第二部 事例編(1)
民主主義への移行と市民社会
第3章 フィリピン市民社会の歴史的変遷
はじめに
内発的な視点で見れば、フィリピンにおける市民社会の萌芽は、早くも植民地時代に見出 すことができる。フィリピンではこの時期、救援活動や福祉活動を行う市民団体や植民地政 府に改革を求める市民団体が活動を開始した。
戦後、アメリカから独立を果たした後は、アメリカ統治期に導入された民主主義制度の下 で、フィリピンの市民社会は比較的良好な成長を遂げてゆく。その成長は、マルコス戒厳令 体制の登場によって一時的に停滞を余儀なくされるが、過酷な抑圧にあってもフィリピンの 市民社会は粘り強く生きながらえ、1980年代の民主化運動の下地を築いていった。
本章では、一方で植民地政府を含めた国家との関係を意識し、他方でヘゲモニー闘争とい う側面に留意しながら、スペイン植民地時代から1980年代に広範囲な民主化運動が形成され るまでの市民社会の盛衰の歴史を時系列的に整理する。いわば本章は、本論文で提示した基 本的な視座を援用して体制変動過程に至るまでの市民社会の歴史を考察し、次章以降の分析 への橋渡しをすることが目的となろう。
3−1 スペイン・アメリカ植民地時代
スペインは、1571年に植民地政策のための根拠地をマニラに置き、キリスト教化を推し進 めながら支配地域を拡大していった。17世紀までには、ルソン島からミンダナオ島北岸部が スペインの支配下に置かれるようになる。以後、1898年に米西戦争でスペインがアメリカに 敗れるまでの約300年間、フィリピンはスペインの植民地支配下に置かれた。
19世紀後半になると、ヨーロッパ帰りの「イルストラーダ」(ilustrados)と呼ばれる有産・
知識階級を中心にいわゆる「プロパガンダ運動」(Propaganda Movement)が形成される。これ は、報道・自由・集会の自由などの市民的権利や社会的・経済的自由をスペイン植民地政府 に要求した市民運動であり、その一手段として『ラ・ソリダリダット』という機関紙が発刊 された1。
プロバガンダ運動の中心的人物の1人であったホセ・リサール(Jose Rizal)は、
1892年に「フ
ィリピン同盟」(La Liga Pilipina)を創設する。同組織は、平和的な改革を求める市民団体であ ったが、スペイン当局によって政治団体として危険視され、さらには結成直後にリサールが 逮捕されたため、数カ月で活動停止に追い込まれた。こうした平和的な改革運動の挫折は、
ボニファシオ(Andre Bonifacio)を中心に武力革命によってフィリピンの独立を目指す「カテ ィプナン」(Katipunan)という秘密結社の結成へと結びついていった2。
非営利活動に目を向けてみれば、この時代には救済活動や福祉活動に従事する市民団体が 出現し始めた。その背景には、19世紀半ばから後半にかけて世界的に普及したフィランソロ ピーの影響があった。フィランソロピーとは、弱者救済を目的とする福祉援助のことである。
この時期のフィリピンのフィランソロピーは、スペイン統治期に普及したキリスト教の影響 を強く受けていたため、教会のイニシアティブで孤児院や貧民救済所、学校、病院などの施 設が設立された3。コーテンの言う「第一世代」のNGOの出現である(表3−1)。
フィランソロピーは、フィリピンにおける社会組織の主要単位であったエリート家族をも 刺激した。エリート家族は、市民団体を作ることで社会的威信を高めると同時に行政官の役 職を得て自己の経済的利益を確保することができた。同様にカトリック教会も、慈善組織や 慈善施設を作ることで、有力なエリート家族から支持を調達し、その宗教的なヘゲモニーを 維持することができた4。こうして有力なエリート家族とカトリック教会のフィランソロピス トが、飢餓や災害の救済で重要な役割を果たしていたことから、スペイン植民地政府は「慈 善事業・公衆衛生全般検査」(General Inspection of Charities and Public Health)を設立するなど して社会福祉制度の整備を進め、フィランソロピー活動を支援していった5。
1898年に米西戦争でアメリカが勝利を収めたことで、以後、フィリピンはアメリカの統治
下に置かれることになる。アメリカ統治下では、フィリピン人エリートに対する融和政策が 採られたこともあって、スペイン貴族の末裔であったタベラ(Pardo de Tavera)らを中心に融 和的なサークルが形成される。1900年にこうした穏健的なグループは、フィリピンをアメリ カ合衆国の1州として究極的独立を求める「連邦党」(Partido Federal)を結成した6。他方で、「連邦党」に反対する勢力は、オスメニャ(Sergio Osmeña)やパルマ(Rafael Palma) らを中心に穏健的な独立運動を形成してゆく。彼らは、1902年に合法的な手段によって独立 を目指す「民主党」(Partido Democrata)の結成を試みる7。しかし、そのような目標を掲げる 政党の結成は合法的とはいえ新たな革命の動きを呼び起こす危険性があるとして、タフト総 督(William Howard Taft)に拒否され実現しなかった8。とはいえ、独立を求める合法的な運動 の出現は、1907年に即時独立を掲げる「国民党」(Partido Nacionalista)という政治政党の結成 へと結びついていった9。
