本章からは、前章で概観した映画検閲をめぐる議論の概況を前提として、第一章で設定 した課題に関する考究を行う。第一章に於いて提示したテクストのうち、Aに相当する部分、
即ち1928年刊行『憲法論』の論述、が此処での分析対象である。
具体的には、第一章第二節で抽出された個別の問題を踏まえ、先ずシュミットが明示的 に前提とする「意見」概念の確定と比較検討を行い(第一節)、次に彼の基本権の中で意見 表明の自由が有する位置(第二節)、更にその基本権論が位置付けられる所の市民的法治国 家論、就中その基本原理とされる「討論」の概念に関する検討を行い(第三節)、テクスト Aの終盤に登場する「政治的なもの」がこの段階で有する意味に就いて検討を行った後(第 四節)、以て映画検閲論が(単なる「基本権各論」の問題としてではなく)市民的法治国論・
自由主義論との関係で有する位置・連関を析出する(小括)。
第一節 「意見」の概念
検閲禁止及びその例外を含有する WRV第 118 条は、自由に「意見」を表明する権利を 保障するのであったが、シュミットはテクスト A に於いて、映画検閲が許容されるいわば 法文上の根拠として、そもそも映画が「意見」の表明に該当しない旨を指摘している(こ の主張を正面から受け止めるならば、映画に対して検閲を行うことも、意見表明の自由に 対する制約の問題とはならないであろう)。
既述のように(第一章第二節)、シュミットはKarl Rothenbücherの見解に依拠しつつ、
「意見」の文言を「公表された根本的な種類の態度決定」と理解するのであるが、この概 念規定が同時代の、及びそれに影響を及ぼしている前時代の概念規定との関係で如何に位 置づけられるか、が第一の問題である。
尤も、WRV第118条第2項第1文に映画検閲を許容する旨が書かれている以上、「意見」
の文言にまで遡って法文上の理由付けを行う必要は存在せず、従って該文言に関する検討 を行う必要も無いかに見える。併し、検閲禁止が意見表明の自由と密接に関連していると すれば、或る表現形態が「意見」の表明とされないことは検閲を許容する論拠となり得る。
そこで以下では、WRV第118条、及びそれに先行する第二帝政期の各憲法に於ける意見 表明の自由に関する主な釈義を概観し、シュミットの「意見」概念の位置を測定する。
第一款 第二帝政期
第二帝政期の学説で「意見」に関する釈義を与える文献としては、Anschützの『プロイ セン国憲法典』第1巻(1912年)を挙げられる。
同書は、第 27条第1項(「全てのプロイセン人は、言葉、文書、印刷物および図像によ る描写によってその意見を自由に表明する権利を有する。」)に含まれる「意見」という文 言に関して、次のような釈義を与える。
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「「意見」とは、それがいかなる形式で為されるかは関係なしに「表現(Äusserung)」がそ こから発するところの思想の表現である。それゆえ、たしかにそこで言葉が話されたり、
あるいは歌われたり、あるいは図像による描写が製作されるとしても、しかし話者等がそ の思想を表現しようとするのでないものは、「意見表明」ではない。それは表現ではあるが、
意見表明ではない。ここには、娯楽を目的とするあらゆる種類の興行(Aufführung)や見 世物(Schaustellung)が、それに高次の芸術的利益が存在するか否かとは関係なしに、属 する。劇場での上演、コンサート、朗読、映画の上映を「意見表明」の活動としようとす るならば、それは語の慣用にも反するであろう[…]。それゆえ、その種の上演(Darbietung)
に対して公の安全・倫理および秩序を保護するために介入する警察の権限、とくにいわゆ る劇場検閲は、第27条によっては触れられていない。」【S.502】
1912 年の出版である事からして、Anschütz は当時既に存在していた映画及び映画検閲 を想定して執筆していると考えられるが、以上の箇所では映画(の上映)が第27条で保障 された意見の表明に該当しないとされる。ここで該当性を否定する鍵となるのは「思想」
の概念であり、その具体的な内容は敷衍されていないものの、娯楽を目的とする諸々の表 現物がこの概念規定に基づいて排除されている。
また第2項で規定されている検閲禁止に就いても、「ただ歴史的意味の検閲、プレス検閲
(印刷物検閲)だけが「検閲」のもとに理解すべきであ」り、「劇場警察」は検閲禁止と関 係がないとされる【S.502】。明示的に言及されていないが、如上の第 1 項の釈義と併せ考 えれば、映画検閲も「歴史的意味の検閲」ではないものとして許容されることになろう。
