2[1[理
9 同書 p.228。
10 同書 p.227。
H
同箇所。12 和辻哲郎
『 人間の学 としての倫理学』
13 同書 p.225。
数研出版 2000年
表紙 写丸 岩波書店 2009年 p.225。
岩波書店 2007年 p.207。
‑ 69 ‑
(3)
生け花に隠された「間柄」バル トは,『表徴の帝国』で
,表
現体 (表現 されたもの)の
例 として,庭
園の他に生け花 や俳句についても取 り上げている。そ して,生
け花や俳句にも (人間は,い
る)と
い うことを述べている。つま り
,生
け花 と俳句のいずれの「表現」も,人
と人とのかかわ り合い,すなわち,「間柄」をあらわにするものであると述べている。
バル トは,「空間を生み出すか らこそ
,生
け花は真の表現体なのである」ヱとい う。 この 記述の解釈を通 して,生
け花に く人間は,い
る〉,つ
まり,生
け花に「間柄」が隠 されてい るとい うことを述べる。以下に
,華
道家の西川一草事が生け花について述べた内容を引用する。生け上げられた 自然は有るが儘の自然で無くて
,其
人の思想を通 して見た 自然であ る。選択を経過 し,批
評を通過 し,彫
琢を加へ られた 自然である。是を逆に申す と,自然の中に現はれた人 とい う事にな ります。 自然の中に其人の感 じが溢れ
,魂
が入つた と云つても同 じ事である15。
生け花に
,花
そのものの美 しさや,「有るが儘の自然」の姿だけを見るのではない。生け 花に隠 された,生
け花にかかわった人の 「思想」,「感 じ」,「魂」 とでもい うべき理念を見 るのである。た とえば,Aさ
んが生け花を見た とする。生け花に隠 された人の理念 を見る。それに触発 されて
Aさ
んは,自
分のなかにあ りなが ら気付かなかったものや,忘
れて しま つていたものに気付かされる。つま り,Aさ
んは,自
身の 「思想」,「感 じ」,「魂」 とでも い うべき理念を見いだす こととなる。Aさ
んは,生
け花を媒介 として,生
け花にかかわつた人 とかかわつているのである。これが
,生
け花のなかに (人間は,い
る),つ
ま り,生
け 花に 「間柄」が隠されているとい うことである。ここで
,Aさ
んは,友人のBさん と一緒に生け花を見ていたとす る。Aさ
ん とBさんは,生け花そのものの美 しさであつた り
,生
け花に触発 されてでてきたAさ
んやBさん 自身の 理念にういて語 り合つた りするかもしれない。 これが,バ
ル トのい う「空間を生み出す」とい うことである。このように考えれば
,バ
ル トが,「空間」を,単
なる客観的で空虚な物 質的な場所 としてだけでなく,そ
の場所における人 と人 とのかかわ り合い といつた非物質 的なものをも含んだものとして とらえていることが分かる。ィヾル トの記述から読み取れ る「空間」のもつ意味を踏まえれば,「空間」についての和辻 の記述への理解はより深まる。
ロラン=バルト
ξ議 の帝国』
筑摩書房 1996年 p.228。
西川一草亭
「表現の生花と装飾の生花」『 日本の生花』
大入洲出版 1943年 p.263。
間
,仲
は,机
の間,水
の中とい うごとき静的な空間ではなくして,生
ける動的な問であり
,従
つて自由な創造を意味す るЮ。上の記述は
,次
のよ うに読むことができる。「問
,仲
」,つ
ま り「空間」は,単
なる客観的で空虚な物質的な場所 としての「静的な空 間」のことだけではない。それは,人
と人 とのかかわ り合いによる,「自由な創造」とでも い うべき 「生ける動的な間」である。以上のよ うに
,生
け花には,生
け花にかかわった人の理念が隠 されている。人の理念が 隠 された生け花に,見
る,と
い うかかわ りをもつことは,生
け花を媒介 として人 とかかわ ることに等 しい。 このことか ら,生
け花に 〈人間は,い
る〉 といえる。つま り,生
け花に「間柄」が隠されている。また生け花は
,生
