宮 山 海 中 中 中 学 学 学 大 H月 明 正 治 治 元 四 四 年 十 十 年 年 鎮西中
学
(明
治
三
十八
年)
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示 教 大
品
明(
治四
十年
四月
) 同年十月小石川より巣鴨に移転
正 大
学大正十五年)
‑ 65‑
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ー上
宗教大学分校
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‑‑
品
等 学
院│
││仏│仏教専門学校
教 大 学 ( 明 治 四 十 年 四 月 ) ( 大
正
元 年 ) ( 大 正
二年
) ( 昭 和
二十四年)本校より独立
浄土律院の生活とその子弟養成
││貞照院史料調査報告││
はじめに
貞照院の地番標記は愛知県碧南市霞浦町二丁目七十三 番であるが
以前は碧海郡旭村大字平七であ
った︒
しか
し三
河地方では﹁中山貞照院﹂と
言
った方が通りがよい
︒
瀬沼な山門とその塀が参詣者や来訪者を迎えいれてくれ
る︒
古い茅葺の山門を思い出す
︒
もともとこの門は応永 年聞の造りで︑吉良氏の役所の門で総ケヤキ造りであっ
たと
い︑
っ
︒
浄土宗総合研究所の僧侶養成研究班が史料採訪として 同院を訪れたのは平成十年
一月十六日のことであった
︒
田
祥
t 住
出E
同院は浄土律の聖地として︑多くの師弟の養成に当たつ てきた︒浄土宗史上
﹁三河律﹂などといわれる場合もあ
るが
︑ その拠点寺院の
一つである︒
貞照院における浄土 律の系譜と︑同院が所蔵する多くの史料のうち規則類四 点と忍徴の書状を中心として紹介し︑報告をするもので
ふ めヲ
hv ︒
て 貞 照 院 の 開 山 と 伏 見 屋 又 兵 衛 同院は京都鹿ケ谷法然院の流れを汲む浄土律の寺であ
る︒
広大な境内は
その清楚な律院として申し分ない伽 藍配置である
︒
その静寂な雰囲気は我が浄土宗を代表す
‑ 66‑
る浄土律の伝統を継承してこられた道場として︑屈指の 環境を持つといって差し支えない︒
山号 は金 ム口 山と いう
︒
同寺所蔵の﹃員照院略記﹂の冒頭の﹁貞正苓後改号貞照
院﹂の項に︑当院はもともと岡崎の松応寺の末院として 草創し︑当初の名称は貞正庵であった︒その庵を譲り受
けて鹿ケ谷の末寺として忍徴に開山上人を頼んだので
あるが成就しなかった︒いわゆる謙退にあって正徳元 年 ご 七 一 一
)に高無を勧請し開山とし貞照院は草創さ
れた
︒また同略記の中︑寺域を書いた﹁寺境東西三十間
南北六十七間﹂の項によると︑境内地となったところの
土地は︑大演村石川八郎右衛門の下屋敷でそれを寛文
十一年(一六七一)極月六日に休心坊が在俗の時に求め
ておいたもの︒しばらく時聞があって︑休心はそこに貞
正苓を作って住んだとある︒彼はもともと伏見屋に縁
の深い人物である
︒﹃
旭村誌﹂などは︑寛文十一年に伏
見屋又兵衛が貞照院を創建したとするが︑貞照院として 閉山するのはしばらく下って正徳元年のことであり︑貞
正苓と貞照院の混同であろう︒同地に岡崎の松応寺の草 庵子院が荒廃にまかせであったものを︑同十年になって
現地に移す許可を得て貞照院が草創されたもので︑
実際
に同院を再興したのは休心坊という︒彼は小沢与三右衛
同l''
︑ ︑
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その先祖は伏見屋又兵衛の雇人であっ
たと
い
う ︒
