はじめに
本章では、韓国近代の 1910 年代からの仏教改革論の盛行に伴って「進取的・革新的人物」
として論じられた元暁像について考察したい。近代において元暁は、改革運動を推進した 青年仏教徒や在日留学生徒の模範としてとりあげられた。伝記類が伝える元暁の破格的行 動と活発な性格、既得権の貴族僧侶を詰難した行跡は1、当時既得権の行態を批判し保守的 仏教界の慣習を変化しようとした青年仏教徒には、みずからの要求に相応しい模範像とし て映った。
日韓併合以後 1911 年から朝鮮総督府によって施行された寺刹令2に対する不満、社会進化 論の流行、妻帯食肉の拡散、仏教の世俗化などの急激な変化を迎えた仏教界では、「朝鮮仏 教改革論」「朝鮮仏教維新論」3などの革新論が盛んに唱えられており、それに伴って「朝鮮 仏教青年会」「東京留学生会」などの組織が国内外で結成され活動し始めた。特に留学生た ちは、日本仏教界の変化を敏感に注視しながら国内仏教界の変化の必要性も絶感し、既得 権を持つ三十本山の住職層との摩擦を経ながら革新論を主導した。1926 年、東京在日留学 生を中心に結成された「元暁大聖讃仰会」もその一例である。
ところがこれまでの多くの研究は、韓龍雲の『朝鮮仏教維新論』の分析や仏教青年団体 の活動の整理がほとんどであり、その中で行われた人物表象化に注目した例はほとんどな い。しかし、改革を推進した仏教徒が活動指針とした人物について把握することは、彼ら の意図や改革の方向を理解するのに重要である。しかも彼らの要求によって浮き彫りにさ
1 仏教界の既得権僧たちの虚位意識を叱咤した元暁の百高座法会の記録がある。『宋高僧傳』「唐新 羅国黄龍寺元暁傳」に「洎乎王臣道俗雲擁法堂暁乃宣吐有儀解紛可則称揚迪指聲準于空暁復昌言曰
‘昔日採百椽時雖不預会 今朝横一棟処唯我独能’時諸名徳俯顔慚色伏膺懺悔焉」とある。
2 朝鮮総督府は日韓併合の翌年 1911 年 6 月 3 日に朝鮮総督府制令第 7 号「寺刹令」を制定し「朝鮮 総督府官報第 227 号」に掲載発布した。同年7月 8 日には朝鮮総督府令第 84 号「寺刹令実施規則」
八ヶ条も発布した。この規則によって朝鮮の寺刹は三十本山(1924 年に華厳寺を加えて 31 本山と なる)に併合され、各本山の住職は朝鮮総督の統制下に置かれるようになった。
3 たとえば、権相老 「朝鮮仏教改革論」(『朝鮮仏教月報』3-18 号、朝鮮仏教月報社、1912-1913 年)、韓龍雲『朝鮮仏教維新論』(滙東書館、1913 年〔1910 年執筆〕)、朴漢永 「大夢誰先覚에 대하여」(『朝鮮仏教月報』11、朝鮮仏教月報社、1912 年)、李英宰 「朝鮮仏教革新論」(『朝鮮日 報』に総 27 回連載、1922 年)、白鶴鳴「獨살림 法侶에게 勸함」(『仏教』71 号、仏教社、1930 年)、韓龍雲 「朝鮮仏教改革案」(『仏教』88 号、仏教社、1931 年)、朴重彬 『朝鮮仏教革新論』
(1938 年)などが挙げられる。
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れた元暁のイメージの変化もたどる必要があろう。したがって、本章ではまず、主に 1910 年代からの仏教改革運動の背景を概括し、元暁を先駆的改革者の模範として取り上げてい る例を紹介・検討したい。
1 1910-1930 年代における仏教界の革新運動
1)仏教改革論の台頭20 世紀初めの近代仏教界は、社会進化論の流行の中で4、他宗教や他国の仏教との競争に 生き残るため必然的に自己改革に取り組んだ5。もちろん近代韓国仏教界の変化のきざしは、
すでに 19 世紀末の開港期から見られたが、本格的には 1910 年代に至って盛んになり、韓 龍雲、権相老らの仏教改革論に関するの講演と著書執筆や、「青年仏教団体」の組織結成と いった形で現れた6。
西欧列強の介入とともに近代を迎えた日本と中国の場合も、仏教界において改革論が登 場したのは同様であるが、韓国の場合は、朝鮮王朝時代の仏教の地位や日本との国家関係 が緊密に関わっていた。やっと 1985 年、僧侶都城出入解禁を迎えた仏教界は、徐々に山中 仏教と儒仏会通論から脱して社会参与の主体としての役割に目を向けはじめた。加えて、
