章序
本章の課題は、前章に続いて、シュミットの映画検閲論のうちテクストBの分析にある。
既述の通り、テクストBはいずれもWRV末期の1933年に公表されたものであるが、後 述するように、又、膨大な文献が明らかにするように、当時のドイツの国内情勢は、社会 諸勢力の対立が組織化された実力による衝突という形で現出する混乱した状況にあり(こ の内戦に等しい状況が 1932 年 7 月のプロイセン政府罷免の機縁にもなる)、議会は 1932 年7月及び11月の選挙の結果としてNSDAP・KPDという反体制政党が過半数の議席を占 め、議事そのものは殆ど為され得ない状況となっており、大統領による緊急命令が代わっ て法的規律の要を担っていた133。
テクストB は、斯様な国内情勢の中で書かれたシュミットの著作の一環を成すことにな る。テクストA と同じく、カテゴリとしては公法学の論文として位置付け得るテクストB を分析するに際しては、主たる道具立ては前章で提示した言説のうちで揃っているかにも 見える(意見表明の自由の釈義と基本権論に於ける位置付け、市民的法治国の理念、その 基軸としての自由主義・「討論」の観念、「政治的なもの」の概念、等)。
併し、テクスト B の表現だけに着目しても、論調に微妙な変化が見られることは、既に
133 該時期のドイツの政治過程に関する詳細な叙述と分析を提供する文献として、平島,
1991,108頁以下、Mommsen,2009,S.432ff.等。第二章では論題との関係で取り上げ得なか
った第5選挙期の終了以降の状況は、これらの文献に基づき次のように略述し得る。1932 年7月20日のプロイセン政府罷免(Preussenschlag)を挟んだ7月31日の選挙結果は、
NSDAPが前回の約2倍の得票率で第一党に躍進し、SPD、KPDがそれに続くというもの
で、NSDAPとKPDが併せて過半数の議席を占めていた。当時は大統領の緊急命令が立法
府の機能をも担う「大統領政府」の時期にあり、第5選挙期末期に首相に就いたv.Papen
はBrüning以上に超党派性を意識して議会・政党の意見を軽視し(尤もブルジョア右派と
の結びつきは強かったとされる)、それどころか利益団体の関係も希薄で、大統領と国防軍 にその権威を求めていた。併し上記選挙を承けて9月12日に召集された第6選挙期ライヒ 議会は、冒頭のKPDによる不信任決議案と緊急命令破棄の動議、及びその可決(此処では
NSDAPも賛成票を投じている)により即日に解散せられてしまう。続く11月6日の選挙
では、NSDAPが得票率を減らしながらも第一党の地位を維持し、SPD、KPDがこれに続
き、かつNSDAPとKPDが併せて過半数を占める状況も同じであった。然もv.Papen内閣
じたいが各党派からの支持を殆ど得られない事態が判明するに及んで退陣し、12月2日に はそれまで内閣の形成等に非公式の場で参与してきた国防軍関係者のv.Schleicherが首相 となる。同内閣の政治路線は、v.Papen内閣の如き根本的な方策を有さず、寧ろ議会や利益 団体との妥協が一定程度推進された。併しそれでもユンカー層をはじめとする諸勢力の支 持を得られず、同時に(ユンカーと利害を共にしていた)大統領Hindenburgの信任も失 うこととなる。Hindenburgは次の内閣形成を模索することになるが、此処でv.Papenから 非公式に為された、Hugenberg等を併せて役職に就かせることによりHitlerの行動を掣肘 し得るとの助言を契機として、1933年1月31日のHitlerの首相指名へと事態は推移する ことになる。なおこの間、1932年3月に二度目の大統領選挙が行われ、HitlerとHindenburg の決選投票の末に後者が勝利し再選を果たしている。
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指摘した通りである(第一章第二節)。具体的には、テクストAではその力点が意見表明の 自由とその理念との不整合を指摘するところにあったのに対して、テクストB の力点は、
国家が存立するための必須の措置として映画検閲が位置付けられており、映画検閲の必要 性を積極的に主張するに至っている(勿論テクストA の末部も同旨の記述は見られるが、
比重が大きく異なっている)。この表現の変化が議論のありかたの変化を伴っているのか、
もしそうだとすれば如何なる思考が背後に控えているのか、その思考はテクスト A を支え ていたものと如何に異なるのか、を探究することも、以下での問題となる。
加えて、VL以降の著作は、国内法に関する著作に限定したとしても、それまでの時期に 於ける著作とは論調の変化した部分や、新規に登場した議論が存在する。前者の例として は1932年版のBPの1927年版からの変化、後者の例としては1930年代にいくつもの著 作に登場する「全体国家」の概念、が挙げられる。又、1932年公刊のLLや、やや異質な 著作ではあるが(第三節補論を参照)1930年の講演録HPに見られるように、それまでの 冷淡で距離を取った態度から、WRVを擁護する姿勢を見せ始めるのも、この時期である。
本章では、以上の如き変化を踏まえて、特にVL以降のシュミットの著作を手掛かりとし ながら、第一章で指摘した諸点の検討を行いつつ、テクストBの分析を行う。具体的には、
