1945年8月、敗戦直後の日本の経済は混乱の状況であった。そうした「混沌」
とした時代の中で、日本人に対して民族的なマイノリティであった在日朝鮮人は、
いかにして日本で生存するための経済的要件を獲得していったのか。また新しく
「秩序」や「安定」が形成されていく過程の中で、どのように在日朝鮮人はそれら に対応したのか。
本章では、戦後すぐの新しい時代の中で、「秩序」や「安定」に対応するために 生まれた団体として、朝鮮人の同業者組合を取り上げる。朝鮮人の同業者組合は産 業界で朝鮮人を代表する組織でありながら、朝鮮人連盟(朝連)や朝鮮人総聯合会
(総連)、大韓民国居留民団(民団)などの民族団体とは異なり、日本の産業界で 日本人の経営者と労働者と協同・調整を行っていた。ゆえにそれら同業者組合は、朝 連や総連などの民族団体と成目的やそこでの活動が相当異なっていたと考えられる。戦 後の在日朝鮮人の同業者組合を研究することで、敗戦後の日本の経済復興の中で、在日 朝鮮人が日本人といかなる関係を築き、また経済社会変化の中で、どのような活動を展 開していたのかを明らかにすることが可能になるのではないだろうか。
日本の敗戦直後から、日本各地で朝鮮人の同業者組合が多数誕生した。例えば 1947年2月、「朝鮮人愛知県土木建築請負業組合」が「三一革命記念」の広告を掲 載し1、同年3月、神戸市長田区において「朝連兵庫県土建協同組合」が結成してい る2。また東京においても1948年5月「東京朝鮮皮革加工工業協同組合」が広告を 掲載している3。もちろん京都においても本章で扱う繊維産業関係の組合の他に、
1948年12月「京都朝鮮人菓子商工協同組合」の広告4が、1953年10月には金属製 品関連の業者による「京都金剛商工協同組合」の広告が登場している5。このように 左派系の在日朝鮮人新聞紙『解放新聞』上の記事においても、敗戦直後に同業者組 合を数多く結成しようとする全国的な朝鮮人の動きを見ることができる。
1 「三一革命記念萬歳!朝鮮解放萬歳!」(『解放新聞』1947年2月25日2面)。
2 「朝鮮人日本人 土木業者ニ告」(『解放新聞』1947年3月25日2面)。
3「高級皮革カバン 東京朝鮮皮革加工工業協同組合」(『解放新聞』1948年5月25日1 面)。
4 「京都朝鮮人菓子商工協同組合」(『解放新聞』1948年12月9日12日1面)。
5 「京都金剛商工協同組合」(『解放新聞』1953年10月13日1面)。
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本章では朝鮮人の同業者組合を中心に整理することで、1945年から1959年まで の京都の繊維産業(西陣織、京友禅)における在日朝鮮人の労働とその実態につい て考察する。そしてこの章は、続章で扱う1960年代以降へと続く事例研究への基 礎知識を提供するものとなるだろう。本章で論じようとする組合とは、西陣織産業 の朝鮮人の同業者組合(朝鮮人織物組合、第二組合、相互着尺組合)、および、京友 禅産業の蒸・水洗工程をになった同業者組合(蒸・水洗組合)である。京都の主要 新聞であった『京都新聞』や朝鮮人団体が発刊した『解放新聞』と『朝鮮民報』、ま た各組合作成の資料、京都市の行政資料、個人が作成した資料、インタビューで得 られた語りなどをもとに、京都の繊維産業における朝鮮人の同業者組合を論じる。
1節では西陣織産業における朝鮮人の同業者組合について考察する。朝鮮人織物 組合がいかにして誕生したのかを論じる。そして同時期に存在していた組合(第二 組合、相互着尺組合)についても考察する。続いて敗戦直後のこの時期、西陣織産 業において朝鮮人が経営者・労働者としてどのように日本人から見られ、どのよう に扱われていたのか。それら朝鮮人が抱えていた状況を解消すべく、朝鮮人の同業 者組合がどのように行動を展開したのかを見ていく。
敗戦直後より、西陣織産業においては長時間労働や労働環境の問題が問題視され てきた。この労働問題に朝鮮人の織物組合はいかに対応したのか。またその実態と はどのようなものであったのかも、ここで扱う。また1950年代後半から西陣織産 業において組合の整理・一本化が模索され始める。このとき、朝鮮人の組合がどの ように対応したのかもここで扱う。そして後の朝鮮人織物組合と相互着尺組合の組 合員数の推移と彼らの居住の状況について、組合員名簿や1970年実施の『国勢調 査』をもとに論じる。
続いて2節では京友禅産業における朝鮮人の同業者組合として、日本人経営者も 加盟した蒸・水洗組合について考察する。この蒸・水洗組合がいかなる組織であっ たのか推察する。そして1950年代、京友禅産業界において、同組合がどのような 活動を行っていたのかを、新聞資料をもとに論じる。その後の蒸・水洗組合の組合 員数の推移と彼らの居住の状況について、『組合員名簿』や1970年実施の『国勢調 査』をもとに考察する。
