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縛 之 我 芳 宗 蹄ヲ之 有 憲 問 輩ス祖 導 也 空之 猶 嘉 天 模ノ

2

有荊1J

渓 也

といっている︒

かような聖聞に対する評価は当然のことながら慧厳を中心とする増上 寺の中枢が聖同教学を基態とする位林修学の伝統を堅持する立場にあっ

たことをもの語っている︒

しかし︑こうした態勢下にあって︑これを根底から覆す事態が生じて

いたのである︒

それは観随等が

然鞭近︑有唱﹂

種学風ず畜疑ヂ祖範以為蓮門之輔

嵯尺言之過也

J

自 攻ム

と伝えて慨歎しているように︑詳しい真相は明らかではないが︑当時︑祖

範(聖問)に疑問を投ずる批判的な学風を唱導するものが恰頭していた

のである︒

慧厳は貫主としてこの事態を深く憂慮し︑祖範を護る具体的な対応策 をこうずる必要にせまられていたにちがいない︒

慧厳はこれら批判者を浬清(正邪)を混精し︑真偽を竿濫するもの︑さ

らに聖問の真意を正しくみきわめることのできない﹁僻見の徒﹂ときめ

浄土宗日常勤行式の総合的研究

第三章観随の勤行 つけているが︑﹃頒義﹄︑﹃同見聞﹄の重刻再版計画はかれらの恰頭を契機として︑その適切な護法策としてうちだされたのである︒観随等が﹁出

尊者(慧厳)護法之丹衷﹂というのはかような事情をもの語るもの

であろう︒ 於

かような結論は﹃頒義﹄等が極林教学の基盤として重視されながらも︑

実際には﹃頒義﹄の修学を通じて聖問の真精

神が確

実に把握されていな いところに︑僻見の徒を生む要因があると判断したからであり︑またそ れを学ぶにしても﹃頒義﹄の旧版(定本)がすでに組笈となり︑その原 典にふれることも難しい状況にあったのである︒

かくして慧厳は﹃頒義﹄を再版して︑広く増上寺

一山の学徒に再読研

究の機会を与え︑とくにかの僻見の徒に対してはそこに諸宗(性頓

一乗)

に超過する最上至極の浄土門(相頓

一乗)の教旨を領会せしめて︑その

僻見を正そうとしたのであろう︒

さらに︑慧厳は貫主に就任以来︑衰微化をたどっていた檀林の風儀を 憂慮し︑みずから訓諭を布達して頻りに学業の策励を促していることに 注目すると︑この﹃頒義﹄の再版計画は単に僻見の徒に対する護法策の 一環としてだけではなく︑かれらの恰頭を機に﹃頒義﹄を中心とする檀 林教学の復興恢復を期する目的も含んでいたということができよう