日本仏教の国内での布教拡大7、キリスト教の慈善事業と教勢の拡張は、朝鮮仏教徒に強い 危機意識を呼び起こした。これまでの抑圧構造の解体による新たな可能性の到来につれ、
多くの仏教徒は、落後した仏教の変化の必要性を唱えた8。当時、仏教改革に努めながら「大 覚教」を創立した白龍城(1864-1940)は、1911 年 2 月に京城の情景を見て、
4 姜大蓮「進化는 在月報(進化は在月報)」(『朝鮮仏教月報』1 巻、朝鮮仏教月報社、1910 年)。
退耕生「朝鮮仏教改革論-朝鮮仏教進化資料」(『朝鮮仏教月報』1-14 巻、朝鮮仏教月報社、191 1- 1915 年)。
5 李在軒『李能和와 近代仏教学(李能和と近代仏教学)』(知識産業社、2007 年)11 頁参照。
6 金光植は「近代仏教改革論의 背景과 性格(近代仏教改革論の背景と性格)」(『宗教教育学研究』
7、韓国宗教教育学会、1998 年)で、近代仏教界の改革の様相を四つの章に分けて説明している。
一章.自覚と非主体性、仏教改革の促求(1876-1910):韓龍雲、二章.国権喪失と仏教改革の方法 論(1910-1919):権相老・朴漢永、三章.仏教界の葛藤と対立:保守と進歩(1919-1929):李永宰・
白龍城・白鶴鳴、四章.統一運動と仏教の自主化(1929-1945):韓龍雲。
7『朝鮮開教五十年誌』(大谷派本願寺朝鮮開教監督部、1927 年)を参照されたい。
8 公益事業を並行して進めていたプロテスタントの布教方式について李能和は、「天堂の福音を広く 伝えると同時に学校や病院設立などの公益事業も並行して進め、新文明の空気を朝鮮人の脳裏に吹 き込むので、一般社会はこの動きを歓迎しており(韓国における)教会の発展は西欧よりいっそう 早い速度を見せている」と表現した(李能和 「宗敎와 時勢(宗敎と時勢)」『惟心』1 号、惟心社、
1918 年、35 頁)。
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他宗教は、彼方此方に教堂を設立し、鐘の音が錚錚と響いており、教堂の中がいっぱ いなのが見える。ところが、我が仏教には、覚皇寺だけがあるのみで、しかも自分が 禅師であれば布教もしないことに限りなく嘆息が出る9。
といい、他宗教と比べて仏教は一般大衆に対する波及力が小さく、立ち遅れていると嘆い ている。
このような状況を痛感した仏教徒を中心に改革論が登場した。改革論として本格的に活 字化された論文が 1912 年 4 月、『朝鮮仏教月報』に連載された権相老の「朝鮮仏教改革論」
である。また翌年 1913 年 5 月、韓龍雲は『朝鮮仏教維新論』を出版したが、そこで彼は、
仏教の低迷と僧侶の安易な認識を痛烈に批判し、人と制度、儀礼と信仰など、古い伝統を 全面的に改革することを力説した。その後日本総督が任命した権力層住職の専横、三・一 運動の失敗などによって、革新の雰囲気は一時沈滞したが、まもなく 1922 年になると日本 大学の留学生であった李英宰10が『朝鮮日報』に「朝鮮仏教革新論」を連載し、これまでの 改革論を整理して改革の方向性をより具体化した。
これらの改革の主張内容は、大きく「仏教界の社会事業の拡大」と「住職専横の阻止と 寺刹令の撤廃」に分けられる。日本は、かつて 1912 年に「東京仏教徒社会事業研究会」を 発起し、各宗派は社会事業のための調査を年例行事として行い、各宗門大学には社会事業 関連学科や研究所、学会などが立てられていた11。とりわけ 1900 年代に活動し始めた「新 仏教同志会」による『新仏教』発刊と教団仏教の慣習的腐敗への反対運動、厭世的旧仏教 からの脱皮、時勢に応じた仏教実践運動など12の雰囲気に接した韓国仏教徒は、仏教の社会 参与を使命として認識するようになった。感化院、幼稚園、看病会、養老院などでの慈善 共益事業にも仏教界が積極的に参与することを勧めた。
