• 検索結果がありません。

創造と制作

ドキュメント内 トマス・ホッブズにおける神と自然 (ページ 36-53)

 ホッブズはしばしば人間の作為を強調した哲学者であると考えられてきた。政治哲学において は、人間同士が契約によって国家を作るという構図が重視されていることはもはや周知の通りで ある。また、自然哲学においても分解と合成に基づく方法論が注目され、人間の様々な認識をあ る種の制作行為としてとらえる解釈は古くから存在した 。この意味で、ホッブズは人間が様々な1 技術を発展させた初期近代において、人間の作為に注目した哲学者であると言えるだろう。 

 ホッブズにおける作為性は、しばしば彼の世俗性や近代性と結びつけられて理解されてきた。

たとえば、契約論において人間同士の契約を強調したことは、神や自然といった所与の権威や規 範を前提にするのではなく、人間が新たな秩序を自らの手で打ち立てるといった仕方で理解でき るだろう。こうした人間による世俗的な秩序の台頭をホッブズの近代性として理解することはも ちろん可能である 。しかし、契約論という発想そのものは古く、比較的近い時代だけを問題にし2 たとしてもホッブズの独創ではない 。また、より重要なのは作為を単純に世俗性と結びつけて理3 解してしまうと、彼がその作為において神をどのように位置付けているのかが見えにくくなるとい う点だ。前章で見たように、彼はスコラ学やそれを基礎にした教会の権威を激しく批判する。こ うした宗教批判を踏まえると、彼は哲学のあらゆる局面から単純に神を放逐しようとしているよ うに考えてしまうかもしれない。ところが、ホッブズは政治哲学上の主著である『リヴァイアサ ン』と自然哲学上の主著である『物体論』の2つの冒頭部において、聖書における神の創造から話 を始めている。もし彼が単純に作為と世俗性を単純に結びつけているとするならば、なぜ神の創 造に触れられなければならないのであろうか。そこには、神を単純に放逐するのではなく、むし ろ神の概念を自らの哲学体系と合致するように読み替えるホッブズの思考が読み取れるように思 われる。 

 本章では、ホッブズが人間が何らかの物体を作るという意味での制作を強調したことと、神の 創造との関係について、政治哲学と自然哲学の両面から接近を試みる。我々は『リヴァイアサ ン』および『物体論』それぞれの冒頭部において神の創造の模倣というモチーフが存在すること に注目し、そこで彼が神の創造の概念をどのように読み替えているのかを明らかにする。本章で は、まず前半部で『リヴァイアサン』におけるホッブズの神と自然についての議論を、同時代の 彼の批判者の見解と対比することで分析する。その上で、『物体論』における哲学の位置づけと 神の関係について検討する。最終的に、彼が神と人間の間の連続性と断絶をどのようにして確保し ようとしたのかを明らかにする。 

第1節 創造から制作へ 

 ホッブズの『リヴァイアサン』は近代政治哲学における最も重要な書物のひとつである。同書 は自然状態からの契約による世俗的な国家形成を主張し、同時代の聖職者や神学者からは無神論 的な書物として攻撃された。そうした意味では、同書は一見すると、神とは無縁の書物であると すら思えるかもしれない。ところが、そうした点から見ると、同書の序論は意外な言葉ではじ まっている。 

川添 2010, pp. 3-5; カッシーラー 2000, pp. 48-49; Watkins 1973.

1

ホッブズの政治思想の世俗性を強調する解釈としては、鈴木 1994がある。

2

ホッブズ以前の契約説、とりわけスアレスの重要性に触れたものとして、以下を見よ(ヨンパルト 1983, cf.松森 2009, pp.