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第
1
節 西陣織産業における朝鮮人の同業者組合(1) 朝鮮人西陣織物工業協同組合(朝鮮人織物組合)の結成
西陣織産業界で朝鮮人の同業者組合の中でも、最も早く誕生した組合として、朝 鮮人西陣織物工業協同組合(朝鮮人織物組合)がある。京都新聞の記事上では、い つ結成されたのか確認することができないが、個人の記録に、いつ結成されたのか 記述が残されていた。とりわけ、この朝鮮人織物組合の組合長をかつて務めた金日 秀氏の長男金泰成氏作成の資料は、結成の年度から日付まで非常に詳細に記録して いるので、ここで引用する。
1945年10月15日「在日本朝鮮人連盟」が結成。同日京都においても、円 山音楽堂で「朝連京都府本部」の結成記念大会が行われた…(中略)…
朝連京都府本部が体制を整えたのに引き続いて、1946年1月17日、「朝連 京都府本部西陣支部」が結成され、特に「社会部」を設置した。
そして翌2月17日には、社会部を母体にして「朝鮮人織物研究準備委員 会」を設け、更に三月には、これを「朝鮮人西陣織物工業組合」と名称を変え て組合の設立を決議した。そして、4月20日に「朝鮮人西陣織物工業協同組 合」を正式に設立したのである。
当初は、朝連西陣支部内を組合事務所としたが、その後いち早く、京都市上 京区笹屋町通浄福寺西入に土地・建物を購入して、組合としての本格的な事務 所を構えたのであった。しかも、これは戦後の西陣業界で、本格的な活動を始 めた最初の組合であったのである6。
この金泰成氏の記録より、1945年から1946年にかけて、同業者組合設立の動き が在日本朝鮮人連盟京都府本部の傘下で見られ、1946年に朝鮮人織物組合が結成し たと考えられる。当初は朝連西陣支部を組合事務所にしていたが、その後、西陣の 桃薗学区の笹屋町通浄福寺西入に独立した土地と建物を持ったようである。
6 金泰成「「西陣織」と「友禅染」業の韓国・朝鮮人業者について」『京都「在日」社会 の形成と生活・そして展望』(第三回 公開シンポジウム資料)『民族文化教育研究
KIECE』(京都民族文化教育研究所 2000)31頁、「「西陣織」と「友禅染」業の韓
国・朝鮮人業者について」『京都「在日」社会の形成と生活・そして展望』(『新島会 配布資料』 2007)19頁、『同志社とコリアとの交流 ‐戦前を中心に‐』(同朋社
2014)187頁。
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また、この同業者組合が朝鮮人の西陣織産業経営者によって結成される背景につ いて、金泰成氏は以下のように語っている。
敗戦後すぐはね、ものは全部統制下になった。で朝鮮人は、日本人が受けて いる原糸7の配給を受けれなかった。それで朝鮮人の組合が必要になったんで す。だからね、戦前戦後直後からやってたHさん(C1氏の日本名)も、うち も全部ヤミ(ママ)やってたことになるんです8。
同様に朝鮮人織物組合初代組合長の孫にあたるC3氏の記録中にも、日付までは はっきりしないが、「朝鮮人は組合に属することができず、同年12月、朝鮮人織物 組合を設立し、(C1氏が)初代会長となり、朝鮮人は朝鮮人同士、助け合って行け る様な基盤となるものを作った」と記録されている9。
これら個人が残した記録での記述や彼らの語りが、組合設立経緯や時期に関して 全て正しいかどうかははっきりしない。しかし、1945年の日本敗戦後すぐに、西陣 織産業内で朝鮮人の同業者組合を作ろうとする機運が存在していたことが確かであ ると言えるだろう。また、その機運も西陣織産業業界内では、他の日本人の組合よ りも相当早かったのではないだろうか。
同業者組合設立の目的として、金泰成氏のインタビューでは、日本人業者であれば 受けることができた原糸の供給を、朝鮮人は受けることができなかったと語られてい た。この同業者組合を通して、合法的に(ヤミを通してではなく)原糸の供給を受け ることが可能になったと語っている。
しかし現段階では朝鮮人のみを対象とした原糸の供給制限なるものが、存在したか どうかは不明である。少なくとも食料配給に関しては、戦後日本で在留資格のある朝 鮮人であれば、日本人と同じカロリー量の配給を受けていた10。食料と同じように着 物製品の原料となる原糸の場合も、日本人と朝鮮人は同様の統制と配給を受けた可能 性がある。
それと同時に戦中から敗戦後も、日本人も朝鮮人も生活維持手段として「ヤミ」商 売をする者が多かった。経済安定を図るため、日本の警察は「ヤミ」の取り締まりを
7 主に原材料となる生糸。
8 金泰成氏へのインタビュー(2016年5月13日、同志社大学志高館にて実施)。
9 C3『時代の先駆者 C1氏の歩み』(大阪学院大学卒業論文 1987)32頁。
10 金太基『戦後日本と在日朝鮮人問題 -SCAPの対在日朝鮮人政策1945~1952年-』(勁 草書房 1997)189-194頁。