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同箇所。

ドキュメント内 和辻哲郎は構造主義の夢を見るか? (ページ 129-150)

二 113‑

5  同箇所。

ジャック=ラカン

 

『精神分析の四基本概念』

 

岩波書店 2000年 p.251。

 

「間柄」の性質をとらえる三つの枠組み

本論第

2章

4節

か ら第

6節

では

,和

辻の記述を根拠に,「間柄」の性質をとらえる三つ の枠組みを,「相依関係」:「矛盾的統 ^」 。「動的な構造」 と位置付けた。

これ ら二つの枠組みはいずれ も

,フ

ーコーのい う「権力」にも見ることができる。

 

「相依関係」

「主体」を形成 していく人 と人 との関係性は

,主

体一客体の関係性ではない。和辻が,

「主体対主体の関係 として,人と物 との関係か ら区別 され るのである」7とぃ ぅょぅに,「主 体」を形成 していく人 と人 との関係性は,主体―主体の関係性である。和辻は,「これを我々 は意識の志向作用から区別 して 「間柄」と名づけた」8と述べ る。つま り

,主

体一主体の関 係性 こそが,「間柄」の性質の一つ と位置付けた 「相依関係」である。

主体一主体の関係性における「主体」(我れ)は同時に,客体として く汝の汝)でもあ り,

客体である (汝

)は

同時に主体 として 〈我れ

)で

もある。た とえば,「見る」とい うことを 例に しても,「見るのは相手か ら逆に見 られ るとい うことに規定されて見るのである」9。

私たちは主体であると同時に客体 として,「互いに相手に規定されつつ働き合 うのである」

10。 つま り

,主

体でも客体でもあ り得 る (我

(=汝

の汝

))は ,主

体 と客体を行つた り来 た りすることで

,他

の 「主体

Jと

のかかわ り合いをもつ。

主体一主体の関係性が

,主

体 と客体が行つた り来た りす ることによる

,他

の 「主体」 と のかかわ り合いであるとい うことと同様のことを,フーコーは,『言葉 と物』の中で

,ベ

スタスによる絵画『 侍女たち』 (1656)を 分析 して述べている。

『 侍女たち』は,「見るものと見 られるものとがたえずたがいに入れかわる」,「純粋な相 互性か らなつている」。そこには,「主観は直接の明証を持つ ものとしてあらゆる客観より

も確実であり

,客

観はただ媒介せ られてのみ確実になる」11,と 言い現 されるよ うな主体 はいない。そこには,「主体と客体

,鑑

賞者 とモデル とは永遠にその役割を換えつづけてい く」とい うように,主体 と客体が行つた り来た りするとい う関係性によつて形成 される「主 体」がいる:

フーコーは,「見るものと見 られるものとがたえずたがいに入れかわる」ように,「主体 と客体

,鑑

賞者 とモデル とは永遠にその役割 を換えつづけてい く」と述べている。

「間柄」は主体一主体の関係性に基づいた「相依関係」をその本質の一つ としている。

それは

,フ

ーコーにようて示 された例 を用いることでさらに強く裏付けられるのである。

和辻哲郎

 

『 倫理学 (一)』

 

岩波書店 2007年 p.358。

同書 p.105。

 

同書 p.55。

同箇所。

和辻哲郎

 

『人間の学 としての倫理学』 岩波書店 2007年 p.186。

‑ 129 ‑

 

「矛盾的統=」

以下は,フ ーコーの記述にでてくる「権力」の箇所を,「間柄」に置き換えたものである。

,「 間柄」は毛細血管のようなごく細い管で構成 されたきわめて密なネ ットワークで 運ばれるものなので,「間柄」のない場所などあるだろうかとといたくなるものです。

