本章では、南チロル の農村女性をめぐる歴史的・社会的背景を整理し、ルーラル ツーリズムの発展過程を明らかにする。前半では、第二次世界大戦後に自治県 とし て認められた後に農業の強化がなされるとともに、担い手としての女性の社会的地 位向上が図られてきた経緯を 整理し、後半では、農業における採算の低下を背景に ルーラルツーリズムを補完産業として導入し発展させてきた経緯を 整理する。これ により南チロルのルーラルツーリズムがどのような過程を経て現在のような発展に 至り、その背景で農村女性はどのような環境に置かれていたのかを示す。
1 南チロルの概要
南チロルの概要は、第1章でも簡単に触れたが、地域の歴史や産業を述べる前提 となるので、一部の内容を再掲する。 南チロルのイタリアの正式な名称はボルツァ ーノ自治県である。2016 年現在、南チロルは県人口が 524,256人、基礎自治体のコ ムーネ数が118の自治県である(Autonome Provinz Bozen Südtirol,2017)。イタリ アの行政区域は、州(Resione)、県(Provincia)、コムーネ(Comune)という階層 になっている。コムーネというのは日本では市区町村にあたるが、市区町村のよう に規模別の区分けはない。中世から存続するコムーネもあり、自治の中心と なって いる(中山,2014)。南チロルにある 118 のコムーネは図 2-1の通りだが、人口が 10 万人を超えるボルツァーノのような大都市も、人口 200 人以下の自治体も存在 し、これらはすべてコムーネと呼ばれている。本 研究では便宜上、人口規模の大き い上位 3つのコムーネであるボルツァーノ 、メラーノ、ブレッサノネを「市」と呼 び、その他の地域を「村」と呼ぶことがあるので注記しておく。イタリアには 20の 州があり、15の普通州と5の自治州に分かれるが、ボルツァーノ自治県は トレンテ ィーノ=アルト・アディジェ州に 属している。
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図 2-1 南 チ ロ ル 全 域 と コ ム ー ネ の 分 布 状 況
( Autonome Provinz Bozen Südtirol(2018) よ り 作 成 ) ( 注 )3大 都 市 を 淡 色 、 イ ン タ ビ ュ ー 調 査 対 象 地 を 濃 色 で 塗 色
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トレンティーノ=アルト・アディジェ州は2つの自治県のみから成立し、1つがト レント自治県、1つがこのボルツァーノ自治県である。トレンティーノ=アルト・ア ディジェ州は2つの自治県のみから成るため、州議会は県別に組織され運営されて いる。自治州や自治県には一定分野における独自の立法権があり、地域で徴収され る国税のうち高い割合の配分を受け取ることができるため、ボルツァーノ自治県で はこの配分率は 9割とされ、高い自治権が確立していると言える。
ボ ル ツ ァ ー ノ 自 治 県 は 第 一 次 世 界 大 戦 以 前 ま で オ ー ス ト リ ア 領 の チ ロ ル 州 に 属 した歴史からドイツ語系住民が多く住む。2011年現在、南チロルの使用言語はドイ
ツ語 62.3%、イタリア語 23.4%、ラディン語 4.1%となっている(Autonome Provinz
Bozen Südtirol,2017)。ドイツ語系住民の多さから、標識と看板、地図はドイツ語と
イタリア語の併記となっている。ボルツァーノという地名はイタリア領になってか らの新しいもので、イタリア割譲後から現在に至るまで、県内住民の多くはこの地 域を南チロル(ドイツ語でアルト・アディジェ[Alto Adige])と呼ぶのが一般的であ る。こうした経緯から、 本研究ではボルツァーノ自治県を南チロルと称 している。
南チロルの人口は、1936年以降から増加傾向にあるが、なかでも中心市であるボ ルツァーノ、メラーノ、ブレッサノネといった都市人口が増加したことが大きい。
1936 年から 2017 年にかけての人口は、ボルツァーノの 2.4 倍に対し、3 都市を除 くその他の地域の人口は 1.7倍に留まっている(図 2-2)。1919 年にイタリア領とな った南チロルは、ムッソリーニ政権下で強いイタリア同化政策が行われ、反発する ドイツ語住民がオーストリアやドイツなど に移住する時期があったが、第二次世界 大戦後にこの移住者達が南チロルに戻ったとされる(山川・鈴木,2010)。またその 後のボルツァーノのような都市の拡大、国境沿いでドイツ語が通じるという利便性 から隣接国企業との経済活動も活発化し、南チロルの人口は拡大していった。現在 はボルツァーノのような都市化した地域にはイタリア語住民が、そうではない農村 部にはドイツ語住民と少数民族のラディン語住民が居住する傾向にある。
