ホッブズはあらゆる実体を物体であると主張する。この場合の実体とは、直接的に認識するこ とができるものではなく、その実体の作用の結果として与えられた観念から推論によって措定され るものである。また、彼は推論をある種の計算として考えており、それは実際には言葉によって進 められることになる。前章では十分に考察することができなかった、「第三反論」の反論4では次 のように説明されている。
もし推論が「である」という言葉による名辞ないし名称の結合もしくは連結に他ならないとするなら ば、今や我々は何と言うべきであろうか。我々は推理によっては事物の本性については何も得ることが なく、むしろそれらの名称の意味について、我々の裁量に基づいて定めた協約にしたがって事物の名辞 が確かに結びつけられているのか否かを結論するのである。もしこの通りであるとすれば̶̶それはあ りうることなのだが̶̶推論は名辞に、名辞は表象作用に、そして思うに、表象作用はおそらく、身体 の諸器官の運動に依存することになるだろう。こうして、精神は身体の諸器官のいくつかの部分におけ る運動以外の何ものでもないことになるだろう。 1
推論とは「であるest」という繋辞によって、2つの名辞を結びつけることである。この場合、推論 は事物の本性ではなく、その名辞の結合が、人間同士が「裁量arbitrium」に基づいて取り決めた 名辞の用法として適切か否かを結論する 。さらに、推論において用いられる名辞の取り決めは人2 間の表象作用に依存し、それは究極的には身体の諸器官の運動、すなわち感覚に依存することに なるという。このこと自体は、前章までで考察した彼の唯物論の帰結として理解することはでき る。しかし、その一方でここではそれとは異なる問題も発生している。もしも推論が名辞と名辞 の結合であり、その名辞は人間の恣意的な取り決めに基づくものであるとすれば、この推論の妥 当性は究極的には何によって担保されるのであろうか。
ホッブズのこうした主張に対して、もちろんデカルトは激しく反論した 。推論とは単なる名辞3 同士の結合ではなく事物の結合だ。もしそうでないとすれば、異なる言葉を話す外国人同士では 同じ事物について同じ結論を下すことができない。そのため、推論にとって重要なのは、そこで 用いられる言葉そのものではなく、言葉にとって指し示される事物の方だ。デカルトは推論に よって真理が導かれるためには、名辞と事物の間に何らかの恣意的でない関係が必要であり、そ れがなくしては「天は地である」のような明らかに奇妙な命題も可能になってしまう。
デカルトの懸念はさしあたり正しいように思われる。人間が何らかの事物を正しく理解してい ると言えるためには、その事物の状態を言葉で正確に表現することが可能でなければならない。
ところが、ホッブズが言うように名辞とは人間の取り決めに過ぎないのだとすれば、事物と名辞
“Quid jam dicimus, si forte ratiocinatio nihil aliud sit quam copulatio et concatenatio nominum sive appellationum per verbum hoc
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est? Unde colligimus ratione nihil omnino de natura rerum, sed de earum appellationibus: nimirum, utrum copulemus rerum nomina secundum pacta, quæ arbitrio nostro fecimus circa ipsarum significationes, vel non. Si hoc sit, sicut esse potest, ratiocinatio
dependebit a nominibus, nomina ab imaginatione, et imaginatio forte, sicut sentio, ab organorum corporeorum motu: et sic mens nihil aliud erit præterquam motus in partibus quibusdam corporis organici.” OCM: Ob. IV, OL V: 257-258. Descartes AT VII: 178. ATは
「名称の意味について、我々の裁量に基づいて定めた」に相当する部分が()で囲われている。
現行の邦訳においては、このarbitriumは「自由意志」や「意志」と訳されていることが多い。しかし、意志については
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voluntasを用い、arbitriumとは区別されるべきであると思われる。実際、ホッブズも基本的には自由意志批判などの文脈 ではvoluntasを用い、arbitriumはこうした目印や記号の決定という文脈で使っている。そのため、本稿ではarbitriumには
「裁量」の訳語を用いる。ただし、『人間論』第11章第2節では例外的に欲求や熟慮などの問題について「自由裁量 liberum arbitrium」の語が用いられている。
OCM: Ob. IVRe., OL V: 258-259.