とりわけ李英宰は、宗教の優劣は単に教理の深さによるのではなく社会や人類の実生活
9 白龍城「万日参禅結社創立記」(韓鐘万編『現代韓国의 仏教思想(現代韓国の仏教思想)』、ハ ンギル社、1980 年、135 頁 )。
10 李英宰は、1921 年在日朝鮮仏教青年会創立期、幹事として主導的役割を果たしており、1924 年、
東京朝鮮留学生会の機関誌『金剛杵』を創刊して編集長に務めていた。彼がこの「革新論」を連載 した時期は、朝鮮仏教青年運動が盛んだった 1922 年 11 月から 12 月間であり、彼の主張は、個人 的念願だけではなく在日仏教青年徒の立場と理想が反映されたものである。
11 李惠淑「仏教社会福祉研究傾向에 대한 反省과 展望(仏教社会福祉研究傾向に対する反省と展望)」
(『釈林祭』27 集、東国大学校釈林会、1993 年)85 頁。
12「仏教清徒同志会綱領6か條」(『新仏教』創刊号、仏教清徒同志会、1900 年)を参照されたい。
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に及ぶ感化力の程度にかかっているといい13、新たな布教方法の提案に努めた。また、彼は
「朝鮮仏教革新論」で、寺刹令14と本末制度を否定し、末寺の住職が団結して本山に対抗す べきだと強調した15。彼は次のように現仏教界の問題点を指摘している。
一.教界の諸般事務を処理することにおいて協議なしに住職の独断で行い「朝鮮仏教 の興亡盛衰の全てが 30 本山の住職の手の内にあるため、他の人は大きい事であれ小さ い事であれ、良い事であれ嫌な事であれ、とやかく言うな」という横暴を極め、一般 僧侶たちの人格と権利を無視した。二.時代の流れに合わせて教団の制度を改革し、
新しい生命を創造するのではなく、不合理な本末制度を擁護して、仏教の滅亡を促し た。三.根拠もなしに教務院を組織し財団を標榜して教徒らの目をだまし、時代的要 求によって決起した仏教維新運動に反対しつつ進行を妨げているのである16。
ここから、当時の住職階層と若い僧侶たちの葛藤が容易に想像できる。上に挙げた権相 老を初め仏教徒の改革論は、多少異なる部分があるにせよ、おおむね仏教の社会化と大衆 化、青年への仏教教育と積極的布教、教団運営・行政などの制度改革、寺刹令制度の改正 などにまとめられる。
一方、このような改革論の発表ととともに現れた重要な様相として、青年仏教徒の団体 が組織され意欲的活動を進めたことである。1920 年代に入ってこのような状況に対する批 判の気運が若い僧侶を中心に起こり始め、組織創立の形で具体化されたのである。次に、
その内容を紹介することにしたい。
2)青年仏教徒の組織結成と活動
このような改革の雰囲気は、若い仏教徒の組織結成にも大きな影響を与えており、彼ら
13 金敬執「李英宰의 仏教革新思想에 대한 硏究(李英宰の仏教革新思想に対する硏究)」(『韓国 仏教学』 20、韓国仏教学会、1995 年)599 頁。
14 本章の註 2 参照。
15 また注目されるのは、住職側と青年仏教徒の葛藤、青年の運動を阻止しようとした元老・老師に対 する青年仏教徒の反抗心であり、そのことは次の文に明確に見られる。「日本仏教を見ろ。日本の 仏教は老少共楽の仏教である。宗立学校の青年運動は、学校当局の元老たちが先だって進んでおり、
各地宗派の青年運動も各宗団当局の元老たちからの骨身にこたえる擁護と声援があり……キリス ト教や天道教を見ろ。彼らはみな青年を中心として陣頭に立てさせ、すべてのことをやらせてその 団体を価値あるように活用する。ところで、韓国仏教の元老の青年運動に対する扱いはどうであろ うか……老年碩徳は昔日のように青年運動を敵視しないで、暖かい老少同楽的精神をもって青年事 業を引き立て庇護してほしい。青年は決起せよ!老徳は擁護せよ!」。「青年運動의 必然性과 그의 価 値(青年運動の必然性とその価値)」(『仏教』、仏教社、1931 年)5-7 頁。
16 李英宰『朝鮮仏教革新論』(『朝鮮日報』、1922 年)。