はじめに
中国では、労働市場に大きな影響を与える労働力の供給形態として大学新卒の就業と農 村労働力の都市部への移動(出稼ぎ)がある。失業問題として、国有企業のリストラに伴
う「下南」(解雇)問題が1990代後半から2000年代初までに深刻な問題であったが、近年、
高等教育の拡大政策や戸籍制度の緩和政策などによって、大学新卒者の失業問題と都市部 のインフォーマルセクターで暮らす「農民工」問題がより深刻である。失業問題について は、トグロ(1997)は、高学歴失業者が現れている問題は、教育制度の著しい量的拡大、
とくに高等教育(大学教育)の急激な拡大に疑問を投げかけている。しかしながら、中国 労働市場の就業行動と労働力移動については、労働市場の需要と供給問題だけではなく、
急速な経済成長に伴う所得格差、あるいは地域問の賃金格差も大きく影響する。もちろん、
多民族国家であるため、中国の民族労働市場は、民族の経済と社会状況によって、大きく 異なる可能性がある。その意味で、民族別就業行動と労働力移動に関する研究は、経済学 だけではなく、経営学、社会学、人類学、民族学など様々な分野と関係している。
中国国内では、就業行動または労働力移動に関する研究が数多く行われたが、民族に焦 点を当てた地域労働市場に関する研究は稀有である。本章の主な目的は、経済学における 就業行動と労働力移動に関する理論的枠組みの形成と発展を吟味し、それに関する内容、
成果から政策的示唆と問題点などを整理することである。本章では、人口・労働力移動に 関する代表的理論とモデルを中心に、就業行動理論と民族別労働力移動に関する実証研究 の内容と成果を紹介する。
2−1.国内・国外の人口・労働力移動に関する先行研究
2−1−1.ルイスの二重経済モデル1
伝統的な労働力移動理論では、農業から工業への労働力移動を決定する最も重要な要素 は賃金格差であると指摘した。その代表的な理論は、ルイスの二重経済モデルである。ル イスの二重経済モデルでは、一国の経済は伝統的な農業部門と近代的な工業部門から構成
されている。伝統的な農業部門には限界労働生』准性がゼロに近い過剰労働力が多く有化し、
近代的な工業部門には市場の競争原理が機能し、労働者の生存するために必要な賃金率と 完全雇用、資木家の利潤最大化行動が存在する。伝統的な農業部門からの安価がつ雑富な 労働力の供給により、近代的な工業部門は急速な成長を続ける一方で、農業部門は過剰労 働力を減らし、限界労働生産性が高まっていく。農業部門の限界労働生産性が工業部門の 賃金率に等しくなると、経済全体は二重構造から新古典派の世界への転換点を通過するこ
とになる(Lewis,1954;Ranis and Fei,1961;南、1970)。ルイス・モデルでは、農業か ら工業への労働力移動を決定する最も重要な要素は賃金格差である。ところが、ルイスが 想定している状況は、二重経済の中で、近代的な工業部門には失業率が存在せず、完全雇 用である。現実的には、中国の都市部には高い失業率が存在しているにもかかわらず、農 村から大量の余剰労働力が都市への移動を継続している。
2−1−2.人的資本理論
「人的資本」は、人間に教育・訓練を施すことによって知識や技能が体化され、将来よ り高い生産力を生み出す資本とみなしたものである。人的資本理論は、この人的資本概念 を新古典派労働市場論に組み込むことによって、ルイスの限界生産力説では現実の労働市 場の動向を十分説明できないという問題を解決した。すなわち、人的資木理論は、賃金と 限界生産力が競争的労働市場のもとでも短期的には乖離し得ることを限界牛産力説の枠組 みに沿って論理的に明らかにした。さらに、有能な人ほどより多くの教育・訓練を受ける のはなぜか、雇用調整があっても良質の労働力ほど安定的な雇用を享受できるのはなぜか、
若年労働者が中高年労働者より流動的なのはなぜか、質が高い労働者ほど労働市場情報を 入手するための投資量が多いのはなぜか、といった経験的事実に対する回答を伝統的な経 済理論の枠組みの中で明らかにしてきた(石田等、1978)。
人的資本理論2の考えによれば、労働力移動は便益の最大化と費用の最小化を同時に求 める合理的な経済人が費用・便益の損得を勘定して移動した個々人の単なる集計である。
ある期間内において移出地と移入地の便益格差の割引現在価値から移動に伴う費用のそれ を差し引いた純便益の合計が大きいほど、労働力が地域間で移行する傾向が上がる。この 場合の便益は現金所得だけではなく、近代的なアメニティや自然環境から得られる満足感
も含まれる。 一方の移動費用は交通費や空間移動と就職活動に伴う機会費用のほかに新し い生活環境への適応、家族と友人との別れなどに生ずる不効用も考慮される(Sjaastad、