それは当然のことながら伏見屋の財的な援助があ
っ
て再興できたものに相違なかろう︒ウ貝照院略
記 ﹄ lま 休心坊は︑岡崎松応寺の第九世龍天(本論では﹁上人﹂
﹁僧
正﹂
等の称号を原則的に省略)の弟子となったこと により︑貞照院は松応寺の末寺となり︑
最初は貞照庵と
‑ 67‑
いった︒
伏見屋又兵衛の娘が同庵の施主であったとも記 す︒ 貞照院の開山上人に︑京都鹿ケ谷の忍徴を請待したが 叶わず︑知恩院の万無を開山とし︑
忍徴は第二
代で
中盤
(
とな
って
いる
︒
﹂れは鹿ケ谷法然院の開山様式と似通
つ
ているといえる︒貞照院の律院としての基盤が整うのは 第五代徳巌によるところが大きい︒
貞照院の現在の本尊阿弥陀加来につ
いて
の
﹁寺侍﹂が
ある
︒
本尊の高さは四尺八寸五分︑結剛鉄座で説法相︑
木彫金泊である︒律院によく見られる本尊である︒
一 方 ︑
同院の庵室当時の本尊としてまつ
られていた阿弥陀
仏は
武田信玄の念持仏とされている
︒きて現在の本尊の伝来 経緯であるが︑第四世直入が庵主のころは
現在地に移 るまえの所であり︑規模も小さかった︒彼は晩年に堂塔 の拡張を願い︑まず本尊の奉載に努力した
︒
直入は京都 法然院の恵心僧都作の仏頭の譲渡を受け
その法体を仏 師に注文するために京都に出発した
︒しかし琵琶湖の近 くで数人の賊におそわれ︑金銭を取られようとしたが 彼の一喝に改心しその賊達は法然院まで供をしたと寺伝 にあるほど休心は気丈な人物であった︒
こうしてみると貞照院は徳巌の入山以前と以後︑
そ の 以前も貞正庵として現在地以前の
いわゆる掘割道路時 代とに分けられることになろう︒同院は徳巌を奉律開祖 とするが︑律院としての貞照院は徳巌の晋山からである
︒
﹂れらのことは歴代
の項で述べることとする︒
貞照院の開基︑伏見屋又兵衛は江戸茅場町の人︒その 先祖は山城国伏見の出であることから伏見屋といった︒
三宅の姓は︑先祖が家康から授かった
と伝える︒彼は 大掛かりな伏見屋新田を造った︒現在も市内には﹁伏見
町﹂
﹁
三宅
町﹂の町名を残し︑﹁伏見
屋
﹂という地点名標 識もある︒彼は元禄二年(一六八九)に死ぬが︑法名を 心誉宗休居士とい
った︒貞照院に彼の山門像を所蔵し
てい
る
︒﹃
碧南市史
﹄は
額が広くゆったりした顔立ちに︑彼の理財家として の風貌をうかがうことができる
︒
と説明する︒たしかに老境にある山門像画ではあるが︑利
‑ 68‑
発で聡明そうな人格は伺うことができる︒また
その絵
は梓を着しているが
その家紋は︑﹁二階傘﹂である︒
貞照院の定紋もそれである︒それは又兵衛が家康に供し た夏の日に︑暑気厳しく傘を差しかけた上に自分の傘を 掛けた︒それを見た家康が︑
その形を家紋にせよ︑
と ったことによる伝聞であると
﹁旭村誌﹄(
﹁碧南市史料
﹂
第五八号所収)はいうが︑
又兵衛を元禄二年没とするこ とによると︑家康ということにはならない︒その先祖と 説明すべきであろう︒しかし︑伏見屋の家紋も貞照院の
定紋も﹁二階傘﹂であることは間違いない︒
伏見屋の経済基盤である伏見屋新田の成立について
﹃碧南市史﹄(第一巻)の記述を集約的にまとめ以下に紹
介しておく︒正保元年(一六四四)に西尾の米津から碧
南の鷲塚までの四回に堤防ができた︒矢作川の治水には
難渋を重ねてきた地域であるだけに堤防を築くことに
より治水と新田という大きい課題は日常的なものであっ
た︒堤防の完成により油ケ淵があらわれその排水先を
東浦の海に逃がすことによって︑油ケ淵沿いには広大な
新田開発が可能になった︒そこに着目したのが江戸茅場
町の伏見屋又兵衛であった︒その財力により寛文年代か
