はじめに
第 4 章と第 5 章では,外国為替論アプローチが規定した「下(市場)」からの取引数量面 アプローチに従い,人民元建て貿易取引と資本取引の進展についてそれぞれ確認した。本章 では,視点を公的レベルに移し,公的国際通貨としての人民元のパフォーマンスについて考 察する。
国際通貨の標準的アプローチは,公的部門(official)に用いられる国際通貨の諸機能を,
公的決済通貨・介入通貨(交換・支払手段),公的基準通貨(計算単位),準備通貨(価値貯 蔵手段)に大きく分けている201⁾。外国為替論アプローチは,これらの機能の中の公的基準 通貨機能を特に重視している。例えば,岩田(2005)はドイツ・マルク国際通貨化の経験を 踏まえ,「貿易や投資において第三国通貨として利用されることがなくても,当該地域での GDP 規模,貿易規模,国内金融市場規模などが相対的に大きく,なおかつ当該エリアの諸通 貨の為替標準としての機能を果たしている通貨が,銀行間外国為替市場のレベルでの為替 媒介通貨=国際通貨として選択される可能性が高い」と指摘している202⁾。こうした認識を 踏まえ,本章では,まず,人民元の公的基準通貨としての機能について考察したい。
次に,人民元の外貨準備通貨としての機能に焦点を絞り,2015 年に IMF の特別引出権(SDR)
の構成通貨に組み込まれたことが,人民元国際化に与えうる影響,および,IMF の外貨準備 通貨全体に占める人民元シェアの変化について確認したい。
最後に,人民元の公的国際通貨としての機能拡充を妨げる要因について検討し,また関連 して「人民元圏」形成の可能性についてとりあげる。
第 1 節 公的基準通貨
1.主要な公的基準通貨
岩田(2005)は,「特定通貨が,世界のもしくは特定地域の為替相場固定のための基準通 貨となっている場合,為替ディーラーにとって当該通貨建てポジションを抱えることから 生じる為替リスクは,他の通貨との比較で相対的に小さくなる」としており,また戦後の IMF 体制におけるドルと,EMS におけるドイツ・マルクの事例を踏まえ,「形式上もしくは実質 的に為替標準通貨の機能を果たしている通貨は,当該通貨を為替標準として選択している 国の外国為替銀行にとって,為替媒介通貨として機能するための重要な条件を備えていた
201⁾ 岩田(2005),63 頁の図表 4 を参照されたい。その他,Ito and McCauley(2019)は国際通貨の公的 機能,アンカー通貨(計算単位),介入通貨(交換・決済手段),外貨準備通貨(価値貯蔵)に分けて いる(p.1)。
202⁾ 岩田(2005),69 頁。一方で,岩田(2005)は,介入通貨の為替媒介通貨機能に与える影響は,為替相 場が介入点に達した際にのみ発現する補助的ルートとして理解することが適切と考えることを示し ている(68 頁,注 21)。
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といえる」203⁾と指摘している。そのため,多くの国々が自国通貨を特定通貨にペッグし,
特定通貨が,公的基準通貨としての機能を拡充することは,当該通貨の外為取引量の増加お よび為替媒介通貨としての機能拡充につながるものと考えられる。
国際通貨基金(IMF)が公表する「世界各国の金融政策フレームワークと為替相場アンカ ーの構成」によると,2019 年現在,IMF に加盟している 192 カ国・地域のうち,80 カ国・
地域が為替相場アンカーを採用しており,全体の 41.7%を占めている(2008 年には,115 カ 国・地域で 59.9%であった)204⁾。これらの国々のうち,自国通貨をドル,ユーロにリンク させている国は,2008 年の 66 カ国,27 カ国・地域から 2019 年の 38 カ国,25 カ国・地域 にそれぞれ減少した(図表 6.1 参照)。
一方で,IMF(2019)が指摘しているように,ドルは依然として最重要なアンカー通貨で あるが,そのシェアは長期的に低下傾向が続いている(2008 年の 33.0%から 2019 年の 19.8%に低下)。また,ユーロのシェアは大きく変わっていないが(2008 年の 14.4%から 2019 年の 13.0%にやや低下),ユーロをアンカーとしているのは基本的に欧州諸国と歴史 的に関係の深い国々である205⁾。そして,ドルとユーロ以外の通貨に自国通貨をリンクさせ
図表 6.1 世界各国の金融政策フレームワークと為替相場アンカーの構成(単位:%)
為替相場アンカー 貨幣集計量
ターゲット
インフレ・
ターゲット その他
ドル ユーロ 通貨バスケット その他通貨 2008 年 33.0 14.4 8.0 3.7
(66) (27) (15) (7)
11.7
(22)
22.9
(44)
6.4
(11)
2009 年 28.7 14.4 7.4 4.3 (54) (27) (14) (8)
13.3 (25)
15.4 (29)
16.5 (31) 2010 年 26.5 14.8 7.9 3.7
(50) (28) (15) (7)
13.2 (25)
16.4 (31)
17.5 (33) 2011 年 25.3 14.2 7.4 4.2
(48) (27) (14) (8)
15.3
(29)
16.3
(31)
17.4
(33)
2012 年 22.6 14.2 6.8 4.2 (43) (27) (13) (8)