・¨(中)・・。わた したちは誰もが,「間柄」のターゲ ットであるだけでなく,「間柄」

を結ぶ結節点であ り

,こ

こからある種の権力が発揮 されるからです。… (中

)…

わ た したちは,「間柄」が通過する小 さな弁であ り

,小

さな結節点であ り

,微

細な歯車で あ り

,顕

微鏡的なシナプスなのです。 これは 「問柄」そのものによつて維持 されてい るのです12。

個人は,「小 さな結節点」である。「小 さな結節点

Jに

よつて,「毛細血管のようなごく細 い管で構成 されたきわめて密なネ ッ トワーク」

,す

なわち,「間柄」が形成 される。「間柄」

,個

人 と個人の揺れ動 く相互作用のかかわ りの中で

,太

くなつた り細 くなつた り枝分か れ した りする。このことで,「間柄」の「ネ ッ トワーク」がそのつど作 り出される。つま り,

(個人があるから「間柄」がある〉 といえる。同時に

,個

人は,「「間柄」によつて維持 さ れている」。それは,「間柄」は,「個人を類別する日常生活に直接関わ り

,個

人の個別性を 刻印 し

,ア

イデンティティを与え」13る

,と

い うことである。つま り「間柄」は個人を個 人 として成 り立たせる。 このことか ら,(「間柄」があるか ら個人がある〉 といえる。

「権力

Jの

箇所を「問柄」に置き換えると,「間柄

Jの

「矛盾的統一」について述べてい るような記述 となる。 これは,「間柄」 と「権力」が多くの部分で共通するからである。

それ と同時に

,フ

ー コこの記述で 「権力」 と記述 されている箇所を 「間柄」に置き換え て示 したことで,「間柄」と 「権力」の相違点を見いだす こともできた。

 

「動的な構造」

「動的な構造」の「動的」は,「「関係」概念」と「「生成」概念」とい う二つの視点を含 んでいる。「「関係

J概

念」とは,「過去の間柄」を出発点 として,「間柄」が動き行 くため に必要 となる個人 と個人のかかわ りのことである。「「生成」概念」 とは,「間柄」が,「過 去的な間柄に規定されつつ未来的な問柄に動き行 く」とい う,「間柄」そのものの変化のこ

とである.

12  ミシェル=フーコー

 

『 わたしは花火師です

 

フーコーは語る』 2008年

 

筑摩書房

 p.45‑p.

*筆者により「権力」を F間柄」に置き換えた記述を表記した。

13  ミシェル=フーコー

 

「主体と権力」『 ミシェル・フーコー思考集成Ⅸ』筑摩書房 2000年 p.1■

以下の記述は,「権力」が「間柄」と同様「動的な構造」をもつ ことを示すた とえである。

権力の諸関係は可動的なものです。つま り

,そ

れは変わ りうるものであ り

度に 決定的に与えられて しま うようなものではあ りません。た とえば私が年上なので

,は

じめあなたは怖気付いていた とします力礼 会話が進むにつれて関係が逆転 し

,今

度は 私のほ うが

,年

下の人間を前に しているとい うまさにそのことに怖気付いて しま うこ とだつてあるのです。だから

,こ

うした権力 の諸関係は可動的

;可

逆的であり

,不

安 定なものです14。

「私」と「あなた」の関係で,「年上」の 「私」に「あなた」が 「怖気付いて」いるとい う「間柄」を出発点として,「私」と「あなた」のかかわ り合いがなされる。ここに,「「関 係」概念」を見ることができる。

「私」 と「あなた

Jの

かかわ り合いが 「進むにつれて」,「私」が 「あなた」に 「怖気付 いて しま う」 とい う「間柄」そのものの変化が起 こる。 ここに,「「生成」概念」を見るこ

とができる。

このように

,フ

ーコーによるたとえによつて,「問柄」の「「関係」概念」と「「生成」概 念」をよ り明確に見ることができる。

「間柄」の性質をとらえる三うの枠組みである「相依関係」。「矛盾的統一」。「動的な構 造」はいずれも

,フ

ー コーのい う「権力」にみることができる。

 

