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ワキ見物人代表の展開  一、ワキ見物人代表の初出

ドキュメント内 野上豊一郎の能楽研究 (ページ 68-72)

まとめ   — 門外漢の系譜

第一節   ワキ見物人代表の展開  一、ワキ見物人代表の初出

野上がワキ見物人代表をはじめて唱えたのは、大正十二年(一九二三)、雑誌『思想』二月号に発表した論考《能は一人本位の演戯である、附、子方使用の心理について》においてである。これを改稿したのが《能の主役一人主義》で、昭和五年刊行の『能

  A能は主役一人の演戯を見せるものである。 野上の主張は次の三項目に集約できる。 役一人主義》に基づいて、初期の理論を検討する。 と題して別論考とし、同書に収録)。初稿と改訂稿は若干異なるが、論旨の上では大差ない。ここでは、《能の主 −研究と発見』に収録されている(子方の論は《子方の舞台的効果》

B  能は戯曲ではない。C  A・Bは、曲中における登場人物の役割分析によって論証しうる。この主張は、論考の冒頭に簡潔に述べて以来、補足や改訂を加えつつも、基本的に変更することはなかった。以下に、よく知られている冒頭箇所を引用しよう。

能は主役一人の演戯を見せることを建前にしたものである。これが私の能に対する見方の根本である。そうしてこれは結局、能は戯曲ではないという断定にまで私たちを導く。何となれば、戯曲であるためには、少くとも私たちの今日の理解に於いては、其処に二つ以上の思想を代表する性格の対立が存在しなければならぬから。然るに能には原則として此の対立がない。シテとワキは一見対立者の如くであるが、本質的には決して対立するものでない。シテ(為手)は読んで字の如くする人 000である。演戯者である。併しワキ(脇)は之と対立する第二の演戯者ではなく、文字通りに脇にいて 0000見る人である。圏外の傍観者である。これは理窟ではなく事実である。

野上の理論を理解しようとする時のポイントが二点ある。第一点は「戯曲」を定義した傍線部である。野上は「戯曲」には「二つ以上の思想を代表する性格の対立が存在する」ことが必要だとした。説明を一切抜きにした断定であり、この規範に照らしてあらゆる能を分析する。「劇」の概念が広がっている現代からみれば、「戯曲」の定義そのものの妥当性が問われるはずだが、野上にとっては動かしがたい自明の前提であったと思われる(この問題は後に取り上げる)。第二点は、論理よりも事実を優先するという波線部である。ここで言う「事実」が「舞台上の実際の動き」を意味することは、右の引用に続く〈田村〉・〈松風〉・〈景清〉を考察する箇所に明らかである。はじめに、「見物人の代表」なる表現がはじめて登場する〈田村〉から引用しよう。

その間(前シテが演技をしている間)旅僧は指ざされるままに景色を眺めたり、物語に耳傾けたりするのみで、自分から働きかける何物をも持っていない。…(後場になると)旅僧はもはや全く舞台に用事のない人で、殆ど木偶の如く柱の蔭に坐って、一言半句の言葉をも発しない。役者として斯んな登場の仕方をするものが他にあるだろうか。少し皮肉な云い方ではあるが、彼は私たち見物人の代表者として出ているのである。そう見るよりほかに、彼の登場の仕方に対する解釈を私は知らない。(カッコ内は筆者)

「自分から働きかける何物をも持」たず、坐ったまま「一言半句の言葉をも発しない」ワキは、シテと対等な対立者ではない。ではワキの役割は何なのか、と考えた時に出てきたのが「見物人の代表者」ではなかろうか。そう表現する理由は明確には述べられないが、文脈から判断すると、この場合〈シテの行為を黙って見物している点で観客と何ら変わるところがない〉程度の意味合いかと思われる。次いで、ワキ・シテ・ツレの役割比重を述べる〈松風〉では、ワキは〈田村〉同様見物人の代表者であり、ツレはシテと一心同体の如くではあるが、一曲の主題表現は、「実演の上に於いて…シテ一人に依って担任され」るとして、「実演」を判断基準として重視する。四人の登場人物について考察する〈景清〉の解釈も同様である。すなわち、ワキ(里人)は、娘の心情を推し量って景清に逢わせ、軍物語を誘い出す意味では「戯曲的に余程進歩したワキであるかの如く思われるかも知れないが、事実は必ずしもそうでなく」、「舞台上の所作としては」、娘を景清に引き合わせるだけで、「あとはシテの演戯の邪魔にならぬ程の距離を保って一隅に坐っているきりである」と述べている。ここでも、台本上の役割より、「舞台上の所作」を「事実」として優先していることがわかる。このように、台本に即して登場人物(ワキだけではない)の役割を確認し、そこに演技上の軽重を重ね合わせ

ていくという二段構えになっており、後者をより重視する。この方法は、例示した三曲に関しては十分説得力を持つが、複雑な筋を持つ現在能分析で用いられた場合、台本分析と舞台分析のすりあわせに若干無理が生じる場合があり、ややもすれば野上の論を複雑にする要因となっている。だが、そうであっても、野上の姿勢には注目すべきだろう。次の発言は彼の能の見方をよく示すものである。

併し注意を要することは、此の発言(ワキの発言)の度数の多いことを以って直ちにそれが役割の重要さを意味するものときめてはならないことである。若しそれが簡単にきめられるならば、能は本 テクスト文を読むだけで研究が出来る筈である。けれども、事実に於いて、能は決して読むべきものではない。正しく能を知るためには、ぜひとも舞台の上 0000でそれを見、且つ聞かねばならぬ。私には舞働 00と音曲 00を除外した能というものは実感することが出来ない。言葉数の多少の如きは実はそれほど重大な問題ではなかったのである。(《能の戯曲的傾向》。カッコ内筆者)

台本分析を通じて判明することは、劇のすべてではない。とりわけ、楽劇である能は舞や囃子や謡の比重が大きいのである。同様の発言はほかにも多く見られるが、演じられる総体としての能を解明しようとする姿勢が野上にははじめから明確にあった。役の軽重でもセリフの分量でもなく、器楽伴奏による舞事や舞台上の演技の総量を特に重視するのは、そのためである。本題に戻ろう。野上は、シテと他役との舞台上における役割を明らかにすべく、二人・三人・四人が登場する三曲を取り上げた結果、登場人物の人数とは無関係にシテ中心主義が認められると結論したのであり、決してワキについて述べるのが主体だったわけではない。また、夢幻能に限定しないことにも注意される。同書後半では、世阿弥の『能作書』(『三道』)に模範曲として掲出する二十九曲を、「例外なしにすべて役者一人の演戯を見せる

ように出来て居る」と断じている。舞台芸術としての能の特色を、ヨーロッパリアリズム劇のあり方に照らして、大づかみに言い切ったところに、この論の新味があったろう。「ワキは見物人の代表者」という表現は、論述の過程でいわば副産物のように提示されたことが読み取れる。そして、次の段階では、よりこみ入った作品の分析がなされることになる。

ドキュメント内 野上豊一郎の能楽研究 (ページ 68-72)