この﹃頒義﹄等の再版計画はただちに実行に移されたが︑

安 政 乙 卯 之 夏 貫 主 冠 誉 尊 者 以 頒 義 監 見 聞 沓 版 組 宏 伸 校 融 再 刻 之 闘 山諸子奉旨従事於此

浄土宗総合研究所

研究成果報告書l12

と伝えるように︑底本と定めた旧版がすでに組笈となっていたため︑そ

のまま重刊することが不可能だったのである︒そこで︑安政二年夏(六

月)︑慧厳は旧版に校訂を加え︑新たにこれを再版(重刻)刊行するよう

増上寺一山の学土(岡山諸子)に命じてその作業が開始されたのである︒

﹂の作業の中心は﹃頒義﹄の時以後に

丁巳

九月

穀旦

観随同誌了従 縁山輪下

とあるから︑観随・了従の二師とみて間違いない︒

このように複数の代表者(責任者)をおいた編纂︑刊行の事例は慧厳

の時代にしばしば実例をみることができる︒たとえば嘉永四年仲秋に編

纂された﹃闘山取蔵吉本捜索録﹄も徹定と了従を代表とするものであり︑

また元治元年十二月に刊行された﹃重刻往生要集義記﹄も実は慧厳に

よって企画されながら在世中に実現できなかった事業であり︑闘誉教音

(第六十七世貫主)がその意志を継承し︑大雲︑雲一瑞︑玄信などの三

師を

作業の総督として結実したものなのである︒

これによって慧厳時代の大規模な編纂刊行はいずれも複数の責任者を

おいて実行されたことが窺えるが︑いま︑﹃頒義﹄等の再版が観随・了従

の二師を代表者としていることはこの事業の規模の大きさを物語るもの

である︒

二師のうち︑観随は先述したごとく︑長く貫主慧厳の御代役者(所化 役者)をつとめて信頼も厚く︑この事業が発起された時点ですでに学頭職になった学匠であり︑しかも年齢的には了従より七歳の年長であったことなどを考慮すると︑まず観随が代表者として命旨をうけ︑その作業の規模と実績から了従が補佐役的に責任者として加えられたものと推せら

れる

その眼誉了従(一八一七

1

一八六五(隠居

﹀ )

の詳しい伝歴は殆ど明ら

かではないが︑まず︑先記﹃捜索録﹄に了従寮の名があり︑嘉永四年の

時点ですでに自寮を保持していたことが知られる︒また安政五年二

月 ︑

同六年四月の頃には増上寺山内︑袋谷(学寮)の谷頭︑万延元年十月の

頃には大衆頭をつとめ︑文久二年の時点では月行事職にあった︒その後︑

同年十一月三日︑了従は越前︑運正寺住職として進董︑慶応元年五月十

八日︑病に臥し同寺を弁察に譲って隠退している︒

かような経歴をもっ了従が観随を補佐し︑責任者の一人に加えられた

のは勿論︑多才な能力と業績が認められた結果であろうが︑とくに徹定

とともに﹃捜索録﹄の編纂に当り︑その調査︑考証に果した業績が高く

評価されたのであろう︒

ともあれ︑観随・了従を中心にいわば再版作業スタ

ッフ が

編成された

ことは想像に難くないが︑散見する資料の中から作業に参画したものの

分担を探ってみよう︒

まず︑了従は﹃頒義再板諸入用覚﹄によると︑再版作業の世話役をつ

とめ︑とくに校訂を担当し︑自ら校訂上の凡例﹁五則﹂を規定している︒

また︑安政二

年六月︑年番の善法に対して自記した﹁頒義校合入用語取

帖﹂

を提出しており︑併て︑経理会計の役をも担当していた

その了従を支援したのは同じく再版作業の世話役でもあ

った了湛であ

る︒

その動向伝歴は全く不明であるが︑この作業で

畳の表替に当った記

録等から推すれば校正の作業場︑あるいは版木の収蔵庫等の諸設備の整 備に当ったものと推せられる

この外︑この校訂作業には明脱律師なる僧が参加しているが︑作業で

の立場︑伝歴も明らかではない︒しかし︑この律師に対し︑作業開始の 当初から︑完成時に至るまで︑長期にわたり︑特別の手

と謝礼が支払 われており︑校訂作業の専従

責任者だった可能性が濃い︒

また︑後述するごとく︑安政四年版﹃頒義﹄の巻頭にはまず︑著者︑聖 問の肖像がおかれ︑ついでその略伝が﹃

了誉上人伝

﹄として併載されて

いるが︑その﹃了誉上人伝﹄の撰述を担当

したのは養麟徹定だ

ったので

ある︒くわしくは後

においてふれたいと思う

なお︑岩崎成

( 羽

城僕)は版木のもと字を謹書している

校訂作業は順序として︑まず﹃頒義﹄の底本を選定する作業から開始

されたであろう︒

いま︑現時点で知りうる安政版以前の諸版をふりかえると︑慶長十四

年恥 )

をはじめ︑同十七年版︑寛永五年版︑寛永七年版︑寛永九年版︑慶

安四

年版

文十 一年版などが知られるが︑このとき︑底本として選定 されたのはいずれの版本だったのであろうか

浄土宗日常勤行式の総合的研究第三章観随の勤行

そこで︑安政四年版に掲載されたものの配列次第を示すと

了誉上人肖像

讃 頒

了誉上人伝(安政四年九月竺徹定謹撰)

