おいては、都市的な市街地あるいは施設がない 場合や、広範な市域に総数で 3 万人の人口が散 在しているような場合であっても、「市」となっ ているという実情がある。逆に、市域の拡大も 進んでおり、府県より広域な市が誕生する※ 7 など、従来の「都市」概念と行政単位としての
「市」の概念が結びつかなくなっている。府県 の中には数個の基礎自治体(市町村)しか存在 しなくなっていくであろうという状況の下、府 県の存在意義が薄れており、道州制の議論が盛 り上がるのもむべなるかなである。政令指定都 市も、合併の特例により、人口 70 万人以上で あれば指定されることのようであり、指定を受 けるための広域合併が進められたが、政令市の 場合は、区(行政区)が設置され、当該政令市 の意向次第ではあるが、区毎に地域振興を図る ことも可能である。基礎自治体ではなくとも従 来の「都市」の概念に見合った行政組織の構築 を図るべきではなかろうか。※ 8
6 事例研究 == 富士市 ==
旧両都市の融合を模索し続ける例
昭和 41 年(1966 年)11 月 1 日に、吉原市、富 士市(合併前の富士市、以下「旧富士市」と記 述する)、鷹岡町の 2 市 1 町が合併し新しい富士 市が誕生した。その後、平成の合併により、平 成 20 年(2008 年)11 月 1 日に富士川町を合併編 入し、現在の富士市の区域となっている。なお、
本稿が都市と都市との合併を対象として論考を 行っていることから、本稿の検証はもっぱら昭 和 41 年の合併のこととなる。同様の理由によ り、吉原市と旧富士市の合併としての検討が中 心となり、旧鷹岡町及び旧富士川町のことを対 象としていない場合が多い(特に旧富士川町の 場合は、データや図などで含まれていないケー スがあるが、合併前の資料を基にしているのが 理由である)と思われるので、前もってお断り しておく。
6. 1 富士市の誕生
6.1.1 岳南地域について、その歴史など 6.1.1.1 岳南地域
富士市、富士宮市等の地域一帯は、一般に「岳 南地域」と呼ばれている。富士山を富嶽(富岳)
とも呼ぶが、その「岳(嶽)」からの名称である。
本来、岳南地域とは、富士山南麓で富士川以東
(左岸)の地域を指した地名のようである。旧駿 河国富士郡の区域に相当する。現在の市町村で は、富士市、富士宮市及び芝川町(平成 22 年(2010 年)3 月 23 日に富士宮市に編入合併予定)の区 域に相当するが、平成 20 年に富士市と合併した 旧富士川町の区域及び芝川町のうち内房(うつ ぶさ)地区(旧内房村)の区域は、ともに富士川 右岸(西岸)であり、庵原(いはら)郡に属して いた。なお、商用電源周波数が富士川を境界に して 50Hz(東京電力)と 60Hz(中部電力)に分 かれているため、富士市及び芝川町は、同一市 町内で異なる電源周波数を有する珍しい地区で ある※ 9。また、富士市の浮島地区は、昭和 31 年(1956 年)4 月 1 日に駿東郡原町の一部が編入
(境界変更)されたものである※ 10。しかし、市 町村の合併が進み、編入された区域を含む現在 の行政区域(富士市、富士宮市及び芝川町)で「岳 南地域」と呼ぶことが一般的となっている。
6.1.1.2 富士市の地勢
富士市は、富士山の南麓にあり、北に秀麗富 士を仰ぎ、南に駿河湾を望み、西に日本三大急 流の一つである富士川が流れ、東は沼津市に接 している。北部山麓地域は富士箱根伊豆国立公 園に属し、南部には万葉歌人山部赤人に謳われ た田子の浦を擁し、また、かぐや姫にちなんだ 地名や伝説が数多く残されているなど、歴史と 景観にあふれた都市である。
市域の東から北部にかけては富士山及び愛鷹 山(あしたかやま)の火山斜面地帯である。富 士市域には富士山八合目(海抜 3,421 m)があり、
そこから海抜 140 m付近まで急勾配となってお り、その後、南に緩やかに傾斜している。その 前方には岳南平野と呼ばれる沖積平野となっ
図 6-1-1 富士市域の地形区分略図
ており、富士川扇状地(富士平野)及び浮島ヶ 原と続いている。沿岸部は、東西に細長く駿 河湾を縁どる形で砂礫州(田子の浦砂丘)が続 いている。市域の西(富士川町との合併前は西 端)を富士川が駿河湾へと注いでいる。潤井川 が富士山系の小河川と合流して田子の浦港へと 注ぎ、また、愛鷹山系の須津川、赤渕川等が合 流し沼川となって、同じく田子の浦港へと注い でいる。富士市域の地形を概略については、図 6-1-1を参照されたい。※ 11
6.1.1.3 富士市の歴史:旧石器・縄文・弥生・古墳・
律令時代
富士山南麓周辺の愛鷹山南麓や箱根山西麓で は、3 万年前の旧石器時代に人が生活を始めた ことが遺跡からうかがえる。それに続く縄文時 代(紀元前 10 世紀から紀元前 500 年)には、旧
石器時代よりも気候が暖かくなり、より広範な 地域で採集により人々が暮らすようになった。