15.3
(29)
16.8
(32)
20.0
(38)
2013 年 23.0 14.1 6.8 4.2 (44) (27) (13) (8)
13.6
(26)
17.8
(34)
20.4
(39)
2014 年 22.5 13.6 6.3 4.2 (43) (26) (12) (8)
13.1
(25)
17.8
(34)
22.5
(43)
2015 年 22.0 13.1 6.3 4.2 (42) (25) (12) (8)
13.1
(25)
18.8
(36)
22.5
(43)
2016 年 20.3 13.0 4.7 4.7 (39) (25) (9) (9)
12.5
(24)
19.8
(38)
25.0
(48)
2017 年 20.3 13.0 4.7 4.7
(39) (25) (9) (9)
12.5
(24)
20.8
(40)
24.0
(46)
2018 年 19.8 13.0 4.7 4.7
(38) (25) (9) (9)
12.5
(24)
21.4
(41)
24.0
(46)
2019 年 19.8 13.0 4.2 4.7
(38) (25) (8) (9)
13.5
(26)
21.4
(41)
23.4
(45)
(出所)IMF,
Annual Report on Exchange Arrangements and Exchange Restrictions
2019 より筆者作成。(注)この図表の中で,( )の中の数値は国の数を示す。
203⁾ 岩田(2005),67-68 頁。
204⁾ IMF,
Annual Report on Exchange Arrangements and Exchange Restrictions
2019,p.7, Table 2。205⁾ 同上,p.11.
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ている国は,2008 年の 7 カ国・地域から 2019 年の 9 カ国・地域に増加した。そのうち,キ リバス,ナウル,ツバルの 3 カ国は豪ドルを法定通貨としており,ブルネイ・ダルサラーム 国はシンガポール・ドルに対するカレンシーボードを採用している。また,スワジランド,
レソト,ナミビアの 3 カ国は自国通貨を南アフリカ・ランドにペッグさせており,ブータン とネパールは自国通貨をインド・ルピーにペッグさせている。このカテゴリーに分類される 国々の大半は内陸国又は島嶼国で,自国通貨のアンカーとして選択する国と隣接しており,
また,アンカー通貨は通常国内で自由に使える通貨(法定通貨の場合が多い)であると,IMF
(2019)は指摘している206⁾。
さらに,複数通貨で構成された通貨バスケットに自国通貨をリンクさせている国は 2008 年の 15 カ国・地域から 2019 年の 8 カ国・地域に減少した。そのうち,ボツナワ,リビア,
シリアの 3 カ国は自国通貨を SDR にリンクさせており,モロッコは自国通貨をユーロとド ルで構成した通貨バスケットにリンクさせているほか,フィジー,クウェート,シンガポー ル,ベトナムの 4 カ国は通貨バスケットの内訳を公表していない207⁾。
一方,為替相場アンカーを採用していない各国のうち,貨幣集計量を金融政策の目標や金 融調節の操作対象としている国は,2008 年の 22 カ国・地域から 2019 年の 26 カ国・地域に 増えたのに対して,インフレ・ターゲットを採用している国は 2008 年の 44 カ国・地域から 2019 年の 41 カ国・地域に減少した。
そして,以上のどれにも該当しない「その他」というカテゴリーに分類された国は,2008 年の 11 カ国・地域から 2019 年の 45 カ国・地域に増加した。このカテゴリーには,米国や 欧州主要国など自国通貨以外にアンカー通貨を指定せずに,多方面の指標を参考に金融政 策を策定する先進国を含めるほか,金融政策の枠組みを公表しない国々も含まれる。
しかしながら,以上の 3 つのカテゴリーにおいて,多くの国々は事実上のドルあるいはユ ーロに対するペッグ制を維持していると,IMF(2019)は指摘している208⁾。例えば,「貨幣 集計量・ターゲット」グループの 15 カ国(アンゴラ,ボリビア,エチオピア,ギニア,マ ラウイ,ミャンマー,ナイジェリア,スリナム,タジキスタン,タンザニア,イエメン,ア フガニスタン,バングラデシュ,ブルンジ,ルワンダ)と,「インフレ・ターゲット」グル ープの 4 カ国(グアテマラ,インドネシア,コスタリカ,ドミニカ共和国),「その他」グル ープの 8 カ国(アゼルバイジャン,エジプト,パキスタン,南スーダン,ウズベキスタン,
ハイチ,モーリタニア,パプアニューギニア)は,実際上(de facto)のドル・ペッグ制を 維持している。また,「インフレ・ターゲット」グループのセルビアは実際上のユーロ・ペ ッグ制を維持している。さらに,「貨幣集計量・ターゲット」グループの中国と「その他」
グループのソロモン諸島,サモアは事実上の通貨バスケット制を維持している。
以上で示したように,IMF が把握する為替相場制度には,その国が公表している公式(de
206⁾ IMF,
Annual Report on Exchange Arrangements and Exchange Restrictions
2019,p.11.207⁾ 同上,p.11.