「多数者の考え方」の相互作用が

,共

同性を培 う

和辻は 「流行」を例に

,共

同性が 「多数者の考え方」の相互作用によつて培われるとい うことを述べている。

流行は

,み

んなが 〈良い)と思つていること

,い

わゆる「共通の好み」を,「己れの好み として感ずる」ことである。それは,「多数者の考え方」によつて 〈良い)と されているこ とで成 り立っている。た とえば

,チ

ェック柄がかわいい

;と

して流行す るのは

,チ

ェック

柄そのものにかわい さが包含 されているのではない。「多数者」がチェック柄 をかわいい と 思 うから,チェック柄がかわいいものとして流行す るのである。つま り,「多数者の考え方 であるとい うその理由で優れたものとせ られ,それに反するものを無価値なものと感ずる」

のである。 このように,「多数者の考え方」が

,共

同性を培 う。

14 ミシェル=フ ーコニ

  

「自由な主体としての自己への酬意J『ミシェル・フーコー思考集成X』 摯 書房2000年 p.233‑p.23七

‑ 131 ‑

ただ し

,こ

の 「多数者の考え方」は

,す

でに一定の考え方をもつている個人が前提 とし てまずあって,そのような個人が多数になるとき生 じるといつたものではない。「多数者の 考え方」は

,人

と人 との力勁ヽわ り合いの 「成果」である。 したがつて,「多数者の考え方」

,特

定の状況の中で突如変転することも起 こり得 る。その例 として

,フ

ーコーが取 り上 げているフランス最初の性犯罪の記録 を参照 した。

「1867年,ラプクール村の農業労務者」15が,「畑の傍で

,少

女にちょつと愛撫 してもら ぅた」16。 このことは

,陥

助ヾすでに何度 もやうたことがあ り

,人

がや るのを見たことがあ り

,事

,彼

のまわ りで村の子 どもたちがいつもしている」17ことでぁった。つま り,「ち ょつと愛撫」 してもらうことは

,そ

れまで村で 日常的に見 られたことであ り

,そ

れを当た り前 とす ることが 「多数者の考え方

Jで

あつた。 しか し

,娘

の親たちは彼の行為 を村長に 告発 した。農村で 日常的に行われてきたことを,性の規範 とい う新 しい観点か ら見るとき,

それは突然

,性

犯罪 として現れ,「集団的不寛容の対象」Bと見なされるようになる。それ まで 日常的な出来事 として正常なもの とされていたことが

,性

犯罪 として異常なものへ と 転換することになつたのはなぜ力、 それは,「多数者」の間の相互作用 の結果である。「ち ょつと愛撫」 してもらうことを

,異

常とみなすような文脈が導入 され

,そ

れが優位性の現 れであると見なされるようになるとき

,そ

れは異常な行為 として扱われることになる。そ して

,異

常 とみなされたものは

,排

除 された り

,正

常なものへ同化 させ られた りす る。 こ のように,ラー コーも和辻 も,「多数者の考え方」の相互作用が

,共

同性を培 う

,つ

ま り物 事の価値 を左右する大きな要素 として機能す るとい う視点をもつていた。

 

言語観

ここでは

,和

辻 とソシュールの共通す る点

,和

辻 とレヴィ

=ス

トロースの共通す る点を それぞれ述べる。

まず

,和

辻 とソシュールの共通する点について述べる。

本論文において,構造主義の代表的な思想家 として,ソシュールを位置付けてはいない。

しか し,「ソシュールは

,構

造主義開開の祖」19とされている。

 

ドッスによると

,グ

レマス

の「ソシュール理論の今 日性」とい う論文の中で,「人類学では レヴィ

=ス

トロース

,文

学 ではバル ト

,精

神分析ではラカンとい うように

,い

たるところでソシュールの名がひきあ いにだされている」20と述べ られているとい う。よつて

,和

辻 とソシュールの共通す る 点を示す こともまた

,本

論文での問いを追求する一助 とな り得 る。

15 ミシェル=フーコー

 

『性の歴史

知への意志』

 

新潮社 1986年  p.41。

16 同箇所。

17 同箇所。

18 同箇所。

::  乙馨ン

rF品

ツス

 

『構書主義の歴史

 

上巻』国文社 1999年

 p.78:

ドキュメント内 和辻哲郎は構造主義の夢を見るか? (ページ 129-150)

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