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図 2-2 南チロルの人口の推移(1869-2017年)
( Autonome Provinz Bozen Südtirol 2017、ASTAT 2018よ り 著 者 作 成 )
( 注 ) 人 口 増 減 指 数 は 1869年 を 100と す る
南チロルの言語構成は、ドイツ語が62.3%、イタリア語が 23.4%であるほか に、ラディン語が4.1%、その他言語が 10.1%となっている(2011年時点、表 2-1)。ラディン語系住民は 、古くから南チロルの一部の山間の地域に居住する少数 民族であり、その他言語の住民は東欧 、アフリカ、中東諸国などからの移民であ る。第二次世界大戦後、ドイツ語系住民の割合は60-65%という一定の割合で存在 しているが、イタリア語系住民は 1961年の 34.3%をピークに 2011年では 23.4%
に減少し、代わりにその他言語の住民 、つまり移民が増えている傾向にある。
0 100 200 300 400 500 600 700 800
1 8 6 9 1 8 8 0 1 8 9 0 1 9 0 0 1 9 1 0 1 9 2 1 1 9 3 1 1 9 3 6 1 9 5 1 1 9 6 1 1 9 7 1 1 9 8 1 1 9 9 1 2 0 0 1 2 0 1 1 2 0 1 7 人
口増 減指 数
年 総人口
ボルツァーノ メラーノ ブレッサノネ その他
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人口6000 以上, 13
人口5000 以上6000 未満, 8
人口 4000以 上5000 未満, 4 人口3000 以上4000 未満, 22 人口2000
以上3000 未満, 21 人口1000
以上2000 未満, 31
人口1000 未満, 17
表 2-1 南チロルにおける言語別人口構成の推移(1880-2011年)
年 ド イ ツ 語 (%) イ タ リ ア 語 (%) ラ デ ィ ン 語 (%) そ の 他 (%)
1880 90.6 3.4 4.3 1.7
1890 89.0 4.5 4.3 2.3
1900 88.8 4.0 4.0 3.2
1910 89.0 2.9 3.8 4.3
1921 75.9 10.6 3.9 9.6
1961 62.2 34.3 3.4 0.1
1971 62.9 33.0 3.7 0.1
1981 64.9 28.7 4.0 2.2
1991 65.3 26.5 4.2 4.0
2001 64.0 24.5 4.0 7.4
2011 62.3 23.4 4.1 10.3
(Autonome Provinz Bozen Südtirol(2017) よ り 著 者 作 成 )
南チロルのコムーネの規模であるが、人口が1,000人以上 4,000人未満のコムー ネが 74存在し、コムーネ総数の 63%を占めている(図 2-3)。人口が 6,000人以上 のコムーネは13しかなく、ほとんどが人口規模の小さいコムーネとなっている。
人口規模の小さいコムーネのうち、ドイツ語系住民の多い地域では農業が 盛んな傾 向がある。ドイツ語系住民が多いということは、それだけ古くからこの地域に居住 する住民が多いということを意味している。
図 2-3 南チロルの人口規模別コムーネ数比率(2016年)
( Autonome Provinz Bozen Südtirol(2017) よ り 著 者 作 成 )
50 2 南チロルの歴史と農業
2-1 南チロルの歴史
南 チ ロ ル は ド イ ツ 語 系 住 民 が 多 数 派 を 占 め る と い う イ タ リ ア で も 特 殊 な 地 域 で あり、その複雑な歴史は表 2-2に示した通りである。南チロルは14世紀から 19世 紀にかけてチロル地域のハプスブルク家によって支配され、ドイツ語系住民による 生活と文化が継承されてきた (Evans & Rizzi,1978)。1861年にイタリアが統一さ れると南チロルへの干渉を強め「未回収のイタリア」として認識されるようになっ た。第一次世界大戦時に、当初中立の立場であったイタリアは、「未回収地」である 南チロルのオーストリアからの割譲を条件に協商国側について参戦し、休戦協定後 の1919 年には南チロルはイタリアに割譲された。1922年、ムッソリーニ政権にな ると、南チロルではイタリア同化政策が行われ、ドイ ツ語系住民に対しイタリア言 語、教育、地名の使用が強要された。南チロルに工場を設立し南部から移住を促進 するムッソリーニに対し、カトリ ック教会は「カタコンベ学校」9の運営によりドイ ツ語とドイツ語系文化の維持を図ろうとした。この時期には南チロル祖国戦線が結 成され、ドイツ民族主義を強調するヒトラー政権に傾倒したが、ヒトラーは南チロ ルを正式にイタリア領と認めたため、南チロル住民の希望は打ち砕かれた。