け花を見た人の「間柄」を変化 させ る可能性 をもつている。生け花は,「空間 を生み出すのである」。(4)俳
旬に隠された「間柄」生け花に 〈人間は
,い
る)。 同様に,リト句にも 〈人間は,い
る)。 このことを,バ
ル トの「俳句は何ものにも似ず
,い
つさいに似ている」17とぃ ぅ記述か ら考える。そのために, 具体的に三つの俳句を取 り上げる。春風や煙管 くはえて船頭殿
芭蕉
B
名月や畳の うへに松の影
其角
D
海士が家に干魚の臭ふ暑 さかな
正岡子規20
三つの俳旬には,「船頭の小 さなパイプ
,松
の影,魚
の匂い… (中略)・ それ らは描写 さ れていない」21。 それ らはただ,(船
頭が煙管をくわえている〉 とか,(畳
の上に松の影が 映つている)とか,(暑さの余 り漁師の家のなかは干魚の匂いで満ちている)といつたよう に,「「それはこれだ」,「それはこんなだ」,「それはそれだ」・…(中略)・・。さらには,「それ だ!」 とい うだけである」22。 っま り,バ
ノントが,「わた しとい う読み手に提出されるまま の…いつさいの出来事の姿,こ
れをついにわた しは俳句 とよぶ ことになる」23とぃ ぅょ ぅ に,俳
句は,あ
りのままの「いつさいの出来事の姿」が示 されているだけである。俳句は,16 和辻哲郎
『 人間の学 としての倫理学』
岩波書店 2007年 p.35。
17 ロラン=バル ト
『表徴の帝国』
筑摩書房 1996年 p.130。
18 同書 p.131。
19 同箇所。
20 同書 p,132。
21 :司書 p.133。
22 同書 p.154 23 同箇所。
‑71‑
「意味や教訓で飾 られていない」24。 だから
,俳
句の 「読み手」は,「提出される」あ りの ままの「いっさいの出来事の姿」を,「意味でぬらして」25ぃく。ぅま り,俳
句の「読み手」は
,俳
句か ら人間の自然 とのかかわ りや人間の在 り方を見いだすのである。このことについて
,次
の俳句を例に述べる。古池や蛙飛びこむ水のお と
芭蕉26
この俳句を,「古い沼。蛙が一匹そのなかへ眺ねる。おお
,水
の音よ」27とす ることは俳 句の目指すところではない。俳句は,「表現」された俳句の背後に隠 された,人
間の自然 と のかかわ りや人間の在 り方を見ることを目指 している。「古池や蛙飛びこむ水のお と」は
,た
とえば次のような見方ができる。「蛙」が飛び込んだ 「古池」は
,ず
つと昔から厳然 としてそこにある池である。 ここか ら,「古池」をlB泰然とした閉鎖的な組織 (以下組織
)と
見る。そ して,「古池」に飛び 込んだ「蛙」を人間に見立てる。では,「蛙」はなぜ水の中に飛び込んだのだろう力、 考えられる理由は二つである6
‑つ
は,人
が田んぼの畦道 を歩いてきたので,「蛙」は踏まれないように,逃
げ出すため に水の申に飛び込んだのである:そ
のよ うな『蛙」を人間に置き換 えてみ る。す ると,「汝 なすべ し」28と,ぃゎれ るままに組織の中に自らを埋没 させ る人間の在 り方が見えて くる。もう一つは,肉食動物の「蛙」が獲物を求めて水の中に飛び込む。つま り,狩りである。
狩 りは 100%う まくいくとは限 らない。 しか し
,水
の中に飛び込まないことには獲物は獲 れない。つま り,「蛙」は挑むために水の中に飛び込んだのである。そのよ うな「蛙」を人 間に置き換えてみる。そ うす ると,「われは欲する」29とばか りに組織の中で 自らの可能性 を最大限に発揮 して挑んでいこうとす る人間の在 り方が見えて くる30。「古池」を組織,「蛙」を人間 と見立てたのは
,あ
くまで一つの見方である。ウト句は,づF句の「読み手」による
,あ
りとあ らゆる角度からのあ りとあらゆる見方が可能である。つ ま り,俳
句は,「意味でぬらして」いくものである。勢 昌曇 ン
丁チ]亀卜 陶聯解冽罐勤 骨
摩書房 1996年 p二
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筑鞣 論 ‐λ