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との間には真の関係はない。このような前提の下では、人間が自然について何を主張しようと も、それはあくまでも特定の人間によって取り決められた言葉使いを確認しているに過ぎず、事物 や世界の真のあり方には対応していないことになる。もしそうなれば、言葉と事物の対応関係と しての真理はもはや意味を持たないだろう。ライプニッツは「ニゾリウスへの序文」において、
ホッブズのこうした真理観を批判的に取り上げている 。 4
オッカム自身は、今日のトマス・ホッブズと比べると、それほど唯名論者ではなかったと私は考えてい る。実を言えば、ホッブズは唯名的な立場よりもさらに進んでしまったように私には思われる。という のも、彼は唯名論者たちのように普遍を名辞に還元するだけでは満足せず、事物の真理そのものが名辞 の内にあり、さらには真理は人間の裁量に依存すると主張した。というのも、[彼によれば]真理とは 用語の定義に依存し、用語の定義は人間の裁量に依存するからである。 5
ライプニッツによれば、ホッブズの立場はオッカムのような唯名論からさらに進んでしまってい る。というのも、「事物の真理」が名辞の内にあり、しかも名辞は人間の裁量によって取り決め られるとするホッブズの主張は、真理が人間の裁量に依存するということに他ならないからだ。
もっとも、彼のこうした要約に対応することをホッブズが自らの著作の中で直接述べているわけ ではない。おそらくライプニッツは、前述のデカルトとの論争などを踏まえてこうした批判を展 開したものと思われる 。だが、ホッブズが「真理と虚偽は事物ではなく、言葉の属性である」と6 述べていることは事実であり、ライプニッツの批判は全くの勘違いに基づくものでもない 。もし7 人間の用いる名辞のうちにしか真理がないとすれば、伝統的に神が担保してきたような意味での 真理は存在しないことになるのではないか 。 8
本章では、こうした批判について、次の3つ点から検討を加える。第一に、ホッブズにおける名 辞の恣意的な取り決めの意義である。名辞は人間の裁量によって定められたと彼が考えていたこ と自体は事実だ。しかし、その場合に、先にデカルトやライプニッツが危惧していたような問題 は本当に生じてしまうのであろうか。仮に名辞が完全に人間の裁量によって決まるとしても、そ れは直ちに名辞と事物との一切の関係が恣意的であることを意味するものではない。第二に、名 辞と事物を繋ぐものとしてホッブズが想定する偶有性の解釈である。彼によれば、物体に付随す る偶有性こそが様々な名辞の原因になる。ところが、この偶有性をどのように位置付けるかにつ いては解釈者によって様々な見解がある。我々はそれらを踏まえつつ、改めて偶有性の定義を分析 し、それに適切な位置づけを与える必要があるだろう。第三に、以上の名辞と偶有性の検討を踏 まえた真理の位置づけである。ホッブズが真理を言葉の問題としてとらえ直していることは事実 だが、それは必ずしも真理の恣意性を帰結するものではない。少なくとも、あらゆる人間があら ゆることを真理として策定できると彼が考えていたわけではない。
このテクストの概要について、まずは以下を見よ。Aiton 1985, pp. 31-32, 邦訳57-59頁。また、このテクストを含むライ
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プニッツのホッブズ批判と唯名論の関係については清水 2001を見よ。
“[…] ut credam ipsum Occamum non fuisse Nominaliorem, quam nunc est Thomas Hobbes, qui, ut verum fatear, mihi plusquam
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nominalis videtur. Non contentus enim cum Nominalibus universalia ad nomina reducere, ipsam rerum veritatem ait in nominibus consistere, ac, quod majus est, pendere ab arbitrio humano, quia veritas pendeat a definitionibus terminorum, definitiones autem terminorum ab arbitrio humano.” (Leibniz G-IV: 158)
Bolton 1977, p. 245.