先ず初めに、テクストB が自身の含まれる著作の中で占める位置と、その著作じたいが含 有する問題関心と、検討すべき論点とを明らかにし(第一節)、これを承けて、諸著作に登 場する「全体国家」の観念を、1933年の2論文が提示する二つの側面、即ち批判されるべ きドイツの現状を指示する側面(第二節)と、それに対して維持・回復されるべき国家像 を指示する側面(第三節)から、検討する。該検討から、テクストB の背後に控えている シュミットの国家観とそれに基づく現状認識のありようが概要明らかとなるはずである。
更に、同じく VL 以降の著作で前景化する「技術(Technik)」の観念との関係で、プレス の自由・意見表明の自由が蒙った意味の変化を検討し、更に前記の国家像との関係の明確 化を試み(第四節)、これらの検討を綜合して、テクストBに於ける映画検閲を背後で支え た理路を明らかにする(小括)。
第一節 テクストBの位置づけ
先ず、テクストBの各々がその属する論文の中で有する位置、意義に関して概観する。
既述の通り、両者の含まれる論文は1933年というWRV体制の末期に公表されたもので あり、該時点までに蓄積されたシュミットの憲法論・国家論のエッセンス、就中、20 年代 末から深刻化した内政上の混乱に対するシュミットの危機感と対応策、が随所に反映され ている。
第一款 「ドイツにおける全体国家の発展」
テクスト B/αが含まれる論文「ドイツにおける全体国家の発展」(以下、WE)は、雑誌
145
Europäische Revue,1933年2月号65頁以下に公表されたものである134。
同論文の目的は、先立つ約10年にわたって「脱政治化」という標語のもとに様々な問題 の「純粋に技術的、法律的、経済的観点からの」「ザハリヒな」解決を企図してきた傾向に 対して、「全ての問題が潜在的に政治的問題であるという認識」を強調しつつ、ドイツの「現 実の状態」を考察するものである。【ER,S.65;VA,S.359】
シュミットは、続けて、「全体国家というものが存在する」と述べる。この用語に対する 否定的な諸見解にも拘らず「事態そのものは消去し得ない」。「あらゆる国家はその政治的 支配の為に用いる所の権力手段(Machtmittel)を我が物にしようとする」。しかもその行 動は「現実の国家の確かな徴表でさえある」。技術、特に軍事技術の発展に伴って「あらゆ る政治的勢力は、新たな武器を手中に収めることを強いられ」、「その力も気概も無いとす れ ば 、 他 の 力 や 組 織 が 登 場 し て 、 今 度 は そ れ が 政 治 的 権 力 、 即 ち 国 家 と な る 。」
【ER,S.6;VA,S.360】
この技術の発展には、意見表明の手段に関するそれも含まれる。「プレスや他の従来の意 見形成の手段がもたらし得るよりも包括的であり得るような大衆感化の可能性、否、必然 性が生じる。」プレスの自由に関してはなお広範な自由が確保されており、諸々の緊急命令 にも拘らず、プレスによる「意見表明」、「現実には政党の煽動(Parteiagitation)や宣伝 による大衆への働きかけ(propagandistischen Massenbearbeitung)」の余地は広大であり、
検閲の導入も検討されていない。これに対して「映画及び放送」という「新たな技術的手 段」は「あらゆる国家が手中に収めねばならない。」「自由主義的な国家で、映画部門や放 送に関して少なくとも強度の検閲や統制を要求しないものは存在しない。いかなる国家も、
この新たな報道(Nachrichtenübermittlung)、大衆感化(Massenbeeinflussung)、大衆示 唆(Massensuggestion)、及び「公的な」正確には:集団的な(kollektiv)意見の形成の 手段を敢えて他者に委ねるようなことは出来ない。」【ER,S.66;VA,S.360】
映画や放送の問題を含めて、新たな技術的手段をその手中に収め、他の諸集団に引き渡 さない国家は「質とエネルギーという意味で全体的」と特徴づけられ、「新たな権力手段が 専ら国家に属し」、「内部に於いては国家に敵対的で・国家の弱体化をもたらし、あるいは 国家を分裂させるような諸力を繁栄させることはない」、「自由主義」や「法治国」といっ たスローガンの下に自身を「弱体化させるようなことは考えない」、「友と敵とを区別し得
134 同論文の執筆から公表までの間にHitlerが首相に就任したと考えられる。後にVA,S.365 でシュミットは、「Schleicher内閣の罷免と、1933年1月30日のHitlerの首相への指名 とによって、論文の目的は失われてしまった。併し、弱さによる全体的な、多元的な公共 体(Gemeinwesen)に関する叙述の意義にはなお意義が存する。政党や様々な種類の利益 団体による圧力の下で、国家は、量的に全体的となり、人間の共同生活のあらゆる領域に 介入することを強いられた。国家は、客観的理性の領域たることを止めてしまった。特に 選挙は、公然たる内戦の中で闘争する極端な権力組織(Machtorganisation)の間での選択 となってしまった。」と述べている。特に引用第一文からは、少なくとも同論文がナチスの 政権掌握に抗する意図に基づいて書かれたというシュミットの自己理解を読み取ることが 可能である。