アメリカ統治期には、アメリカ型民主主義の影響を受け、赤十字やYMCA、ボーイ(ガー ル)スカウトなどの自発的組織が相次いで誕生している10。非営利セクターに関する本格的な 制度の整備も進み、
1906
年には「フィリピン会社法」(Philippine Corporation Law)が制定され る。この法律によって宗教団体や福祉機関は、非営利セクターとして認可され、これらの団 体への寄付は控除の対象となった11。1915年には「公共福祉委員会」(Public Welfare Board) が設置され、福祉関連団体のコーディネートが行われるようになった12。こうした非営利団体に対してアメリカ植民地政府は、フィリピンの有力なフィランソロピ ストと個人的な関係を結んで資金援助を行った13。市民団体に強い影響力を持つエリート家 族の地位を強化して、政権を安定させようとする意図があったからに他ならない。パレデス が言う「植民地的クライアンテリズム」である14。市民団体は、アメリカの植民地戦略の一 翼を担う重要な存在であったと言えよう。
ローカルな相互扶助組織も、この時期に誕生している。
1915年に「農業共同組合法」(Rural Cooperative Bill)が制定され、植民地政府の管理下で様ざまな農業信用組合の設立が促されて
ゆく。
1924年までに46の組合が誕生し、そのメンバーは81,971人にまで増えていた
15。27年に
は「農民協同組合市場連盟」(Farmers Cooperative Marketing Association=FACOMA)、39年に は「消費者協同組合連合」(Consumers’ Cooperatives League of the Philippines=CCLP)という大
規模な組合が結成される。地方の信用組合の数もピーク時には570を数え、そのメンバーも
105,000に上った
16。こうした相互扶助組織は、アジア諸国で数多く見られる「民衆組織」(People’s Organization=PO)の原型と言えるものであった17。
1920年代から30年代になると、世界恐慌への共鳴もあって、闘争的な農民組合や労働組合
が形成されるようになる。そうした動きは、
29年に設立された「フィリピン社会党」(Socialist Party of the Philippines=SPP)と30年に設立された「フィリピン共産党」(Communist Party of the Philippines=CPP)を介して急速に拡大していった。
CPPは、創設に先立って「フィリピン労働者会議」(Katipunan ng mga Anak Pawis sa Pilipinas=KAP)という労働者組織と「全フィリピン小作人同盟」(Kalipunang Pambansa ng mga Magbubukid sa Pilipinas=KPMP)という農民組織を結成していた
18。CPPは、 1931年に非合法化
されたものの、KAPとKPMPを通じて労働運動と農民運動の拡大を図ってゆく。38年までに 中部ルソンでは共産主義に強く影響を受けた約40の農民組織が形成され19、19万人の労働者 がCPPの支配下に置かれるようになった20。他方、サントス(Pedro Abad Santos)によって設立されたSPPは、中部ルソンを中心に「一般 労働者組合」(Aguman ding Malding Talapagobra=AMT)という農民労働者からなる大衆組織を 結成する。AMTは、SPPの大衆機関であり、7万人の組合員を有していた21。1935年の第7回 コミンテルン大会で「上からの統一戦線」が打ち出されたことを受け、
SPPは38年にCPPに合
流し、CPPは名称を「フィリピン共産党」(Partido Kommunista ng Pilipinas=PKP)へと変更した。
また、AMTは、共産党が非合法化された30年代に大きく成長を遂げ、38年にはKPMPと連結 した22。
こうして大衆運動が拡大する中で1935年に誕生したコモンウェルス政府(独立準備政府)で は、反ファシズム統一戦線を形成する目的もあって反共から容共への路線変更が進み、ケソ ン大統領(Manuel L. Quezon)の下で「社会正義計画」(Social Justice Program)が採択され、
CPP
が要求する最低賃金や8時間労働などが保障されるようになる。しかし、その一方で、労働運 動が政治的闘争へと変容してきたことに鑑み、コモンウェルス政府は「労使関係裁判所」(Court of Industrial Relations=CIR)による強制仲裁制度を導入し、ラディカルな労働運動の弱 体化を目指した23。中部ルソンを中心に拡大する農民運動に対しては、
36年に組織された「フ
ィリピン国軍」(Armed Forces of the Philippines=AFP)を用いて鎮圧に乗り出す。他方で、懐柔策として農地改革を進める制度を導入するが、それらは十分な成果を挙げることができずに 終わった24。
3−2 戦後から1960年代前半まで