3

131-135, 206-209)。

 神がそれによって世界を作り、統治している神の技術である自然を、人間の技術は、他の多くのもの ごとと同様に、人工の動物を作ることができるという点においても模倣する。というのも、生命とは手 足の運動に他ならず、その運動の始まりが、身体のある主要な部分の内部にあるのだから、あらゆる自 動機械、あるいは時計そのものがそうであるように、バネと歯車で自ら動くあらゆる機械を人工の生命 と言ってはいけない理由はないのではないか。というのも、心臓とはバネに他ならず、神経とは糸に他な らず、そして関節は歯車に他ならず、[これらは]制作者によって意図されたような運動を全身に与える のではないのか。技術は単に動物を模倣するだけでなく、最も高貴な動物である人間をも模倣する。と いうのも、国家と呼ばれるあの大いなるリヴァイアサンは技術の働きによるのであり、それは人工の人 間なのである。とはいえ、[その人工の人間は](その保護と救済のために考え出された)自然の人間 よりも、大きさについても強さについても、いっそう上回っているのである。そこにおいては、全身に 生命を与えて動かす、最高権力を持つものこそが魂の代わりなのである。政務官と監督官たちは人工の関 節である。最高権力の考量による報酬と懲罰は、それによって構成員を最高[権力]と、各々がなすべ き職務に駆り立てるので神経であり、それが自然の身体においてしているのと同じことをする。各々の 人間の富は力の代わりである。人民の福祉はその務めである。顧問官は、最高権力が知る必要がある 様々な事を提案するので、記憶の代わりである。公平と法律は人工の理性である。和合は健康である。

内紛は病である。内戦は死である。最後に、この政治的な身体の諸部分を結び合わせる契約は、世界を 創造する際のはじめに神が述べた、神の「命令」もしくは「人間を作ろう」というあの言葉を模倣して いる。  4

ここでは神と自然、人間と技術の関係が興味深いアナロジーで語られている。神は自然という技 術によって世界を作り、統治している。人間はこうした神の技術である自然を様々な仕方で模倣す る。国家もまた神が作った自然的人間の模倣であり、人体が様々な器官を持つように、国家もま たそれに対応する様々な機関を持つ 。このような構図は、人間が国家を設立することは認めてい5 るものの、それはあくまでも神の技術である自然の「模倣imitatio」でしかないことを示している のではないか。人間が国家を作りだすときに結ぶ契約すらも、「創世記」において神が述べた「人 間を造ろう」という言葉の模倣であると言われている 。ここでホッブズが述べていることは、世6 俗的な政治哲学どころか、人間のあらゆる技術は神の技術である自然の模倣であり、人間は神が 統治する世界の支配下に置かれていることを示しているのではないか。 

 ところが、先行研究においてこの箇所が問題になる場合、しばしばホッブズにおける作為の台 頭が強調して解釈されてきた 。その背景には、人間と神があたかも対等であるかのように述べら7 れていることや、近代における人間の技術の象徴である自動機械が強調されていることがあると思 われる。たとえば、スキナーはこの箇所を、国家はいかなる意味でも神の創造や自然発生に由来

“Naturam, id est, illam, qua Mundum Deus condidit & gubernat, divinam Artem, eatenus imitatur Ars humama, ut possit inter alia

4

producere artificiale Animal. Cum enim vita nihil aliud sit quam artuum motus, cujus principium est internum in parte aliqua Corporis principali, Quid obstat quo minus dicamus, Automata omnia, sive machinas omnes quae ab Elastris Rotulisque intus dispositis motum habent, ut Horologia in seipsis, habere etiam artificialem vitam? Quid est cor, nisi Elastrum, quid Nervi, nisi chordae, quid articuli, nisi totidem rotulae, motum, qualem voluit artifex, toti corpori impertientes? Neque animal tantum imitatur Ars, sed etiam nobilissimum animalium, Hominem. Magnus ille Leviathan, quae Civitas appellatur, opificium Artis est, & Homo artificialis, quanquam Homine naturali (propter cujus protectionem & salutem excogitatus est) & mole & robore multo major. In quo Is qui summam habet Potestatem, pro Anima est, corpus totum vivificante & movente. Magistratus & Praefecti, artificiales Artus.

Praemia & Poenae summae Potestati appensae, & à quibus Membra ad suum quodque opus perficiendum incitantur, Nervi sunt, qui idem faciunt in corpore naturali. Divitiae singularium hominum sunt pro robore. Salus populi, pro Negotio. Consiliarii per quos ea, quae cognitu necessaria illi sunt, suggeruntur pro Memoria sunt. Aequitas Legesque pro artificiali Ratione. Concordia, sanitas est.

Seditio, Morbus. Bellum civile, Mors. Postremò Pacta quibus partes corporis hujus politici conglutinantur, imitantur divinum illud verbum Fiat, sive Faciamus Hominem, à Deo prolatum in principio cùm crearet Mundum.” Lev: intro., OL: 1, NM: 17.