208⁾ 同上,p.8-9, Table2.
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jure)の為替相場制度と,実際(de facto)の為替相場制度があり,前者は後者と必ずしも 一致していない209⁾。しかし,2020 年末の段階で,自国通貨のアンカー通貨として人民元を 公式に選択し,自国通貨を人民元にペッグしている国はない。これは,人民元が公的基準通 貨として直接的には機能していないことを意味している。
一方で,2015 年に人民元が IMF の特別引出権(SDR)の構成通貨バスケットに組み込まれ たことにより,基準通貨に SDR を採用している 3 カ国(ボツナワ,リビア,シリア)にとっ ては,人民元が公的基準通貨として間接的に機能し始めたと言える。しなしながら,SDR を 基準通貨として採用している国は極めて少なく,また SDR 自体の準備通貨としての役割が 極めて限定的なものである(本章2にて後述)ことに鑑み,人民元が間接的に果たしている 公的基準通貨としての機能も極めて限られていると考えざるを得ない。
2.人民元の公的基準通貨機能を妨げる要因
Ilzetzki, Reinhart and Rogoff(2019)は,ブレトンウッズ体制の時期と同様に,現在 のところ,ドルが依然として世界で最も重要な公的基準通貨として用いられており,世界 GDP の約 70%のシェアを占めている国・地域の通貨の,対ドル相場のボラティリティ(変動 率)が,他の主要通貨に対する変動率より小さいことを指摘している210⁾。さらに,Ilzetzki, Reinhart and Rogoff(2019)は,2015 年夏の人民元の切り下げに伴い,多くのアジア通貨 と他の新興国通貨の相場も連動して下落したこと(第 5 章参照)に鑑み,人民元が公的基準 通貨として機能している可能性について言及したものの,実証分析の結果として,中国は依 然としてドル圏に属していると指摘している211⁾。
人民元が公的基準通貨として機能するのを妨げる要因として,①人民元建て貿易取引や 対外債務が少ない,②世界の外貨準備に占める人民元の比率が低い,③人民元が媒介通貨と して機能していない,といった諸点が指摘されているほか,人民元相場がドル相場と強く連 動しており,人民元-ドルのクロスレートが 2%のバンドに収まっているため,ドルアンカ ーと人民元アンカーとをそもそも判別しにくく,ドルアンカーから人民元アンカーへのシ フトも観察されにくい,という点が指摘されている212⁾。そして,Ilzetzki, Reinhart and Rogoff(2019)は,世界経済に占める中国の重要性が増していることに鑑み,人民元が今後 アンカー通貨になる可能性は完全に否定できないものの,中国人民銀行がドルなどで構成 した通貨バスケットへの為替相場の安定を維持し,外国為替市場における介入を引続き実 施し,人民元の完全な交換性は認めない間は,人民元のアンカー通貨としての機能拡充は難 しい,との見解を示している。
さらに,Ilzetzki, Reinhart and Rogoff(2019)は,ドイツ・マルクのアンカー通貨と
209⁾ 勝(2008),1 頁。また,東アジア域内通貨制度や金融協力の考察については日本財務省(2017),赤羽
(2019b)を参照されたい。
210⁾ Ilzetzki, Reinhart and Rogoff(2019),p.599.
211⁾ 同上,p.624.
212⁾ 同上,p.625-626.