1946年にアメリカから独立を果たしたフィリピンは、1940年代末から 50年代にかけて、中
部ルソンを中心に「フクバラハップ」(Hukbo ng Bayan Laban sa Hapon=Hukbalahap)の反乱に 直面した。フクバラハップは、AMTとKPMPを中心にして1942年に結成された、PKPの抗日 ゲリラ軍である。戦後フィリピンでは、このフクバラハップが農民を取り込み、共産主義勢 力がその版図を拡大したため、国家は不安定な状態に置かれていた25。この時期は、こうし た共産主義勢力の拡大を阻止して体制を安定化させるために、様ざまな制度や組織が形成さ れていった。
フクバラハップの拡大は、まず独立したばかりのフィリピン政府に農民を直接的に支援す る制度の整備を促した。たとえば、キリノ政権(1948年〜53年)では、アメリカの支援を受け て「農業信用組合金融局」(Agriculture Credit and Cooperative Financing Administration=ACC
FA)が設立されている。ACCFAは、FACOMAを通じて組織された農民に低金利で貸付を行
うことを目的としたもので、59年までに502のFACOMAが組織され、国家政府による農民の コントロールが図られた26。マグサイサイ政権(1953年〜57年)では、フクバラハップの弱体化を狙って農村開発を進め るために、
1954年に「共同体開発計画協議会」(Community Development Planning Council=CDPC)、
56年に「大統領共同体開発機関」(Presidential Assistant on Community Development=PACD)が
新たに設立されている。CDPCとPACDは、それまで別個に運営されていた農村部の「共同体
開発」(Community Development=CD)に関するプログラムをまとめ上げることを目的とし、そ れらを通じて多くの市民団体の農村開発への積極的な参加が促されていった27。地域共同体 の住民の自立的な行動を支援する「第二世代」のNGOの出現である。続くガルシア政権(1957年〜61年)においても、農村開発を行う市民団体との協力関係は維 持され、1958年には農村開発を含め社会サービスを行う非営利団体に関する法律として「科 学法」(The Science Act)が新たに制定された。同法では、フィランソロピー活動の組織化を
促すために、科学技術や社会サービスの発展に貢献する民間団体に対する税控除が規定され た。同時に「国家科学発展庁」(National Science and Development Board=NSDB)が新設され、
民間団体の公式認定が行われるようになった28。
この時期、農村開発の分野では、フィリピン最大のNGOの1つである「フィリピン農村再 建運動」(Philippine Rural Reconstruction Movement=PPRM)が1952年に設立されている。
PRRM
は、「国際農村運動」(International Rural Reconstruction Movement=IRRM)の設立者であるイェ ン博士(James Yen)を中心にマニラの政治経済エリートによって結成されたNGOである。PPRMは、とりわけマグサイサイ政権と協力しながら、農村を中心に保健衛生や教育、社会
サービスを提供し、農村部におけるフクバラハップの拡大を抑える役割を果たしてゆく29。 マカパガル政権(1961年〜65年)も、PRRMの協力を得て、フクバラハップの活動が盛んな中 部ルソンで復興プロジェクトに取り組んだ30。他方で、フクバラハップの指導者は、都市部での労働運動の再編に努め、1945年に「労働 組織委員会」(Committee on Labor Organization=CLO)を設立したことで、日本占領下では禁止 されていた労働運動が次第に活気を取り戻していった。同委員会は、
46年に「労働組織会議」
(Congress of Labor Organization=CLO)へと名称を変え、78の支部連盟を傘下に治め、110万人 のメンバーを有するまでに成長する31。初の全国的な労働運動であるCLOは、
4万人の労働者
を動員して49のストライキを各産業で行い、その多くが勝利を収めた32。こうした労働運動の台頭を受けてフィリピン政府は、
1953年に「産業平和協定」(Industrial Peace Act=IPA)を制定する。同法によって、労働者のストライキ権、団結権、団体交渉権が
正式に承認された。翌年には「全国労働組合」(National Labor Union=NLU)や「労働組合連盟」(Associated Labor Union=ALU)、そして「フィリピン労働組合センター」(Philippine Trade Union
Center=PTUC)などの非共産主義系の連合組織が労使交渉を優位に進めるために結成された
33。元来、反共であったカトリック教会は、社会主義と共産主義が台頭する1930年代に「ベラ ルミン証言組合」(Bellarmine Evidence Guild)や「チェスタートン証言組合」(Chesterton