貞 禅
誠
p.~ 月 昨 戒 干 舟 世
道
ー 湛忍慧力
泉谷西寿寺住
7 2
貞 照 院 の 法 脈 (﹃ 青 風捕名月﹄から転載) 寺として中山の貞照院と双壁をなした︒その
昌光律寺の
明治二十年代の住職に深見志運がいる
︒明治の我が浄土
宗の教育体制︑宗学本校及び七支校ができたのであるが︑ である︒
その深見志運が愛知支校の設立準備委員長であ
った
︒現在の東海学園のスタートである︒椎尾緋匡のこ の頃の思い出が
﹃東海
学
園 百 年 史
﹂に書
かれている
︒
名古屋に愛知支校ができる
︒
それは明治
二十一年のこと﹁
桑門秀我先
生﹂の項に
﹂の方(秀我︑筆者注)明治二十年に建った東京の
本校の普通科五年と二年の専門科をやって卒業するな
り︑こちらの学校(東海中学)へ来られた先生で︑東
慈海先生と共に入って来られました︒当時の大部分の 生徒は︑余程偉い先生が天下って来られたように考え たものです︒この愛知支校が校長はじめ戒律主義のね
ずみ時代でありますから︑早速この先生も﹁ねずみ﹂
にな
っちまって︑皆から相当信頼を受けたのです︒
下略
とある︒緋匡流にいうと浄土律の僧侶は﹁ねずみ﹂
であ
る︒それは衣が鼠色であることからこの名称ができたの であろう︒﹁浄土律のねずみ衣捨世の茶衣﹂は現在で もその伝統は守られている︒東海中学の草創期の教員は 深見を始めこの﹁ねずみ﹂が多かった︒つまり質素を生
活規範とする徳厳の流れである︒三河における浄土律の
貞
昭⁝
院や
岡崎
の
昌光律寺の流れは愛知支校という教育機
関で花が咲いたといっ
て過
言ではない︒百十年後の東海
学園も﹁勤倹誠実﹂を校訓として多くの卒業生が巣立 っているがこの校訓は徳厳以来の精神の継承であろう
と思う︒誠道も改良服のしたは常にねずみの白衣であっ たという︒
それはそれとして誠道は﹁貞照院歴代上人略伝﹂をも
のしている︒
掲載先は
﹃碧南史料研究
﹄
(第
七輯
︑ 昭 和 二十九年六月)である︒初代から十七代までを概述して
いる
︒その最後に﹁筆者のことば﹂として左の文が掲げ
られている︒
本書は碧南市史料研究会長山中泰造翁が史料研究の
73
一部としてい奥照院由来歴代等の取調べを要求せられ先
住太田戒舟和尚から懇切に余に依頼されたので︑図ら
ずも此文の成果を得た︒余は幼少の時から貞照院に関 係あり︑何とかしてその大体を取調べたいと思いつつ 今まで機会を得なかっ
たが
今度幸いにしてその志を
果たした訳である︒甚だ不完全ではあるが︑曲がりな りにもこれだけ出来たことは幸いである︒士吉
岡 山
Vいの
ままを記す︒石橋誠道清浄華院にて とある︒労作であるので
ここ
に
全文を紹介したいが
紙
幅の都合上︑筆者の主観で概要を掲げる︒その執筆態度 は誠道の育った寺への愛着と浄土律への傾倒でなかった か︑と思う
︒また︑あえて
ここに誠道の歴代事践を紹介 する因由もそこにある
︒
O
第一世開山玄誉上人万無大和尚 万無は伊勢の国︑津の人︒慶長十二年三六
O
七)
誕生で︑寛永四年(一六二七)二十一歳で津の天然寺真 誉について出家
し︑後に東都の増上
寺において修学︒万 治二年(一六五九)
に武蔵国岩付の浄国寺の住職となり 次いで飯沼の弘経寺︑新田の大光院
鎌倉の光明寺に歴 住して︑後に京都知恩院に菅山した︒和尚
一の勝地を
得て御寺を造りたいと思い︑弟子忍徴に謀られた
︒忍徴
は︑洛東鹿ケ谷は最も適当な地であることを進言し
宝
九 年 ( 一六八こ
この
地に
一寺を創建して︑長口気山法
然院万無教寺と名付け︑
万無を開山第一世とした︒とこ
ろが
和尚
は︑
此
の寺が未だ落成しない前に病に催り︑
後この寺の落成を聞いて︑大いに喜び︑
その年の六月二
十五日知恩院で寂した︒時に七十五歳︒万無は一度も貞
照院へは行かなかったが︑
忍徴の師であり又法然院の開
山であ
ったから︑貞照院の開
山第
一世
とし
た︒
O第二世
中興宣誉上人忍徴大和尚
忍徴の父は二
見恒貞と称し︑曾ては尾張侯義直に重ん ぜられ︑後に武蔵国江戸に移住して
二女
を挙
げ︑
正 保
グ〉
年 (
一六四五)正月八日忍徴が誕生
︒
ところがその年の
二
月十日不幸にして母は病の為に死し︑間もなく父も病
に権り
五月十七日に死んだ︒ハえはまさに死なんとする 時 ︑
二
人の娘を枕元に呼ぴ
‑74 ‑
﹁この子は不幸にして父母
を知らない可哀想な子であるが︑此の子が成長したなら ば︑誰か有徳の人に頼んで︑立派な僧となる様に︑父の
泣言
として伝えて呉れ︒﹂と懇ろに忍徴のことを頼んで 延
命終した︒
その後忍徴が丁度九歳になった時︑姉らは父
の遺言を伝え︑
涙とともに事細かに