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嵩 薔 「 嘉 『ツ ア ラ、ストラはこう言つた
(十)』岩 警 書 店
196千年
p.3■Ю る 。
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(。執は間 の
俳句は
,あ
りのままの「いつさいの出来事の姿」である。その点で俳句は,「いっさいに 似ている」。また,俳
句はあ りのままの「いつさいの出来事の姿」から人間の自然 とのかか わ りや人間の在 り方 を見いだす ことができる点で,「何ものにも似ずJな
のである。以上の ことが,「俳句は何 ものにも似ず,い
つさいに似ている」の意味である。俳句が,「何ものにも似ず」 ものであるか らこそ
,俳
句にも 〈人間は,い
る)の
である。(5)
芸術 とはここまで,(「表現」が
,日
に見えない 「間柄」を把捉す る)と
い うことの意味を,バ
ルトの視点を踏まえ庭園
,生
け花,俳
句 といつた芸術を例に して具体的に述べてきた。 ここ で,そ
もそも芸術 とは何かについて考えてみる。「諸技術 (芸術
)は ,種
々な自然の模倣なのである」鋭は,ス
トア派のマル クス=ア
ウ レー リウスの言葉である。ス トア派は,自
然は理性によつて成 り立ってお り,自然の中に 生きる人間 もまた理性をもつていることから,人間は自然の一部であると考える。よつて,「諸技術 (芸術
)は ,種
々な自然の模倣なのである」は,「芸術は,自然や 自然の一部であ る人間の模倣なのである」 と言い直す ことができる。人間の自然 とのかかわ りや人間の在 り方を具体化 したものが芸術である。つま り,芸
術 とは, 日常を当た り前のように何気な く過ごしていたら気付 くことのできない,人
間の自然 とのかかわ りや人間の在 り方を,私
たちの前にあらわに してくれるものである。
(6)
「表現Jは
「人間の日常経験」にあふれている私たちは芸術に対 し
,人
間の自然 とのかかわ りや人間の在 り方を見いだす もの,と
い う 視点をもつている。芸術に対す るそのよ うな視点と同様の視点をもつて,私
たちの身の回りのあ りとあらゆるものを見渡 してみる。す ると
,私
たちの身の回 りのあ りとあらゆるも のも:芸
術のよ うに人間の自然 とのかかわ りや人間の在 り方を,つ
ま り「間柄」を「表現」したものであるとい うことが見えてくる。
「問柄」が客観化されている『表現」は
,な
にも庭目や生け花ラ俳句といつた高い芸術 性 をもつ ものに限 らない。和辻は,「表現」は 「外に出た我々自身である」32とぃ ぅ。「外 に出た我々自身」とは具体的に,「道具はもとより,身
ぶ り,言
葉,動
作,作
品,社
会的制 度」33などのあ りとあらゆる現象のことである。現象は常に人 と人 との間に置かれ
,何
らかの意味において間柄的存在を表現する。我れの意識にのみ内在す るものとなることはできぬ。萩ぶ り
,動
作:言
葉,家 ,村
,31 マルクス=アウレー リウス
神谷美恵子
訳
『 自省録』
岩波書店 1956年 p.214。
*引 用文中の (芸術)は筆者による。
芸術という言葉について,「芸術 [英・仏]art[独]Kunst artの語源であるラテン語の arsは ギ リシア語のtechn6と同義」(『哲学事典』平凡社1971年p.403。)とある。また,ギリシア語のtechn6 についても「学問 。芸術 。技術等をすべて含めた広い意味で用いられる」(古川晴風編『 ギリシャ語辞 典』大学書林1989年p.1087。)とある。
これらのことから,ギリシア語では芸術と技術が同義であることが分かる。よつて
,賭
技術 (芸術) :ま,種々な自然の模倣なのである1の F諸技術」を芸術に置き換えて読むことは可能である。32 和辻哲郎
『人間の学としての倫理学』 岩波書店 2007年 p.225。
33 同箇所。
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