なお、AnschützはWRV期にも『1919年8月11日のドイツライヒ憲法』を刊行してい るが(1921年;1933年に第14版刊行)、此方ではその最終版まで、「意見」概念に関する釈 義は示されていない。
第二款 WRV期 1)Giese
Gieseは1921年のコンメンタール『1919年8月11日のドイツライヒ憲法』の中で、「表
現する者自身の思想が主張されねばならない」と述べる。そして「「意見」の表明」に属さ ないものの実例として、「コンサート、朗読、演劇の上演」が挙げられる。【S.278】
此処では、映画に直接の言及こそ無いものの、「思想」という要件に加えて、その思想を 有する主体と表現する主体との一致が求められている点が注目に値する。
2)Heller
Hellerは、前章でも取り上げた1924年の論文「基本権と基本義務」に於いて、意見表明
の自由を「官憲(教会・国家)の許可なしに自らの思想を公表する自由」と規定する。ま た検閲の禁止に関しては、「劇場に対しても、その俳優が何らかの自分自身の見解を表明し なければ、検閲は行われない。」しかし、「あらゆる意見の表明に何らの制約もなくなると、
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まさに政治的および道徳的に過渡期の時代には、きわめて危険である。特に厚顔な営利心 が脆弱で卑しい本能を専ら当て込んでいるような場合には、そうである。憲法は映画の検 閲 や 低 俗 作 品 の 撲 滅 に 憲 法 上 の 基 礎 を 与 え 、 こ う し た 認 識 を 考 慮 し て い る 。」
【GSII,1971,S.294f.】
つまり此処でも意見表明の自由は「思想」の概念を指標としており、「自分自身の見解」
であることを要件とする口吻を見せる点でGieseにも通じる。尤も、前款のAnschützとは 異なり、映画検閲が「政治的及び道徳的に過渡期」であるという社会情勢及び低俗作品の 横行という現実に鑑みて容認されていることは、前章で見た通りである。
3)Rothenbücher
以上のような簡素な論述に対して、より立ち入った言及が行われるのが、「意見表明の自 由」を論題とする1927年の第4回国法学者大会のRothenbücher及びSmendの報告であ る。
先ずRothenbücherによれば、意見表明の自由の基礎づけをめぐって、第一に、「この自
由が個人のためにではなく、何か客観的なもの・真実のために、人権としてではなく、社 会の構成のための原理として要請されて」おり、意見表明として考えられるのは「根本的 な種類の意見、神・世界・国家・社会に関する何らかの見解だけである」という理解と【S.1194】、 第二に、「自由に意見や感情を表明することを許されることは、生得で不可譲の・国家の許 可から独立の・万人の・全ての人間それ自体としての権利」であり、「個人の外に存在する 更なる客観的価値のために」保障されるのではなく、「それが重要ではなかろうとも、何ら かの精神的本質(Wesen)の表明に及ぶ」という理解【S.13f.】が対立している、と整理さ れる。
こうした対立が生じる原因は、「他の意見をそれが真実でない・倫理的でないから・それ が危険だから抑制してよいという見解が、ますます成長しているからだけではな」く、「歴 史的な状況は決して持続せず、絶えず変化するものである」ために、「法思想は新しい状況 に対して常に新たに態度を取り、従来の法思想がそれに対して主張しうるか否か、できる とすればどの程度かを明らかにせねばならない」からでもある【S.14】。
具体的には、第一に、「技術的な発明」の登場によって常に新たな問題が生じること、が 指摘される。「自由な意見表明の権利という思想は、専ら、プレスに存する可能性という観 点から編成され、限界づけられており、多くの場合はプレスの自由と本質的に連関してさ えいる。」しかし、「劇場が排他的に教会や宮廷の施設であることを止め、資本主義的な企 業となるや否や、劇場検閲の問題が生じた。」同様に、「精神的内容の伝達の新たな可能性 としての映画および放送部門は、我々に新たに態度を決することを求めており」、その「予 見し得ない可能性」に照らせばこの「権利の行使をどの程度限界づけるよう強いられてい るのか」はいまだ明らかではない【S.14】。
94 以下、Rothenbücher 及びSmendに関しては、VVDStRL4の頁数のみを記載する。