1962)。便益と費用は移動の全期固にわたるものであるため、全就業期間の純便益は以下の ように定式化される。
〃
M3、ノーΣ(γノ、
=1
γ、、)・ヅ㌧Σ(Cノ、
=1
C 、)・ 〔
ここで、〃〃は純便益の合計、γは便益、Cは移動費用、rは割引率、Cは移動して従業 する期間、ノとノはそれぞれ移出地と移入地を表す。このモデルによれば、地域問労働力 移動に伴う純便益の合計は、現存の賃金格差と費用格差だけではなく、移動してからの就 職期間や割引率とも強く関係する。その結果、年齢が高いほど、残りの就職期間が短く、
期待総便益が少なくなるのに対して、移動に伴う転職や職業訓練に必要な費用、また新し い環境に適応するための心理的負担による不効用が若年者より大きいため、純便益は、移 動する時点の年齢の増大によって減少する。それに伴って、労働力は賃金の低い地域ある いは部門から高い地域あるいは部門に移動する。地域間で人的資本への報酬が異なるので あれば、人々は低い報酬率の場所から高い報酬率の場所へと移動する。その結果、地域間 の賃金格差は縮小していく。しかし、開発途上国では、その格差が縮小しない。都市部の 就業状況は、ルイス・モデルで想定した完全就業に程遠く、高い失業率の存続とスラムの 拡大を特徴とする過剰都市化は大きな問題となっている。この現実問題に対して整合性の 高い説明を与えたのはトグロの確率雇用モデルである。
2−1−3.トグロの人口移動モデル3
トグロの人口移動モデル(Todaro,1980)によると、農村から都市への移動は実際の賃金 格差ではなく、期待賃金格差によって決まる。期待賃金格差は都市と農村間の実際の賃金 格差と都市部門で雇用を得る確率を掛けたものと定義できる。その上で、トグロの人口移 動モデルは労働力移動とそれを誘因すると想定される期待賃金との関係を数式で示すと次 のようになる。
グ(・)一∫、1。[ρ(1)い)一γ、(1)1・■ ・1一・(・)
ここで、V(0)は農村と都市間の期待所得格差、Yu(t)及びYr(t)は都下打と農村で雇用を得 た場合の個人の平均実質所得、nは移動者が考える時間軸トの期問、rは移動者の時間選 考を反映した割引率である。p(t)は移動者がt時間内に都市雇用を得て平均水準の所得を 確保する確率、C(0)は移動に掛かる費用を表す。このモデルは、都市部に高い失業率が存 在しながら、農村・都市間の労働力移動が持続し拡大するメカニズムを説明するのに優れ ている。しかし、移動における個人の選択性、つまり、若年者、高学歴者、特殊な技能の 持ち主であるほど、移動する傾向が強まるという現象に対しては、理論的な説明が与えら れていない(厳、2005)
2−1−4.プッシュープル理論4
国際的労働力移動を説明する最も代表的な理論は、プッシュープル理論である。プッシ ュープル理論によれば、人々が人口密度の禍密な地域から人口のまばらな地域へと、ある いは低所得の地域から高所得の地域へと移動する傾向を強調し、ないしは移動を景気循環 にともなう景気変動に結びつけて考えている。しかし、現実には、オランダやドイツのよ うな移民受け入れ国は、世界でもかなり人口の凋密な地域である(S・Cast1es and M・J・
Miller,1993)。プッシュープルモデルでは、なぜある集団の移動者は別の国に行かないで この国にきたのか、たとえば、なぜ中国朝鮮族は伝統的な移民受け入れ同ではなく、人口 密度の欄密な地域である韓国へ移動するのかを説明できない。多くの研究者は、移動は」
般的に、宗主国・植民地関係の他に政治的影響、貿易、投資、あるいは文化的な結びつき などの送り出し国と受け入れ国との間の以前からの絆に基づいて発生すると示唆する。ま た、国家間移動において、マクロな要因としての制度的な要因、ミクロな要因としての移 動者のネットワークの役割を強調する。
新古典派の伝統的な立場では、労働の国際移動は送り出し国にも、受け入れ国にも、同 様に利益をもたらすと考えられてきた。低賃金国よりの労働力の移入は、受け入れ国にお ける稀少な生産要素の増加を意味する。そして、送り出し国では相対的過剰な要素の減少 により、両国間に生産要素の配分が行われ、両国の利益になるとされてきた。近代経済学 でも、このような新古典派に批判的な立場が多く存在する。発展途上国の人的資本形成を 重視すると、労働力移動の影響はマイナスの効果しかない。 「頭脳流出」に代表されるよ
うに、発展途上国の教育投資などが無駄になり、稀少資源が先進国に奪われてしまう。ま た、外国人労働者の送金の問題にしても、発展途」二[司の資本形成には役立たないと考える