自然的人間と人工的人間である国家の間の対応関係については以下を見よ(Roux 1981, pp. 110-112)。

5

「神は言われた。『我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地

6

を這うあらゆるものを治めさせよう。』」「創世記」第1章第26節。

代表的な解釈として、Gautier 1969, pp. 1-3; Peters 1956, p. 191; Sorell 1986, p. 20; 岸畑 1974, pp. 177-178などがある。

7

するものでもなく、人間が自らの目的のために作りだした装置であると解釈する 。あるいは、よ8 り進んだものとしては、ここでの人間の手による国家の設立を神や自然の秩序への「対抗」と読 む解釈も存在する 。こうした解釈は、神や自然とは独立に、あるいはむしろそれに対抗する形で9 人間が秩序を制定することを強調している。しかし、もしそうだとすれば、なぜホッブズは国家 の設立を神の「模倣」と位置付けたのであろうか。模倣という言葉の含意には、模倣されるもの は模倣するものよりも先立ち、また優れているということが前提にされているように思われる。

そのため、この箇所を人間の神からの断絶や神への対抗と読みとることはそれ自体として難しい ように思われる。それよりも、ホッブズはここで模倣と述べることで、むしろ何らかの連続性を 確保しようとしたのではないか。 

 ホッブズの近代政治思想史における重要性を念頭に置いてしまうと、上述のような作為を強調 した世俗的な解釈を自明のものとしてしまう。そのため、ここで彼がどのような読み替えを行って いたのかを見極めるためには、むしろ同時代人がこの箇所に見出した違和感が手がかりとなるだ ろう。ここで取り上げたいのは、英語版『リヴァイアサン』出版の2年後、1653年に出版された

『釣り上げられたリヴァイアサン』と題された100頁あまりの小冊子である。アレクサンダー・ロ スという人物によって書かれたこの小冊子は、後に多く出版されるホッブズへの批判書の先駆け である。全体としてロスがホッブズに対して批判的であることは疑いえない。とはいえ、彼は『リ ヴァイアサン』の本文を引用し、分析した上で解釈を述べるという点では、誠実な批判者と言え る。そのため、彼の著述は当時の知識人がホッブズの記述をどのように受けとめたのかを知るた めの重要な手がかりとなる。ロスは『リヴァイアサン』序論の冒頭部について、まずは次のように 述べる。 

 彼[ホッブズ]は序論において、自然を「神がそれによって世界を作り、統治している」と呼んだ。神 が作るまで自然は存在していなかったのだから、神は自然によって世界を作ったのではない。そして、彼 がそれ[自然]を作ったとき、それは創造の範型でもなければ、補助原因でもなかった。世界はそれが 作られるまでは存在しなかったものによっては作られることができなかった。そしてそれ[自然]が作 られたとき、それは事物の形相と質料以外の何ものでもなかった。一方は能動的な、他方は受動的な自 然であり、そして両方が宇宙の諸部分に他ならない。さらに、もし、(我々が彼の言い回しを好意的に 解釈して)彼が自然という語で神の秩序づけられた力を意味しているのであれば、世界はこのように作 られてはいなかった。[というのも]彼はそれを統治するのに秩序づけられた力を用いるが、彼の秩序 を超えた力によってそれを作ったからだ。こうした力は自然的ではなく、奇跡的と呼ばれる。  10

ロスが注目するのは、冒頭の「神がそれによって世界を作り、統治している(the Art whereby  God hath made and governes the World」神の技術としての自然である。彼はここでの「自 然」という語の使い方を問題視する。ホッブズは神が自然によって世界を作ったと述べている。

だが、おそらくロスは「自然nature」を、神によって作られた自然物、およびその集合としての「世 界world」と解している。だとすれば、神が自然によって世界を作るとは、未だ作られていないも

Skinner 1996, p. 387.

8

中村 2017, pp. 66-67.

9

“IN His introduction he calls Nature [The art whereby God hath made and governs the World.] God made not the world by Nature,

10

for Nature had no beeing till God made it; and when he made it, it was neither the exemplary, nor adjuvant cause of the creation; the world could not be made by that which had no beeing till it was made; and when it was made, it was nothing else but the form and matter of things; the one being the active, the other the passive nature, and both but parts of the universe; if again by nature (that we may make a favourable construction of his phrase) he meaneth the ordinary power of God; the world was not made thus: by his or∣dinary power he governs it, but by his extraordi∣nary power he made it, which power is never called natural, but miraculous; ” Ross 1653, pp.1-2.

ドキュメント内 トマス・ホッブズにおける神と自然 (ページ 36-53)

関連したドキュメント