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健康・美容関連行動 の変遷

第4章 の内容と構成

1. 健康・美容関連行動 の変遷

(1)疾病治療1

1)古代・中世

病気は恨みを抱いた鬼神が原因であり、伝染病は王の政治の誤りによって 、五行に異 常が起きて流行すると信じられていた。そのため、疾病の治療に巫医の祈り、僧侶の祈 祷、医術が用いられた。巫医による治療方法は、祭(祭礼)を行って霊魂をなだめるこ と で あ っ た 。 僧 侶 の 場 合 は 、 藥 師 經 を 読 経 す る こ と が 治 療 方 法 で あ っ た 。 新 羅 (BC57

~935)、高句麗(BC37~668)、百済(BC18~660)は相互交流があったため、疾病治 療方法において影響を及ぼし合っていた。『三國史記』には、高句麗の 2 代目の王であ る瑠璃明王(?~18)の病気を巫医が治療したとの記録が残っている2。恨みをもつ鬼神 が病気の原因であり、巫医がその霊魂をなだめることで治療を行った という。また、巫 医のみならず、4 世紀に佛教が伝来することによって、王室では僧侶による治療も頻繁 に行われた。『三國遺事』には、新羅の 19代目の王である訥祗王(?~458)の公主が病 気になった時、僧侶が公主の疾病を治療した記録が 残されている(図 4-2)。

「(訥祗王)三年の時、成國公主が病気になったが、巫医の効験がないので、人を四方 に行かせ医者を探しまわした。法師(我道)が突然宮殿に入り、その病気を治療した。

王は大いに喜び、念願を聞いた所、彼曰く、貧道は所望がないが、ただ天鏡林に佛寺を 創建し、佛敎を大いに興し、邦家の福を祈ることを願うと言うので、王は承諾 した。…」

『三國遺事』, 3巻, 興法第 3, 阿道基羅

1 疾 病 治 療 に お い て 、 そ の 行 動 の 変 化 様 相 を 古 代 ・ 中 世 、 近 世 、 近 代 に 区 分 し 、 時 代 別 に 考 察 す る 。 古 代 ・ 中 世 は 、 新 羅 (BC57~935) 、 高 句 麗 (BC37~668) 、 百 済 (BC18~660) の 三 国 時 代 の 古 代 と 、 高 麗 (918~1392) の 中 世 を 意 味 す る 。 古 代 と 中 世 は 類 似 す る と こ ろ が 多 く 、 大 き な 変 化 が み ら れ な い た め 、 一 緒 に 考 察 す る こ と に す る 。 古 代 は 三 国 の 中 で 、 後 に 三 国 を 統 一 し た 新 羅 を 中 心 と す る 。 高 句 麗 と 百 済 も 伝 統 医 療 を も っ て お り 、 医 書 を 編 纂 さ れ た と い わ れ て い る が 、 現 在 当 時 の 史 料 が ほ と ん ど 残 さ れ て い な い 。 高 句 麗 と 百 済 は 676年 新 羅 に よ っ て 統 一 さ れ 、 そ の 文 化 や 様 式 が 新 羅 と し て 受 け 継 が れ る よ う に な っ た た め 、 最 も 史 料 が 多 く 残 さ れ て い る 新 羅 の 歴 史 の 中 で そ の 文 化 や 様 式 を 予 測 す る こ と が で き る 。 し た が っ て 、 古 代 に お け る 考 察 は 、 新 羅 を 中 心 と し て 行 う こ と に す る 。 古 代 は『 三 國 史 記 』と『 三 国 遺 事 』を 、 中 世 は『 高 麗 史 』を 、 近 世 は『 朝 鮮 王 朝 実 録 』を 中 心 と し て 考 察 す る 。 近 代 は 、 先 行 研 究 や 関 連 資 料 を も と に 考 察 を 行 う 。

2「…十 九 年, 秋 八 月, 郊 豕 逸, 王 使 託 利•斯 卑 追 之, 至 長 屋 澤 中 得 之, 以 刀 斷 其 脚 筋. 王 聞 之 怒 曰: “祭 天 之 牲, 豈 可 傷 也?” 遂 投 二 人 坑 中 殺 之. 九 月, 王 疾 病, 巫 曰: “託 利•斯 卑 爲 崇.” 王 使 謝 之, 卽 愈.…」<

