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ドキュメント内 教化研究 No.12 (ページ 70-78)

宮 山 海 中 中 中 学 学 学 H月 明 正 治 治 元 四 四 年 十 十 年 年 鎮西中

(明

十八

年)

0

示 教 大

明(

治四

十年

四月

) 同年十月小石川より巣鴨に移転

正 大

学大正十五年)

‑ 65‑

×

宗教大学分校

Il li

‑‑

等 学

││仏仏教専門学校

教 大 学 ( 明 治 四 十 年 四 月 ) ( 大

元 年 ) ( 大 正

二年

) ( 昭 和

二十四年)本校より独立

浄土律院の生活とその子弟養成

││貞照院史料調査報告││

はじめに

貞照院の地番標記は愛知県碧南市霞浦町二丁目七十三 番であるが

以前は碧海郡旭村大字平七であ

った︒

しか

し三

河地方では﹁中山貞照院﹂と

った方が通りがよい

瀬沼な山門とその塀が参詣者や来訪者を迎えいれてくれ

る︒

古い茅葺の山門を思い出す

もともとこの門は応永 年聞の造りで︑吉良氏の役所の門で総ケヤキ造りであっ

たと

い︑

浄土宗総合研究所の僧侶養成研究班が史料採訪として 同院を訪れたのは平成十年

一月十六日のことであった

t 住

E

同院は浄土律の聖地として︑多くの師弟の養成に当たつ てきた︒浄土宗史上

﹁三河律﹂などといわれる場合もあ

るが

︑ その拠点寺院の

一つである︒

貞照院における浄土 律の系譜と︑同院が所蔵する多くの史料のうち規則類四 点と忍徴の書状を中心として紹介し︑報告をするもので

ふ め

hv

て 貞 照 院 の 開 山 と 伏 見 屋 又 兵 衛 同院は京都鹿ケ谷法然院の流れを汲む浄土律の寺であ

る︒

広大な境内は

その清楚な律院として申し分ない伽 藍配置である

その静寂な雰囲気は我が浄土宗を代表す

‑ 66‑

る浄土律の伝統を継承してこられた道場として︑屈指の 環境を持つといって差し支えない︒

山号 は金 ム口 山と いう

同寺所蔵の﹃員照院略記﹂の冒頭の﹁貞正苓後改号貞照

院﹂の項に︑当院はもともと岡崎の松応寺の末院として 草創し︑当初の名称は貞正庵であった︒その庵を譲り受

けて鹿ケ谷の末寺として忍徴に開山上人を頼んだので

あるが成就しなかった︒いわゆる謙退にあって正徳元 年 ご 七 一 一

)に高無を勧請し開山とし貞照院は草創さ

れた

︒また同略記の中︑寺域を書いた﹁寺境東西三十間

南北六十七間﹂の項によると︑境内地となったところの

土地は︑大演村石川八郎右衛門の下屋敷でそれを寛文

十一年(一六七一)極月六日に休心坊が在俗の時に求め

ておいたもの︒しばらく時聞があって︑休心はそこに貞

正苓を作って住んだとある︒彼はもともと伏見屋に縁

の深い人物である

︒﹃

旭村誌﹂などは︑寛文十一年に伏

見屋又兵衛が貞照院を創建したとするが︑貞照院として 閉山するのはしばらく下って正徳元年のことであり︑貞

正苓と貞照院の混同であろう︒同地に岡崎の松応寺の草 庵子院が荒廃にまかせであったものを︑同十年になって

現地に移す許可を得て貞照院が草創されたもので︑

実際

に同院を再興したのは休心坊という︒彼は小沢与三右衛

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︑ ︑

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その先祖は伏見屋又兵衛の雇人であっ

たと

う ︒

それは当然のことながら伏見屋の財的な援助があ

て再興できたものに相違なかろう︒ウ貝照院略

