なお、会報は創刊号から9号までは B4サイズ、
10 号から 93 号までは A4サイズ、『ココナッツ 通信』創刊以後は B5サイズになっている。
以下、特に重要と思われる点をいくつか紹介し ておきたい。
会報創刊号は、設立の経緯や会名についてなど が書かれており興味深い。創刊号には「上座も下 座もなく、司会の交通整理も最小限にとどめて、
自由に話のやりとりができる例会がいいのかもし れません」と書かれており、現在に通じる会の基 本的性格がすでに示されている。なお、会報下部 に午前の問い合わせ先として山田さんの住所、電 話番号が掲載されているのは、山田さんが定時制 高校の英語科教員であり、出勤が午後からであっ たためである。
会報2号では、当時すでに「この集まりの目的 は何ですか」という問いかけがあったことが書か れている。「『進級、進学を控えて、月日はどんど ん経っていく。月一回の大人数の集まりでは、時 期を失して、個別的な問題の解決は望めない』と いう意見も出されました。そうかも知れません。
でも、その一方で、何をもって解決したと言うの
収録資料について
田中 佑弥
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だろう、という疑問も起こります」という記述も ある。「不登校のその後」が後に問われることに なるが、すでにその論点を先取りする重要な指摘 がなされている。
会報 10 号の第2面では、「不登校の『原因』と 子どもの『心理』」について書かれている。これ も長年にわたって論じられている重要なテーマで あり、一読を薦めたい。第1面に書かれている下 記の指摘も非常に重要である。「『登校刺激をあた えない』ということが、子どもをいずれ登校させ るためのテクニックと考えられているとしたら、
これほど子どもをバカにした話はありません」。
毎号の『ココナッツ通信』の表紙には「学校の 開放 学校からの解放 子と親の快方」と書かれ ている。「学校に行かない子と親の会(大阪)」の 方向性を明確に示している表現である。
「学校に行かない子と親の会(大阪)」の事務所 は「ココナッツハウス」と呼ばれているが、この 由来は『ココナッツ通信』創刊号 15 頁で、つぎ のように説明されている。「初代ココナッツハウ ス所在地『林寺町』にちなみ『はやしじ』→『や し』から『椰子=ココナッツ』。それにハウス(家)
をつけた」。事務所移転後の現在も「ココナッツ ハウス」という愛称は用いられており、先述の通 り会報は 94 号から『ココナッツ通信』に改名さ れた。
近年の『ココナッツ通信』は、基本的には以 下のような構成になっている。表紙、会員の投 稿、山田さんの連載記事、「情報コーナー」(催し 案内)、「フリースクール・フォロ⑴からのメッセー ジ」、「定例会だより」(前月の定例会で話し合わ れたことの概要)、編集後記、「ココナッツカレン ダー」(今後の予定)である。表紙を除いて全9 頁である。
ココナッツカレンダーが掲載されている最終 ページには毎号、下記の言葉が掲載されている。
「不登校は子どもの成長のひとつの姿です。学校 にかぎらず、『社会』への適応についても、各人 各様の姿があっていいはずです。学校に行かない・
行けない子どもたち、『社会』との距離のとりか たを考えつづけている若者たちと、わたしたちは 肩を並べて歩みます。子どもの世界を広げるため に、親の世界を豊かにするために」。
山田さんの『ココナッツ通信』連載記事は、
2016 年 11 月号を除く全号に掲載されている⑵。 以前に拙著(田中佑弥編『辺野古の海をまもる 人たち――大阪の米軍基地反対行動』東方出版、
2009 年)で、論文よりも成型されていない語り を好むということを書いたが、それは今も変わっ ていない。読むのは大変だが、直截に思考の試行 が提示されている文章は、成型によって削ぎ落と されてしまう何かを含み持っているように思う。
1991 年の設立以来、山田さんが毎月、文章を 書き継ぎ、さらには他媒体への寄稿を多くなされ ていることには驚嘆を禁じえない。大変な執筆作 業であったと推察するが、問題意識を共有する人 びとに手にしてもらえる媒体で連載し続けること は書き手として稀有な経験であっただろう。
連載のテーマは多岐にわたり、膨大な量である ため、筆者はまだ読み込めてはいないが、教育と 社会について考えるにあたり参照すべき重要な指 摘が多くなされている。未収録資料も含め、今後 も読み進めていきたい。