『 三 國 史 記 』, 13巻, 高 句 麗 本 記 第 1, 瑠 璃 明 王 19年>

図4-2 『三國遺事』3巻(部分)

この史料によると、巫医の治療に効能がなかったため他の治療方法を探し て、佛教の 法師が公主の病気を治療したと書かれている。前述した『三國史記』第 13 巻の記録内 容と、『三國遺事』第 3 巻の記録内容の時期をみると、巫医による治療が行われたのは 僧侶による治療が行われた時よりも約 400年先のことである。時代の流れによって 、巫 医から僧侶による治療に移り変わっていたことがわかる。少なくとも王室では、 巫医に 対する信頼が落ち、新しい治療方法が求められていた。6 世紀には、新羅で佛教が公認 されることで、僧医が本格的に活動するようになる。巫医と僧医の根本的な治療方法に それほど違いはなかったため、代替されやすいものであった。医療活動の中心役割を果 たしていた巫医による治療に僧医による治療が加わるようになると、次第に僧医の役割 が大きくなっていった。佛教の布教に際して僧侶の医術は重要な役割を果たしており、

その治療能力が重宝された。このような背景から、 自然に医術の中心は巫医から僧医に 移行し、より効験のある僧医 の医術が求められるようになった3

3 「 善 德 王 德 曼, 遘 疾 彌 留, 有 興 輪 寺 僧 法 惕, 應 詔 侍 疾, 久 而 無 效. 時 有 密 本 法 師, 以 德行聞 於 國, 右 請 代 之, 王 詔 迎 入內. 本 在 宸 仗 外, 讀 藥 師 經, 卷 軸 纔 周, 所 持 六 環, 飛 入 寢內, 刺 一老狐 與 法 惕, 擲 庭 下, 王 疾 乃 瘳.…」 < 三 國 遺 事 』, 5巻, 神 呪 6, 密 本 摧 邪 >

… 三 年. 時, 成 國 公 主 疾, 巫 醫 不 効, 勅 使 四 方 求 醫, 師 率 然 赴 闕, 其 疾 遂 理. 王 大 悅, 問 其 所 須, 對 曰, 貧 道 百 無 所 求, 但 願 創 佛 寺 於 天 鏡 林, 大 興 佛 敎, 奉 福 邦 家 爾. 王 許 之,…

(『 三 國 遺 事

』, 3

巻, 興 法 第3, 阿 道 基 羅

しかしながら、民間では巫医の権威が残り続けており、彼らによる治療が行われてい た。僧医の数が限られていたこともあって、僧医の医術は民間まで広く普及しなかった。

巫医と僧医によって、主に祈祷や呪符など よる治療が行われ、簡単な薬物も用いられた。

巫医は霊山で薬草を採取して不死薬として用い、邪気を払った。巫医や僧医が用いたこ のような薬物は徐々に民間へと広まり 、新羅の薬物学の基礎となった (イ, 2002)。

新羅(BC57~935)における初の医療関係機構は、薬師である(6世紀中盤)。百済(BC18

~660) にも 採 薬 師がお り 、 薬 草が 用 い られて い た 。 薬師 、 薬 部、薬 典 な ど とい っ た 医 療機構の名称中に「薬」という文字が含まれているように、本草学が重視されていた。

中国の場合は、南北朝時代(439~589)の医療関係機構である太 医署に採薬師はおらず、

呪禁師という医官が所属していた。その後の隋・唐(581~907)の時代からは、薬園師 が登場している。薬師部署の設置は新羅の方が早く、414 年に新羅の金武が日本の允恭 天皇の病気を治療したという記録が日本書紀に残っている。その治療方法が薬方による ものであったことから、この時期にすでに中国の医療が韓国に伝わり、発展していたこ とが推測できる(ザン, 2000)。

672年には、三国を統一するための羅唐戦争(670~676)が発生した。その時、新羅 の文武王(626~681)は、唐に牛黃 120個と鍼400個を送った4。また、新羅は唐では 入手しにくい人参や牛黃などといった薬剤を輸出していた。 戦争時、負傷した唐の兵に 新羅の医術が用いられたことによって、唐は新羅の医術に注目するようになり、その優 秀性が中国に知られるようになった。彼らは新羅で容易に入手可能な 薬草を主に使用す ることで、医療を発達させた。医学が比較的発達していた新羅では、三国統一後の 692 年に医学教育機関である「医学」が設立された。医学は、薬典の中でみられた 医師の養 成体制を拡大・改変し、そこでは医生と鍼生という 2 つの専攻が存在していた。当時、

