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二、ワキの成長

ドキュメント内 野上豊一郎の能楽研究 (ページ 72-75)

ように出来て居る」と断じている。舞台芸術としての能の特色を、ヨーロッパリアリズム劇のあり方に照らして、大づかみに言い切ったところに、この論の新味があったろう。「ワキは見物人の代表者」という表現は、論述の過程でいわば副産物のように提示されたことが読み取れる。そして、次の段階では、よりこみ入った作品の分析がなされることになる。

た。すべて此の種の主演者の演戯(主として舞)を見せる為の曲に於いては、ワキは要するに一見物人 0000に過ぎない。…これがワキ本来の行き方であった。

説明が丁寧になっている分、例曲を〈東北〉一曲に絞っている分、以前よりわかりやすくなっており、また、傍線部のように「ワキの役当」の軽重に歴史的相違が存することを示唆したうえで、波線部のように、該当する作品を限定してもいる。ここに限らず野上は、以前の論に修正や補足を施しつつ再説を繰り返すことで、次第に成熟した論にまで整えていった。さて、冒頭に続く本論では、シテ以外の登場人物、なかでもワキの比重が重い現在能を取り上げ、「ワキの成長」との観点から分類したうえで、①「戯曲的成分の増加は、ワキの権能の拡大と一致する」、②結果的には能は「完全に戯曲的にはなり得なかった」とまとめる。見物人の代表を脱したワキは、次の三段階にわたって成長を遂げたという。野上は、第三段階目の中でも〈谷行〉や〈壇風〉を戯曲として最も発達した形と考えた。第一段階  シテの演技と交渉を持つ。  例〈熊野〉・〈船弁慶〉第二段階  対話を主とする。  例〈正尊〉・〈安宅〉第三段階  シテを凌駕する。イ、シテに舞働をさせず、常にワキが展開をリードする。  例〈接待〉ロ、ワキが演技の主体となり、シテはほとんど何もしない。  例〈張良〉・〈羅生門〉ハ、性格の重みでシテを圧倒する。  例〈谷行〉・〈壇風〉個々の分析に深入りすることは避けるが、野上の戯曲観に基づく限り、①の結論はおおむね納得しうる見解といえる。一方、②の結論には筋が通りにくい面が見受けられる。ワキがシテと深い交渉を持つ作品であっても、対話を通じてシテと対立する作品であっても、「舞」や「舞働」

など主要な演技をシテが担当する〈熊野〉・〈船弁慶〉・〈安宅〉等は、シテ中心の曲に含めてよいとして、「対話が主要部を成して」おり、「戯曲的に二つの原理を対照させたもの」と明言する〈正尊〉や、「ワキの支配力は、初めから終まで行き亙って」いるのに対してシテは「殆んど木偶の如き状態」と述べる〈接待〉、「ワキがシテに入れ替わった能」とする〈張良〉・〈羅生門〉等は、論旨からみて「戯曲」たる資格を十分有するはずである。ところが、まとめに際して野上は、「〈安宅〉〈正尊〉に於いて見るが如く、また〈谷行〉〈壇風〉に於いて見るが如く、最も戯曲的な能といえども、完全に戯曲的にはなり得なかった」とやや強引に結論を導き出してしまう。野上の真意がどこにあるのか、疑問を禁じ得ない。しかし、これは論の破綻とみなすべきではなく、説明が十分なされていないためと思われる。次節で取り上げる《ワキの舞台的存在理由》や昭和十八年(一九四三)刊行の『能楽全書』第一巻所収の「能楽概論」等を参照すると、先の諸曲について言説を多少変化させながらよりきめの細かい分析を行っており、要するにこれらの作品は〈能としては戯曲的であっても本格的な戯曲とは異質だ〉と考えていたことがわかる。とはいえ、この段階で説明不足なのは確かで、野上の論述には、ズバリと本質を指摘する反面、部分や例外に関して緻密さや整合性を欠くところがあるのは否めない。《能の戯曲的傾向》は、本来は《能の主役一人主義》の補足的論考であって、総論に対する各論に相当する。ワキ以外の人物にも言及するが、主としてワキが重要な役割を演じるタイプの能を扱う論点が新たに加わった。しかし、いまだに決定稿ではない。さらなる改訂を施して総合的にワキの論を展開しているのが、次の《ワキの舞台的存在理由》である。

ドキュメント内 野上豊一郎の能楽研究 (ページ 72-75)