第二次世界大戦のさなか、1939 年から 3 年以内に南チロルのドイツ語系住民を ドイツ帝国へ移住させる協定が提携されると、住民はドイツ 、オーストリア、イタ リアのいずれかに居住する選択を迫られた。イタリア外 に流出したのは選択権を持 つ住民の3割程度で、流出者の多くは工場従事者や観光業 、接客業などの従事者で あり、農業従事者は 9%程度に留まったとされる(山川・鈴木,2010)。この理由は、
農業従事者は土地を離れると農業を継続することができないため、その地に留まる しかなかったことが挙げられる。しかしながら 1943 年にイタリアが連合国軍に降 伏すると南チロルは一時的にドイツ支配下 に置かれ、この時期にはかつて流出して いた住民の多くが南チロルに戻ったとされる。
9 カ タ コ ン ベ 学 校 は ロ ー マ 帝 国 時 代 の 弾 圧 下 の キ リ ス ト 教 会 に な ら い 、 教 会 地 下 に 作 ら れ た 学 校 の こ と を 指 す ( 山 川 ・ 鈴 木 ,2010)。
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表2-2 南チロル歴史略年表
年 内 容 社 会 的 背 景
1363 チ ロ ル 地 域 の ハ プ ス ブ ル ク 家 に よ る 支 配 が 始 ま る ハ プ ス ブ ル
ク 家 か ら イ タ リ ア 王 国 1861 イ タ リ ア 王 国 に よ る イ タ リ ア 統 一
南 チ ロ ル は イ タ リ ア に お け る 「 未 回 収 の イ タ リ ア 」 と 認 識 さ れ る
1915 イ タ リ ア が 南 チ ロ ル の 割 譲 を 条 件 に 第1次 世 界 大 戦 参 戦 第 一 次 世 界 1919 サ ン ジ ェ ル マ ン 条 約 に よ り 南 チ ロ ル が イ タ リ ア 領 と な る 大 戦
1922 ム ッ ソ リ ー ニ 政 権 に よ る 支 配 、 ド イ ツ 語 系 住 民 へ の 同 化 政 策 を 実 施 ム ッ ソ リ ー ニ 政 権 の 統 治
1930 南 チ ロ ル 祖 国 戦 線 結 成 、 ド イ ツ の ナ チ ス へ の 傾 倒 が 進 む 1934 ド イ ツ の ヒ ト ラ ー 政 権 が 南 チ ロ ル を イ タ リ ア 領 と 認 め る
1939 南 チ ロ ル の ド イ ツ 語 系 住 民 の ド イ ツ 帝 国 へ 移 住 さ せ る 協 定 が 締 結 住 民 は ド イ ツ 、 オ ー ス ト リ ア 、 イ タ リ ア の 居 住 の 選 択 を 迫 ら れ る
第 二 次 世 界 大 戦 1943 イ タ リ ア が 連 合 国 軍 に 降 伏 、 一 時 的 に 南 チ ロ ル は ド イ ツ 領 と な る
多 く の 移 住 者 が 南 チ ロ ル へ 戻 っ た と さ れ る
ド イ ツ 政 府 の 統 治 1945 ド イ ツ が 連 合 国 軍 に 降 伏 、 オ ー ス ト リ ア 臨 時 政 府 可 で チ ロ ル 州 が 復 活
南 チ ロ ル で オ ー ス ト リ ア 復 帰 を 望 む 活 動 が 活 発 化
オ ー ス ト リ ア 臨 時 政 府 の 統 治 1946 オ ー ス ト リ ア の チ ロ ル 州 復 活 が パ リ 講 和 会 議 で 連 合 国 軍 か ら 拒 否
1947 ド イ ツ 語 系 住 民 の 保 護 と 自 治 権 に 関 す る 協 定 が 、 イ タ リ ア と オ ー ス ト
リ ア 間 で 締 結 、 協 定 文 書 の 不 履 行 に 住 民 が 反 発 し 紛 争 化 イ タ リ ア 政 府 の 統 治 1960 イ タ リ ア 政 府 は 南 チ ロ ル 問 題 を 国 連 へ 持 ち 込 む
1967 国 連 に よ る ド イ ツ 語 系 住 民 の 保 護 へ 向 け た 「 一 括 提 案 」 の 承 認
1972 南 チ ロ ル に お け る 自 治 法 が 施 行 さ れ る 自 治 州 と 自
治 県 の 制 定 1992 「 一 括 提 案 」 の イ タ リ ア の 実 践 を 受 け 、 国 連 が 紛 争 の 終 結 を 宣 言
1993 EU設 立 ( イ タ リ ア は1957年 時 点 で 母 体 の EECに 加 盟 ) 欧 州 統 合 の 動 き 1995 オ ー ス ト リ ア EU 加 盟 に よ り 、 チ ロ ル 州 、 ト レ ン ト 自 治 県 と 南 チ ロ ル
の3地 域 で 雇 用 、 環 境 保 護 、 教 育 な の 協 力 計 画 が 策 定 さ れ る
2000 イ タ リ ア 自 治 法 改 正 、 県 の 権 限 が 強 化 さ れ る 、 言 語 小 集 団 と し て の ド イ ツ 語 系 住 民 、 ラ デ ィ ン 語 系 住 民 が 承 認 さ れ る
( 山 川 ・ 鈴 木 (2010)、 増 谷 ・ 古 田 (2011) よ り 著 者 作 成 )