記 ﹄ lま 休心坊は︑岡崎松応寺の第九世龍天(本論では﹁上人﹂

﹁僧

正﹂

等の称号を原則的に省略)の弟子となったこと により︑貞照院は松応寺の末寺となり︑

最初は貞照庵と

‑ 67‑

いった︒

伏見屋又兵衛の娘が同庵の施主であったとも記 す︒ 貞照院の開山上人に︑京都鹿ケ谷の忍徴を請待したが 叶わず︑知恩院の万無を開山とし︑

忍徴は第二

代で

中盤

(

とな

って

いる

﹂れは鹿ケ谷法然院の開山様式と似通

ているといえる︒貞照院の律院としての基盤が整うのは 第五代徳巌によるところが大きい︒

貞照院の現在の本尊阿弥陀加来につ

いて

﹁寺侍﹂が

ある

本尊の高さは四尺八寸五分︑結剛鉄座で説法相︑

木彫金泊である︒律院によく見られる本尊である︒

一 方 ︑

同院の庵室当時の本尊としてまつ

られていた阿弥陀

仏は

武田信玄の念持仏とされている

︒きて現在の本尊の伝来 経緯であるが︑第四世直入が庵主のころは

現在地に移 るまえの所であり︑規模も小さかった︒彼は晩年に堂塔 の拡張を願い︑まず本尊の奉載に努力した

直入は京都 法然院の恵心僧都作の仏頭の譲渡を受け

その法体を仏 師に注文するために京都に出発した

︒しかし琵琶湖の近 くで数人の賊におそわれ︑金銭を取られようとしたが 彼の一喝に改心しその賊達は法然院まで供をしたと寺伝 にあるほど休心は気丈な人物であった︒

こうしてみると貞照院は徳巌の入山以前と以後︑

そ の 以前も貞正庵として現在地以前の

いわゆる掘割道路時 代とに分けられることになろう︒同院は徳巌を奉律開祖 とするが︑律院としての貞照院は徳巌の晋山からである

﹂れらのことは歴代

の項で述べることとする︒

貞照院の開基︑伏見屋又兵衛は江戸茅場町の人︒その 先祖は山城国伏見の出であることから伏見屋といった︒

三宅の姓は︑先祖が家康から授かった

と伝える︒彼は 大掛かりな伏見屋新田を造った︒現在も市内には﹁伏見

町﹂

三宅

町﹂の町名を残し︑﹁伏見

﹂という地点名標 識もある︒彼は元禄二年(一六八九)に死ぬが︑法名を 心誉宗休居士とい

った︒貞照院に彼の山門像を所蔵し

てい

︒﹃

碧南市史

﹄は

額が広くゆったりした顔立ちに︑彼の理財家として の風貌をうかがうことができる

と説明する︒たしかに老境にある山門像画ではあるが︑利

‑ 68‑

発で聡明そうな人格は伺うことができる︒また

その絵

は梓を着しているが

その家紋は︑﹁二階傘﹂である︒

貞照院の定紋もそれである︒それは又兵衛が家康に供し た夏の日に︑暑気厳しく傘を差しかけた上に自分の傘を 掛けた︒それを見た家康が︑

その形を家紋にせよ︑

と ったことによる伝聞であると

﹁旭村誌﹄(

﹁碧南市史料

第五八号所収)はいうが︑

又兵衛を元禄二年没とするこ とによると︑家康ということにはならない︒その先祖と 説明すべきであろう︒しかし︑伏見屋の家紋も貞照院の

定紋も﹁二階傘﹂であることは間違いない︒

伏見屋の経済基盤である伏見屋新田の成立について

﹃碧南市史﹄(第一巻)の記述を集約的にまとめ以下に紹

介しておく︒正保元年(一六四四)に西尾の米津から碧

南の鷲塚までの四回に堤防ができた︒矢作川の治水には

難渋を重ねてきた地域であるだけに堤防を築くことに

より治水と新田という大きい課題は日常的なものであっ

た︒堤防の完成により油ケ淵があらわれその排水先を

東浦の海に逃がすことによって︑油ケ淵沿いには広大な

新田開発が可能になった︒そこに着目したのが江戸茅場

町の伏見屋又兵衛であった︒その財力により寛文年代か

ら多くの新田開発を行った︒彼は延宝二

年 (

一六七四

の検地が済んでからその一部を惣百姓に分割して行く︒