富士市域でも天間沢(てんまざわ)遺跡(紀元 前 2 世紀頃)などがみられる。紀元前 200 年頃 には、稲作が始まり、水田に適した低湿地に集 落が営まれるようになり、浮島沼周辺に遺跡が 多くみられる。
富士市域の代表的な古墳は、増川(ますがわ)
に所在する全長約 100 mの浅間(せんげん)古 墳(4 世紀末から 5 世紀初頭頃の築造)であるが、
古墳の埋葬者は地域の首長であることから、先 代旧事本紀の国造本紀にいう「珠流河国(する がのくに)」を支配した首長の墓であると考え られている。
大宝律令の制定(701 年)による律令国家の成 立により、富士市域の大半は、駿河国富士郡に
「富士市の都市計画 2002」p3 所載の図を基に加筆 原典資料は「富士・愛鷹山麓地域環境管理計画」
富士川町との合併前の資料につき、旧富士川町域は含まれていない
含まれることになった※ 12。この時代、駿河国 は東海道に含まれ、同名の官道が整備されてお り、元吉原地区には駅伝制による駅(柏原駅)
がおかれていた。郡の中心となる富士郡衙関連 施設も市内伝法(でんぼう)にある東平(ひが しだいら)遺跡や冨知六所浅間(ふじろくしょ せんげん)神社付近一帯に置かれていたと推定 されている※ 13。
6.1.1.4 富士市の歴史:武士の台頭・中世 平安時代も 9 世紀末頃になると、全国的に国 司と郡司の対立、内紛が発生し、承平・天慶 の乱※ 14などで治安が乱れ始めた。この間、地 方において、牧(まき)※ 15や荘園を管理して いた地方の有力者が力を蓄えるようになり、土 着した下級貴族を棟梁とする武士団が発生して いった。治承 4 年(1180 年)に挙兵し富士川の 戦い(同年 10 月 20 日(西暦では 11 月 9 日))で 勝利した源頼朝が、東国を制圧した後、治承寿 永の乱(源平合戦と一般に呼ばれる)で平氏に 勝利し、鎌倉幕府を開設した(1192 年(建久 3 年)実質的には 1185 年頃とも言われる)ことに より、武士の時代が始まることになる。
鎌倉幕府を開設した頼朝は、建久 4 年(1193 年)に富士の裾野(現在の富士宮市朝霧高原、
富士市大渕(おおぶち)周辺)で大がかりな巻狩 り(富士の巻狩り)を実施している。この巻狩 りの際に曽我兄弟のあだ討ちが成し遂げられ、
富士市内各所にも曽我兄弟に所縁の数々の史 跡が残されている。また、鎌倉時代には、日蓮
(1222 年〜 1282 年)が富士市岩本の実相寺に入 り(1257 年)、円珍(814 年〜 891 年)が唐から 請来した一切経を読誦し、その後、「立正安国論」
を著している(1260 年)。
戦国時代には、富士郡の地域は、今川氏、武 田氏、北条氏のせめぎ合いの地になったが、桶 狭間の戦い(1560 年)で今川義元が織田信長に 討ちとられると武田氏の支配下となり、長篠の 戦で織田・徳川連合軍が武田氏を滅ぼすと徳川 家康が支配するようになる。さらに、本能寺の 変で信長が死に豊臣秀吉が天下を制すると、家
康は関東へ移封され、秀吉の支配下に入ってい る。※ 16
6.1.1.5 富士市の歴史:江戸時代
江戸幕府は、お江戸日本橋を起点とする五 街道を整備したが、その一つである東海道が古 代と同様に富士市域を通り、吉原を宿場と定め 慶長 6 年(1601 年)に伝馬朱印状が交付された。
当時の吉原宿は元吉原地区(現在の今井から鈴 川付近、JR吉原駅付近)に置かれた(元吉原 宿)が、たびたび風水害の被害に遭い、特に寛 永 16 年(1639 年)の津波により壊滅的な被害を 受けたため、内陸部の依田橋村の西(現在の代 田原(よだはら)付近)に移転(所替(ところが え))した(中吉原宿)。しかし、延宝 8 年(1680 年)
の津波により再度壊滅的な被害を受けたため、
更に内陸部となる現在の吉原本町通りへと再度 移転している(新吉原宿)。これに伴い、海沿 いを通っていた東海道は、吉原宿の手前で海か ら離れ内陸部へ大きく湾曲して迂回することに なり、江戸から京※ 17に向かう際、右側に見え ていた富士山がこの地点では左側に見えること から「左富士」と呼ばれる景勝地となった。歌 川広重の「東海道五拾三次之内 吉原(左富士)」
の浮世絵で著名であるが、浮島ヶ原の低湿地帯 の中を中吉原宿へと細い松並木が続いている様 子が描かれている。※ 18
富士川は、洪水のたびに流路を変え水害の被 害にたびたび悩まされていたが、古郡親子三代
(重高、重政、重年)により富士川の治水工事 が行われ(1621 年〜 1674 年)、「雁(かりがね)
堤(づつみ)」が完成している。これにより、加 島 5,000 石といわれる水田地帯がつくり出され た。また、日本三大急流に数えられる富士川は、
急流で難所も多かったが、慶長 12 年(1607 年)
に角倉了以らによる開削事業により甲斐国との 交通路としての舟運が確保され、江戸中期には、
往来する高瀬舟が 300 隻を超え、江戸への廻米 輸送が盛んであった。※ 19
6.1.1.6 富士市の歴史:明治〜昭和初期
明治期に入ると、宿駅制度が廃止され、失業