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LevL: I-4, OL III: 26, NM: 54-55.
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たとえば、トマス・アクィナスは『真理論』第1問題第2項において次のように述べている。「それゆえに、たとえ人間
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の知性が存在しないとしても、なお諸事物は神の知性との関係において真なるものである」(アクィナス 2018, p. 44)
第1節 名辞
ホッブズは『リヴァイアサン』第4章において、「名辞Nomen」あるいは「名称Appellatio」と その結合による「言葉Sermo」の発明を「最も高貴にして有益な発明」と述べている 。人間は言9 葉によってはじめて自らの思考を記憶し、記憶を想起し、他人と交際することが可能になり、言 葉なしには様々な学問も社会も存在しない。言葉があることによって人間は他の動物と区別され るのである 。ホッブズのこうした記述からは、彼が人間にとっての言語を極めて重要なものと考10 え、さらに言語とは名辞や名称の結合と考えていることが読み取れる。しかし、『リヴァイアサ ン』においてはこの名辞に関する原理的な説明は必ずしも深く掘り下げられているわけではな い。そのため、彼が名辞について包括的な説明を行っている『物体論』第2章を読み解くことから はじめよう。
『物体論』第2章では、哲学のための名辞の必要性から議論がはじまっている。人間の記憶は失 われやすく、思考は移ろいやすい。記憶や思考を呼び起こし、記録することができなければ、複 雑な思考を何度も最初から繰り返さなければならなくなり、哲学をはじめることはできない。そ こで、過去の思考を想起し、思考の流れを記録するために用いられるのが、「目印nota」である。
この目印を手がかりにすることで、我々は過去の思考を心の内に回復することができるようにな る 。ただし、目印はあくまでも思考する当人が自分のために用いるものだけを指す。自らの思考11 を他人に伝達するためには、用いられている目印によって指し示されているものが他人にも共有可 能でなければならない。この共有された目印が「記号signum」であり、これによって人間は他人 に知識を伝達することができる 。目印や記号は、思考の想起や伝達に用いることができれば、ど12 のようなものであっても構わない。特定の文脈においてその役割を果たすことができれば、表現 したい事柄と用いられるものとの間に直接の関係は必要ない。たとえば、畑の境界を示すために 石を使うように、どのような事柄について、どのような目印や記号を使っても構わない。それを定 めるのは人間の「裁量arbitrium」次第だからである。
このような目印や記号の中で、人間の声によって作られたものが名辞である 。名辞は目印と記13 号の役割をどちらも果たすことが出来る。ただし、名辞はあくまでも目印や記号の一種であるた め、どのような名辞が用いられるかはあくまでも人間の裁量に依存する。
ところで、私は様々な名辞が人間の裁量によって生じたことを前提にしたが、このことは簡単な理由に よるので、疑う余地は少しもないと仮定してよいと判断した。というのも、新しい言葉は毎日のように 生まれ、過去のものは亡び、異なる民族は異なる言葉を使い、つまるところ、言葉と事物の間にはいか なる類似性もなければ、両者を比較することもできないからである。こうしたことを見ている人が、事 物の本性が事物そのもの名辞を与えるなどという考えを自らの心に抱くことはあるだろうか。 14
LevL, I-4, OL III: 21, NM: 49. ホッブズの言語に関する基本的な見解は『法の原理』第5章、『人間論』第10章などでも
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共通している。
人間と動物の差異については『市民論』第5章第5節における考察も見よ。
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DCo: II-1. OL 1: 12.
11
DCo: II-2. OL I: 12.
12
DCo: II-3. OL I: 13.
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“Quod autem nomina ab arbitrio hominum orta esse supposuerim, rem minime dubiam brevitatis causa assumi posse judicavi; cui
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enim, qui verba quotidie nova nasci, vetera aboleri, diversa diversis gentibus in usu esse, denique qui inter res et verba neque similitudinem esse neque comparationem ullam institui posse videt, in animum venire potest naturas rerum sibimet ipsis nomina sua praebuisse?” DCo: II-4. OL I: 14.