⑴フリースクール・フォロ(大阪市中央区)は、フリースクール・東京シューレの元スタッフを中心メンバーとして 2001 年に開設され た。「学校に行かない子と親の会(大阪)」の会員が立ち上げに協力しており、現在もつながりがある。
⑵山田潤さんの連載記事は 2016 年 11 月号は休載で、同号には本資料集所収の 25 周年記念集会のアンケート記述や、永田仁美さんの記 念集会に参加しての感想が掲載された。
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新年、おめでとうございます。
いっしょに新年を迎えるはずだった人がもうそ ばにいないという会員にも、この通信は届きます。
おめでたいかどうかはともあれ、わたしたちは、
こうして新しい年を迎えました。この一年も、ど うぞよろしくお願い申しあげます。
大阪の会の通信は、この3月に通算200号とな り、大阪の会の月例会は、この5月に第200回を 迎えます。1991年7月から17年間を経て、この 丸い数字にたどりつきます。そのあたりまではま ずなんとかなりそうですが、それ以降、この会が いつまで今の状態で続けられるか、会の財政がい よいよ逼迫してきました。もう少し具体的に言え ば、事務所の家賃負担が最大の支出項目ですから、
いままでどおり「ハウス」を維持することがむず かしくなっている、ということです。
例年通り、新年1月の定例会に合わせて会の「拡 大世話人会」を開きます。会計報告を受けて、会 の存続をどんなふうに図っていくか、知恵を出し 合いたいと思います。関心のある方はぜひお集ま りください。
さて、この2月に満60歳になるわたしは、こ の3月末日をもって定年退職することになりま す。わたしが教員になったのは、1977年、29歳 のときですから、教員生活は31年間。そのうちの、
現在に至る17年間、「親の会」にかかわることで、
わたしは学校を外から見る視点を得ることができ ました。それは、わたしにとってはたいへんあり がたいめぐりあわせでしたが、その同じ期間に、
教員にとっての「学校」という職場はどんどんと 居心地の悪いものに変わってきています。かり に、この3月で定年退職とならず、まだこのさき 4、5年も勤務がつづくと考えると、「もうかん にんっ!」と叫びたくなるわたしがいます。事実、
「この時期に定年退職を迎えることができる山田 さんたちはものすごくラッキーですよ」と、多く
の同僚が言います。
といっても、それは40代後半以降の同僚にかぎ られるように思います。つまり、教職員組合がま だしも職場で発言力をもち、子どもの利益の守護 者として保守政権の教育施策に立ち向かうという 構図(主観的な思い込みにすぎなかったとしても)
のなかで、ある種の自負に支えられながら、学校 という職場の「主人公」でありえた時代を経験し ている教員たちにかぎられるのかもしれません。
すかさず、「学校の主人公は子どもじゃない の?」とツッコミが入りそうです。「子どもの権 利条約」の国連での採択が1989年、日本が批准 したのは1994年でした。1996年の大阪集会から 2000年の金沢集会にかけて、日教組が主催する
「教育研究全国集会」は、「不登校へのとりくみ」
を大きな柱として立て、特別分科会を設けたりも します。しかし、やがて、もっぱら教員主体で「不 登校をなくすとりくみ」を考えることのおかしさ が指摘されるようになり、「不登校をしている当 事者である子ども自身の声にまず耳を傾けよう」
ということになります。こうした機運の背景に「子 ども権利条約」があることはまちがいありません。
わたしは、2000年の金沢集会のおりに、大阪 の所属教組から参加組合員証を発行してもらいま したが(日教組の「教研集会」には、毎年右翼の 妨害活動があり、機動隊の警護のもとで開かれま す。そういうモメゴトを嫌って、会場を貸し渋る 自治体もあとをたちません。これはたいへん嘆か わしいことなのですが、しかたのない年中行事の ように見過ごされています)、会場の内外では終 始、金沢の「居場所」に集う子どもたちや、「親 の会」の大人たちと行動をともにさせてもらいま した。「親の会」の全国ネットワークや「不登校 新聞」を通じて、この時期のわたしにそういうつ ながりがあったということは、くりかえし、あり がたいことでした。