唐と日本では、医生と鍼生のほかに按摩生と呪禁生があっ た。按摩は道家の影響を受け たところが多く、人の身体を揉むことによって疾病を予防・治療していた。呪禁は、呪 文を唱えて病を治療するものであった。新羅では按摩師と呪禁師は存在せず 、体系化さ れた医療機関が活躍していた。新羅には「学医」という、医学知識を有しながらも職業 としない知識人が相当数存在していた(キム, 1998)。新羅の金武や祿眞は、「学医」と

4「 … 兼 進 貢 銀 三 萬 三 千 五 百 分, 銅 三 萬 三 千 分, 針 四 百 枚, 牛 黃 百 二 十 分, 金 百 二 十 分, 四 十 升 布六匹, 三 十 升 布六十 匹. 是歲, ꜘ貴 人 飢.」 < 三 國 史 記 』7巻, 新 羅 本 紀 7, 文 武 王12年 >

して医学を研究し、当時の最高水準の医術を備えていた人物である5。このような医療機 関は王族や貴族においては広がっていたものの、民間では以前と同様に巫医や僧医が中 心となって医療の役割を担っていた(イ, 2002)。僧侶の寺刹医療は、本来は僧侶自身の 健康を維持するためのものであったものの、衆生救済のためにも役立っていた。僧医は、

医 療 施 術 や 疾 病 管 理 に 役 立 つ 生 活 態 度 、 佛 教 の 教 理 な ど を 民 衆 に 教 え て い た ( パ ク, 2012)。

中世の高麗(918~1392)では、中 国や日本 な どといった海 外の医療 人との交流がも たれており、医学書が海外からもたら されるなど、薬剤貿易が活発に行われた。しかし ながら、1170 年の宋の徐兢の記録には、「高麗人は病気になった時、薬を飲まずにひた すら鬼神に仕えるのみである」 と記されており、民間では呪術が 広く用いられていた。

高麗中期になると、インド医学やアラビア医学などが 伝来するとともに、高麗でも独自 の医学の確立に向けて、濟衆立效方、御醫撮要方、東人經驗方、三和子鄕藥方、鄕藥惠 民經驗方などといった医学書が活発に編纂された。特に 1236 年に編纂された鄕藥救急 方は最も有名な医学書であり、朝鮮半島の薬草とその効能について記されている点が特 徴である。これらの高麗医書は 、民間に医学を普及するためのものであ って、理論的側 面よりも治療医学としての臨床的側面が強調されてい る(ヤン, 2000)。

高麗の医療機関は、太醫監と尙藥局から構成されていた。太醫監は主に官僚と民間に 対する治療、薬品製造、医学教育などを、尙藥局は宮殿の御薬を担当していた。唐の太 医署が太常寺所属であるのに対して、高麗の医療機関は独立した機関であった。高麗は 一般庶民の間へ医療を普及させるために様々な面で貢献していた6。もちろん、巫医や僧 医も依然として存在していたものの、彼らは薬草などといった実質的に効能がある治療 方法を開発し普及させることに力を注いでいた。963 年には、貧民の疾病治療のために 濟危寶が設置され、東西大悲院と惠民局が運営されており、当時としては画期的な取り 組みであった。王は常に疾病治療に関心をもち、庶民が薬剤を購入しやすいように配慮 していた(イ 2007; キ ム 1998)。

このように、古代では巫による呪術的治療や僧侶による藥師經の読経が民間医療の中 心となっていたが、中世では巫医や僧医とともに、多様な医学書が編纂されたり薬店が

5 < 『 三 國 遺 事 』45, 列 傳 5, 祿 眞 > に 多 数 の 記 録 が 残 さ れ て い る 。

6「 忠 肅 王 十 二 年 敎 曰 惠 民 局 濟 危 寶 東 西 大 悲 院 本 爲 濟 人 今 皆 廢 圮 宜 復 修 營 醫 治 疾 病.…」<『 高 麗 史 』, 77巻, 諸 司 都 監 各 色 >

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