 2.06 兆元 3.05 兆元 5.11 兆元 1:1.48 0.99 兆元 2019 2.66 兆元 3.38 兆元 6.04 兆元 1:1.27 0.72 兆元 累積額 19.31 兆元 25.32 兆元 44.63 兆元 1:1.31 6.01 兆元(出所)中国人民銀行資料より筆者作成。
142⁾ 香港交易所(2017)によると,短期的な流動性は中央銀行間の通貨スワップや PLPs など市場融資に依 存している。
143⁾ そのうち,香港での人民元建て預金は 1.15 兆元(普通預金と定期預金は計 1 兆元,CD は計 1,547 億 元)で,台湾とシンガポールでの人民元建て預金はそれぞれ 3,022 億元,約 2,000 億元となった(香 港交易所(2017),1 頁)。
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図表 4.3 香港市場における人民元建て預金の推移(単位:10 億元)
(出所)香港金融管理局資料より筆者作成。
さらに,クロスボーダー人民元建て貿易決済を減少させた要因として,輸出入など実需に 基づいた取引の減少以外にも,中国本土とオフショア市場の間の為替レートと金利の二重 構造を利用した裁定取引が減少したとの指摘も多い。
例えば,関志雄(2017)は,中国における資本取引の自由化が実現されていない現状にお いて,クロスボーダー人民元建て貿易取引には,貿易取引を装ったオンショアとオフショア 市場の間の為替裁定と金利裁定などの資本取引も含まれており,こうした裁定取引の存在 は,人民元の国際化に寄与しているが,本来の目的から大きくかけ離れたものであると指摘 している144⁾。同様に,中国政府系シンクタンクである中国社会科学院の張明と張斌は, 2014 前半からも人民元安の圧力が高まりつつあったにもかかわらず,中国人民銀行が 2015 年 8 月に人民元為替制度の改革を断行した背景について考察したうえで,オンショアとオフシ ョア市場の間の為替と金利の裁定取引は,人民元国際化の急速な拡大および 2015 年以降の 後退局面において,大きな役割を果たしてきたと指摘している145⁾。
2015 年 8 月 11 日,中国人民銀行は,人民元の対ドル取引の基準となるレート「基準値」
の算出方法を見直し,11 日から 13 日まで 3 日連続で人民元の対ドル為替レート基準値は,
合計 4.7%切下げられた146⁾。図表 4.4 と図表 4.5 で示されているように,8 月のこの改革
144⁾ 関志雄(2017),1-6 頁。
145⁾ Zhang and Zhang(2017),p.7 を参照されたい。
146⁾ 2015 年 8 月 11 日,中国人民銀行は「人民元の対ドル為替レート基準値の報告方法を改善することに 関する声明」を公表し,人民元の為替レート決定メカニズムを見直し,8 月 10 日は基準値が 1 ドル=
6.116 元であったが,13 日の基準値は 1 ドル=6.401 元になった。
0 200 400 600 800 1,000 1,200
2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016 2017 2018 2019 2020
普通預金 定期預金 合計