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住 」

ドキュメント内 教化研究 No.12 (ページ 78-126)

貞 禅

p.~ 月 昨 戒 干 舟 世

ー 湛忍慧力

泉谷西寿寺住

7 2  

貞 照 院 の 法 脈 (﹃ 青 風捕名月﹄から転載) 寺として中山の貞照院と双壁をなした︒その

昌光律寺の

明治二十年代の住職に深見志運がいる

︒明治の我が浄土

宗の教育体制︑宗学本校及び七支校ができたのであるが︑ である︒

その深見志運が愛知支校の設立準備委員長であ

った

︒現在の東海学園のスタートである︒椎尾緋匡のこ の頃の思い出が

﹃東海

園 百 年 史

﹂に書

かれている

名古屋に愛知支校ができる

それは明治

二十一年のこと﹁

桑門秀我先

生﹂の項に

﹂の方(秀我︑筆者注)明治二十年に建った東京の

本校の普通科五年と二年の専門科をやって卒業するな

り︑こちらの学校(東海中学)へ来られた先生で︑東

慈海先生と共に入って来られました︒当時の大部分の 生徒は︑余程偉い先生が天下って来られたように考え たものです︒この愛知支校が校長はじめ戒律主義のね

ずみ時代でありますから︑早速この先生も﹁ねずみ﹂

にな

っちまって︑皆から相当信頼を受けたのです︒

下略

とある︒緋匡流にいうと浄土律の僧侶は﹁ねずみ﹂

であ

る︒それは衣が鼠色であることからこの名称ができたの であろう︒﹁浄土律のねずみ衣捨世の茶衣﹂は現在で もその伝統は守られている︒東海中学の草創期の教員は 深見を始めこの﹁ねずみ﹂が多かった︒つまり質素を生

活規範とする徳厳の流れである︒三河における浄土律の

昭⁝

院や

岡崎

昌光律寺の流れは愛知支校という教育機

関で花が咲いたといっ

て過

言ではない︒百十年後の東海

学園も﹁勤倹誠実﹂を校訓として多くの卒業生が巣立 っているがこの校訓は徳厳以来の精神の継承であろう

と思う︒誠道も改良服のしたは常にねずみの白衣であっ たという︒

それはそれとして誠道は﹁貞照院歴代上人略伝﹂をも

のしている︒

掲載先は

﹃碧南史料研究

(第

七輯

︑ 昭 和 二十九年六月)である︒初代から十七代までを概述して

いる

︒その最後に﹁筆者のことば﹂として左の文が掲げ

られている︒

本書は碧南市史料研究会長山中泰造翁が史料研究の

73 

一部としてい奥照院由来歴代等の取調べを要求せられ先

住太田戒舟和尚から懇切に余に依頼されたので︑図ら

ずも此文の成果を得た︒余は幼少の時から貞照院に関 係あり︑何とかしてその大体を取調べたいと思いつつ 今まで機会を得なかっ

たが

今度幸いにしてその志を

果たした訳である︒甚だ不完全ではあるが︑曲がりな りにもこれだけ出来たことは幸いである︒士吉

Vいの

ままを記す︒石橋誠道清浄華院にて とある︒労作であるので

ここ

全文を紹介したいが

幅の都合上︑筆者の主観で概要を掲げる︒その執筆態度 は誠道の育った寺への愛着と浄土律への傾倒でなかった か︑と思う

︒また︑あえて

ここに誠道の歴代事践を紹介 する因由もそこにある

O

第一世

開山玄誉上人万無大和尚 万無は伊勢の国︑津の人︒慶長十二年三六

O

七)

誕生で︑寛永四年(一六二七)二十一歳で津の天然寺真 誉について出家

し︑後に東都の増上

寺において修学︒万 治二年(一六五九)