ら多くの新田開発を行った︒彼は延宝二
年 (
一六七四
の検地が済んでからその一部を惣百姓に分割して行く︒
西端村においては年貢を納めると一緒に伏見屋にも役米
を徴収した︒それは一反あたり二斗であり︑新田の特色
である二重構造管理によるものであった︒そこに伏見屋
の経済的基盤が発生するのである︒さらに寛文六年(
ムハ ムハ ムハ ) になると砂州であった東浦一
帯を
新田
化︑
そ
グ〉
後も少しずつ浅瀬を埋めて開発を続けて行った︒その工
事には大変な労働力を必要とする︒そこで労働力提供の
条件として︑新田の耕作は周囲の村々の百姓と契約を結
ぶ︒しかし︑近村で耕作百姓が用意できない時は
し
つ
かりとした確かな百姓を入れる︒他村から百姓を︑ある
いは牢人などは一切入れない︒また百姓に対し苦痛にな
ることや負担になることはしないなどの取り決めを行
った︒これらのことは従前からの農民層から新たな農民 団へとかわっていくものでもあった︒
69 その面積はどのくらいであったかというと︑約八十
町歩というから広大なものである︒この伏見屋新田もそ
の後は所有者の変遷があった
︒寛 延二年(一七四九)に
なると平七村の藤次郎︑大浜村の市古七郎が半分ずつ買
︑足っこ
f︑
L H 4 fヵその合計石高は一斗千百六十三石五三合で あった︒その後も所有者は一部変わり︑美濃岩村松平能
登守家中として代官役をしていた白井太四郎と大阪の坂
崎治太夫が五分五分の所有の時もあった︒また享保七年
(一七
二二
)の出水による堤防の決壊は三年間ほど川船
が新田の中を通るほど矢作川は変形する
︒
元 文 元 年 (
七三六)
の大雨による堤防の決壊︑矢作川の氾濫は度々 で︑その都度︑幕府を頼るのであ
った︒
平七村の藤次郎は延
享三 年 ( 一七四六)には江戸日本
橋平松町の平兵衛︑三
河の加茂郡九久平村(現︑豊田市
九久平町)
の甚兵衛とともに︑矢作古川の左右海辺に堤 防を作りおよそ二百町歩の
新田開発を企画したが実現 しなかった︒
安 永 八 年
(一七七九)の記録から伏見屋新
田の石高を見ると︑惣高一千百六十五石七斗六升八合で︑
内六百八十石八斗二升五
Aロ
が御
領
その他が私領︑家数
五十五軒︑寺一軒︑人数二
百九十七人という状況である
︒
伏見屋新田は水害の連続と対応がその歴史といって過
言ではないが︑この新国を守るため︑その外側に新田を
作る構想がもちあがった
︒延享三
年 (
一七四六)加田屋
藤五郎は伏見屋新田の堤防の外側に新田を作
った︒これ
が伏見屋外新田である
︒
現在もその地番を残している
︒
そして次々と新田開発が続けられて行
った︒ 二
︑貞照院の法燈 石橋誠道は前述の伏見屋に生まれ︑貞照院第十五代大
信の弟子である︒大正
から昭和にかけて﹁
宗門の木鐸﹂
とされ︑仏教専門学
校校長をへて清浄
華院法主
にな
られ
た人
︒宗学︑とりわけ天台学
の碩
学といわれている︒誠
道は伏見屋源之助を父に
おもとを母に二男二女の次男
として明治十一年四月二十七日に生まれた︒そもそも伏
‑70 ‑
見屋は禅宗であったが︑伏見屋は三百米ほど西にある浄
土宗の貞照院にもよく参詣した
︒また西隣には生蓮庵が
あった︒生蓮は伏見屋三宅又兵衛
の妾
の子
︑
すなわち娘
がいた︒誠道の頃は生蓮庵には西信がいた︒資産家の寺
院草創という一つの形であろう︒こうしたことが誠道を
浄土宗に引き入れる土壌ではなかっ
たか
︒
誠道は昭和四十年
一月五日に亡くなった︒それは急逝
であ
った︒その追悼の書物﹃青風梯名月﹂は石橋大僧正 記念会から昭和四十年四月
二十五日に発行されている
︒