西端村においては年貢を納めると一緒に伏見屋にも役米

を徴収した︒それは一反あたり二斗であり︑新田の特色

である二重構造管理によるものであった︒そこに伏見屋

の経済的基盤が発生するのである︒さらに寛文六年(

) になると砂州であった東浦一

帯を

新田

化︑

後も少しずつ浅瀬を埋めて開発を続けて行った︒その工

事には大変な労働力を必要とする︒そこで労働力提供の

条件として︑新田の耕作は周囲の村々の百姓と契約を結

ぶ︒しかし︑近村で耕作百姓が用意できない時は

かりとした確かな百姓を入れる︒他村から百姓を︑ある

いは牢人などは一切入れない︒また百姓に対し苦痛にな

ることや負担になることはしないなどの取り決めを行

った︒これらのことは従前からの農民層から新たな農民 団へとかわっていくものでもあった︒

69  その面積はどのくらいであったかというと︑約八十

町歩というから広大なものである︒この伏見屋新田もそ

の後は所有者の変遷があった

︒寛 延二年(一七四九)に

なると平七村の藤次郎︑大浜村の市古七郎が半分ずつ買

︑足っこ

f

L H 4 fヵその合計石高は一斗千百六十三石五三合で あった︒その後も所有者は一部変わり︑美濃岩村松平能

登守家中として代官役をしていた白井太四郎と大阪の坂

崎治太夫が五分五分の所有の時もあった︒また享保七年

(一七

二二

)の出水による堤防の決壊は三年間ほど川船

が新田の中を通るほど矢作川は変形する

元 文 元 年 (

七三六)

の大雨による堤防の決壊︑矢作川の氾濫は度々 で︑その都度︑幕府を頼るのであ

った︒

平七村の藤次郎は延

享三 年 ( 一七四六)には江戸日本

橋平松町の平兵衛︑三

河の加茂郡九久平村(現︑豊田市

九久平町)

の甚兵衛とともに︑矢作古川の左右海辺に堤 防を作りおよそ二百町歩の

新田開発を企画したが実現 しなかった︒

安 永 八 年

(一七七九)の記録から伏見屋新

田の石高を見ると︑惣高一千百六十五石七斗六升八合で︑

内六百八十石八斗二升五

A

が御

その他が私領︑家数

五十五軒︑寺一軒︑人数二

百九十七人という状況である

伏見屋新田は水害の連続と対応がその歴史といって過

言ではないが︑この新国を守るため︑その外側に新田を

作る構想がもちあがった

︒延享三

年 (

一七四六)加田屋

藤五郎は伏見屋新田の堤防の外側に新田を作

った︒これ

が伏見屋外新田である

現在もその地番を残している

そして次々と新田開発が続けられて行

った︒ 二

︑貞照院の法燈 石橋誠道は前述の伏見屋に生まれ︑貞照院第十五代大

信の弟子である︒大正

から昭和にかけて﹁

宗門の木鐸﹂

とされ︑仏教専門学

校校長をへて清浄

華院法主

にな

られ

た人

︒宗学︑とりわけ天台学

の碩

学といわれている︒誠

道は伏見屋源之助を父に

おもとを母に二男二女の次男

として明治十一年四月二十七日に生まれた︒そもそも伏

‑70 ‑

見屋は禅宗であったが︑伏見屋は三百米ほど西にある浄

土宗の貞照院にもよく参詣した

︒また西隣には生蓮庵が

あった︒生蓮は伏見屋三宅又兵衛

の妾

の子

すなわち娘

がいた︒誠道の頃は生蓮庵には西信がいた︒資産家の寺

院草創という一つの形であろう︒こうしたことが誠道を

浄土宗に引き入れる土壌ではなかっ

たか

誠道は昭和四十年

一月五日に亡くなった︒それは急逝

であ

った︒その追悼の書物﹃青風梯名月﹂は石橋大僧正 記念会から昭和四十年四月

二十五日に発行されている

ドキュメント内 教化研究 No.12 (ページ 70-78)

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