に武蔵国岩付の浄国寺の住職となり 次いで飯沼の弘経寺︑新田の大光院

鎌倉の光明寺に歴 住して︑後に京都知恩院に菅山した︒和尚

一の勝地を

得て御寺を造りたいと思い︑弟子忍徴に謀られた

︒忍徴

は︑洛東鹿ケ谷は最も適当な地であることを進言し

九 年 ( 一六八こ

この

地に

一寺を創建して︑長口気山法

然院万無教寺と名付け︑

万無を開山第一世とした︒とこ

ろが

和尚

は︑

の寺が未だ落成しない前に病に催り︑

後この寺の落成を聞いて︑大いに喜び︑

その年の六月二

十五日知恩院で寂した︒時に七十五歳︒万無は一度も貞

照院へは行かなかったが︑

忍徴の師であり又法然院の開

山であ

ったから︑貞照院の開

山第

一世

とし

た︒

O第二世

中興宣誉上人忍徴大和尚

忍徴の父は二

見恒貞と称し︑曾ては尾張侯義直に重ん ぜられ︑後に武蔵国江戸に移住して

二女

を挙

げ︑

正 保

年 (

一六四五)正月八日忍徴が誕生

ところがその年の

月十日不幸にして母は病の為に死し︑間もなく父も病

に権り

五月十七日に死んだ︒ハえはまさに死なんとする 時 ︑

人の娘を枕元に呼ぴ

‑74 ‑

﹁この子は不幸にして父母

を知らない可哀想な子であるが︑此の子が成長したなら ば︑誰か有徳の人に頼んで︑立派な僧となる様に︑父の

泣言

として伝えて呉れ︒﹂と懇ろに忍徴のことを頼んで 延

命終した︒

その後忍徴が丁度九歳になった時︑姉らは父

の遺言を伝え︑

涙とともに事細かに

聞かせた︒忍徴は

父の遺言

に随って僧となり高僧として評判の高か

った増

上寺の法誉直侍の弟子となり

十一

歳で剃髪し︑侍貞と

いう名を与えられた︒

万 治 二 年 (

一六

五九)十五歳の時︑不幸にして直停は

没す︒直停が重態の時︑

その親友の万無に書を送って

﹁若し余がこの世を去ったならば

どうか停貞の後見と

して立派に育て冶項きたい﹂と頼んだ︒これより先︑万

無は台命を票けて︑岩付の浄国寺に晋山したので︑忍徴

は浄国寺に往き司和尚に随時して薫育を得たいと願った

が︑﹁増上寺は教学の最も盛んな所で実に関東第一であ

る︒若し今去って此の地の来れば︑美玉を捨て冶瓦礁を

掴むと同じである︒暫く彼の地に留って大に勉強するが

よい

﹂と戒めたので

忍徴は再び増上

寺に還り︑林間

会下で勉学した︒次で幡随院の知聞に従って研学し︑群

鶏の一鶴として

誉古

向 か

った︒

寛 文 七 年

(一六六七)二十三歳の時︑僧官の事に就い

て親友の雲臥と共に︑京都に往く機会を得た︒共に模尾

山に登り︑律苑の正整なるを見て心に深く之を慕い︑

戒念仏したいと思った︒

その

後︑

雲臥と共に江戸に帰り︑

四ツ谷の法蔵寺の後継を頼まれたが辞退した︒その後の

江戸の大火で決然として志を立て︑修行の旅に赴かんと

し て

その名を忍徴︑字を信阿と改めた︒そして先づ相 州江ノ島の緋才天︑江州木の下の地蔵菩薩︑京都の知恩

院︑清水寺︑祇園嗣などを巡拝した︒

寛 文 九 年

八幡の正法寺へ(一六六九)二十五歳の時

往った︒この寺の住職廓道は︑万無の学友で最も親しい

間柄であった︒しかしてその寺に逗留して内外の典籍を

研究すること約一

年 ︑

﹂の寺には実に沢山の書籍が蔵し

であった︒寛文十一

年 (

一 六

七一)二十七歳の時︑模尾

に往って律苑の衆に入り︑持戒念仰を望んだが︑模尾は

真言宗であるので念仰を称えることは許されなかった︒

75 ‑

泉州の律苑神鳳寺に至って快闘律師に商謁し︑前の如く

に懇願されたが︑これ又槙尾と同様に念偽することは許

きれなかった︒そこで止むなく三年間八幡の正法寺に寓

居して︑静かに持戒念偽した︒付近の人々その道風に感

化されて︑出家を求める者が多かった︒

寛文十二

年 (

一六七二)二十八歳の時︑泉州堺の阿弥

陀寺の含栄の請に応じて︑暫くの閉その寺に滞留した︒

延宝三

年 (

一六

七五)三十一歳の時︑万無は台命を菓け

て知恩院に晋山した︒その後︑万無が摂泉二国の末寺を

巡回した際

忍徴の智行兼備は余もまた及ばないと誉め られたから︑信者の人々が益々忍徴を尊敬した︒阿弥陀 寺に滞留すること五年をへて泉吾孫子の浄福寺に遁れた︒

浄福寺の慧順は︑忍徴の幽穣修道の志の深いのに感激し

て︑別に一軒を建て冶特請した︒忍徴は心身共に安静で

更らに塵務の煩いなく︑思いのま︑に修道できることを 喜び︑自ら誓って八斎戒を受け︑別時念仏の八誓を立

ても念悌した︒その後自ら誓って菩薩戒を受け︑神鳳寺

の快固律師の誼明を得た︒

延 宝 五 年

(一

七七)三十

歳の時︑泉州堺に法行という尼僧がいて

一寺

を建

て︑

上人を請待した︒依っ

て上人は万無と相談して︑厳重な 規律を設けてこの寺を法行寺と名づけ

不断斎戒念仰の

道場とした︒

延 宝 七 年 (

一六

七九)三十五歳の時︑法行

寺にあって︑諸停を参考して﹃光明大師別伝纂註

﹄二

を著した︒

その後忍徴は知恩院に往き︑労苦を厭わず常 に万無に随待したが︑ある時万無は

宗門の行業の前途を

憂い︑﹁一つの道場を建て︑念悌三昧修道の地とした ぃ︒﹂と云った︒洛東鹿ケ谷村に法然の念悌三味旧跡の

あることを知った︒

延宝

八 年

(一六八O)三

十六歳の時︑造営に奔走した

同九年の春︑万無は病気になっ

たが︑存命中に精舎が落

成し

普気

山法然院万無教寺と命名された

︒その年六月

廿五日に万無は没した︒

その

後︑

忍徴は鹿ケ谷の院主と

して︑道業愈々高潔に諸人教化に精進した

︒宝

永七年

(一七一O)

六十六歳

の春三

月病起こり

八年の春︑医

療効なく日々服食を減じ︑十月一一一日病をおして知恩院に

参詣

し︑

七日の初夜自ら発願

文を唱えて臨終行儀の念仏

‑ 76 ‑ 会を始め︑正徳元年(

一七

一 一

)十一月十日六十七歳で

遷化した︒

忍徴も貞照院へ来ていないが徳巌の恩人であり︑貞昭⁝

院と本山の重要な人であっ

たから︑これを崇めて中興第

二世としたのである︒

O第三世性

誉一

阿休心法師

休心は寛永十七年(

一六

O )

に誕

した

︒俗の名は

小沢与左

衛門とい¥伏見屋新田を開発した

三宅又兵衛

の家臣で︑鳥田八右衛門や小田甚兵衛と同輩である︒と

ドキュメント内 教化研究 No.12 (ページ 78-126)

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