言
聞かせた︒忍徴は
父の遺言
に随って僧となり高僧として評判の高か
った増
主
上寺の法誉直侍の弟子となり
十一
歳で剃髪し︑侍貞と
いう名を与えられた︒
万 治 二 年 (
一六
五九)十五歳の時︑不幸にして直停は
没す︒直停が重態の時︑
その親友の万無に書を送って
﹁若し余がこの世を去ったならば
どうか停貞の後見と
して立派に育て冶項きたい﹂と頼んだ︒これより先︑万
無は台命を票けて︑岩付の浄国寺に晋山したので︑忍徴
は浄国寺に往き司和尚に随時して薫育を得たいと願った
が︑﹁増上寺は教学の最も盛んな所で実に関東第一であ
る︒若し今去って此の地の来れば︑美玉を捨て冶瓦礁を
掴むと同じである︒暫く彼の地に留って大に勉強するが
よい
︒
﹂と戒めたので
忍徴は再び増上
寺に還り︑林間
会下で勉学した︒次で幡随院の知聞に従って研学し︑群
鶏の一鶴として
誉古
向 か
った︒
寛 文 七 年
(一六六七)二十三歳の時︑僧官の事に就い
て親友の雲臥と共に︑京都に往く機会を得た︒共に模尾
山に登り︑律苑の正整なるを見て心に深く之を慕い︑
戒念仏したいと思った︒
その
後︑
雲臥と共に江戸に帰り︑
四ツ谷の法蔵寺の後継を頼まれたが辞退した︒その後の
江戸の大火で決然として志を立て︑修行の旅に赴かんと
し て
その名を忍徴︑字を信阿と改めた︒そして先づ相 州江ノ島の緋才天︑江州木の下の地蔵菩薩︑京都の知恩
院︑清水寺︑祇園嗣などを巡拝した︒
寛 文 九 年
八幡の正法寺へ(一六六九)二十五歳の時
往った︒この寺の住職廓道は︑万無の学友で最も親しい
間柄であった︒しかしてその寺に逗留して内外の典籍を
研究すること約一
年 ︑
﹂の寺には実に沢山の書籍が蔵し
であった︒寛文十一
年 (
一 六
七一)二十七歳の時︑模尾
に往って律苑の衆に入り︑持戒念仰を望んだが︑模尾は
真言宗であるので念仰を称えることは許されなかった︒
75 ‑
泉州の律苑神鳳寺に至って快闘律師に商謁し︑前の如く
に懇願されたが︑これ又槙尾と同様に念偽することは許
きれなかった︒そこで止むなく三年間八幡の正法寺に寓
居して︑静かに持戒念偽した︒付近の人々その道風に感
持
化されて︑出家を求める者が多かった︒
寛文十二
年 (
一六七二)二十八歳の時︑泉州堺の阿弥
陀寺の含栄の請に応じて︑暫くの閉その寺に滞留した︒
延宝三
年 (
一六
七五)三十一歳の時︑万無は台命を菓け
て知恩院に晋山した︒その後︑万無が摂泉二国の末寺を
巡回した際
忍徴の智行兼備は余もまた及ばないと誉め られたから︑信者の人々が益々忍徴を尊敬した︒阿弥陀 寺に滞留すること五年をへて泉吾孫子の浄福寺に遁れた︒
浄福寺の慧順は︑忍徴の幽穣修道の志の深いのに感激し
て︑別に一軒を建て冶特請した︒忍徴は心身共に安静で
更らに塵務の煩いなく︑思いのま︑に修道できることを 喜び︑自ら誓って八斎戒を受け︑別時念仏の八誓を立
ても念悌した︒その後自ら誓って菩薩戒を受け︑神鳳寺
の快固律師の誼明を得た︒
延 宝 五 年
(一
六
七七)三十
歳の時︑泉州堺に法行という尼僧がいて
一寺
を建
て︑
上人を請待した︒依っ
て上人は万無と相談して︑厳重な 規律を設けてこの寺を法行寺と名づけ
不断斎戒念仰の
道場とした︒
延 宝 七 年 (
一六
七九)三十五歳の時︑法行
寺にあって︑諸停を参考して﹃光明大師別伝纂註
﹄二
巻
を著した︒
その後忍徴は知恩院に往き︑労苦を厭わず常 に万無に随待したが︑ある時万無は
宗門の行業の前途を
憂い︑﹁一つの道場を建て︑念悌三昧修道の地とした ぃ︒﹂と云った︒洛東鹿ケ谷村に法然の念悌三味旧跡の
あることを知った︒
延宝
八 年
(一六八O)三
十六歳の時︑造営に奔走した
︒
同九年の春︑万無は病気になっ
たが︑存命中に精舎が落
成し
︑
普気
山法然院万無教寺と命名された
︒その年六月
廿五日に万無は没した︒
その
後︑
忍徴は鹿ケ谷の院主と
して︑道業愈々高潔に諸人教化に精進した
︒宝
永七年
(一七一O)
六十六歳
の春三
月病起こり
八年の春︑医
療効なく日々服食を減じ︑十月一一一日病をおして知恩院に
参詣
し︑
七日の初夜自ら発願
文を唱えて臨終行儀の念仏
‑ 76 ‑ 会を始め︑正徳元年(
一七
一 一
)十一月十日六十七歳で
遷化した︒
忍徴も貞照院へ来ていないが徳巌の恩人であり︑貞昭⁝
院と本山の重要な人であっ
たから︑これを崇めて中興第
二世としたのである︒
O第三世性
誉一
阿休心法師
休心は寛永十七年(
一六
四
O )
に誕
生
した
︒俗の名は
小沢与左
衛門とい¥伏見屋新田を開発した
三宅又兵衛
の家臣で︑鳥田八右衛門や小田甚兵衛と同輩である︒と