南 渓

凡例五則(了従識)

五 序文(天正庚辰

安誉虎角作)

本文(釈浄土二

蔵頒義

H三

十巻 H)

後序(寛永庚午(七年)釈魯頑)

故後(観随了従同誌)

八 蔵 板 印

(一二縁山蔵板)

(安

政四

年九

月・

・・

・・

・)

刊 記 となっている

︒これによって︑観随等は本文の前に虎角の序文︑後に魯 頑 人

(霊

厳)の後序をもっ︑寛永七年版︑あるいはそれを重刊した寛永

n ‑

九年版を底本として選定したことが知られるのである

︒どうやら観随等 は寛永七年以前の諸版の存在を知らなかったらしい

作業はさらに選定された底本に対する校訂に移ったが︑観随等が

ぎ国 民 肝顕山桔麟纂輯

臥妙瑞公之講本町注解詩文

ヲ疏通静疑

ヲ因

嬢之参佼彼比弁折正同

鉛葉

市宇

乳・

・:

というように︑校訂はとくに明顕山(祐天寺)の祐麟が著した﹃頒義﹄の

浄土宗総合研究所研究成果報告書2

注疏を所依としてすすめられたのである︒

この貌誉祐麟

( 1

一八

五三)の事歴は﹃祐天寺誌日 vの記載の外は殆ど

知られないが︑多少補足することができる︒

祐麟は山城国下久世木村の出身で︑知恩寺五十四世︑順誉祐水につい

のちに勝願寺三十五世︑潮誉香堂

(1

一八

二二

)の資となvh

心と称した︒文政二年二月の頃には増上寺山内︑袋谷に自動 ︼をもち︑の

ちに幹事職にすすんで祐麟と改名した︒文政十年七月晦日︑天従の退役 て

得度

にともない︑第六十世貫主︑宝誉顕了の御代役者(所化)となり︑同十

二年九月廿七日︑目黒︑祐天寺第十世として進輩︑天保年問︑開山祐天

以来︑四世の嗣法沙門として伝法の相伝に当るなど︑二十数年にわたっ

て住職をつとめ︑嘉永六年十月十一日に入寂している︒

この祐麟が著したという注疏は証誉雲臥(一六四二1一七一

O )

や性

誉妙瑞

(1

一七七八)等が講じた講本を纂輯し︑諸文に注解を加えつつ︑

群義を疏通したものと伝えているが︑現存しない︒しかし︑それは当時

の学匠の問で権威ある﹃頒義﹄の注疏として認められていたにちがいな

E

なお︑現時点では祐麟が纂輯したという雲臥︑妙瑞等の講本も知りえ

ないのであり︑妙瑞については

﹃頒

義﹄

に関わる講本が存在したという

記録も見当らない︒しかし︑雲一臥は﹃頒義底本﹄を修成し︑また﹃頒義

Am抜率﹄を刊行したと伝えられ︑現に同名の諸本も存在しているが︑未だ

雲臥のものとして確認するに至っていないのである︒ なお︑正大図書館には雲臥が東漸寺において︑元禄三

(一

六九

O )

月朔日から同年十月十三日に至る問︑首尾九十一座にわたって講じた講

本の書写本が﹃二蔵頒義引文解釈考﹄として所蔵されているが︑あるい

はこれが祐麟の纂輯した雲臥の講本中の一本だったかも知れない︒

再版作業は校正をおえると︑版下の文字が浄書され︑さらに版木の彫

刻︑摺立(印刷)︑装漢(製本)と進展し︑やがて安政四年九月付をもっ

て﹃

頒義

三十巻(十五冊合帳)︑﹃同見聞﹄八巻はそれぞれ百部ずつが

刊行の運びとなった︒

再版作業の所要期間は先述したごとく﹁凡三換褒葛卒業﹂とあるよう

に︑安政二年六月開始以来︑凡そ三ヶ年に及んだというが︑正確には二

十九ヶ月(

二年五ヶ月)であった︒しかし︑﹃頒義再板諸入用覚﹄による

と︑収支決済をふくめて︑全ての作業が完了したのは安政四年十二月の

ことであり︑実際は三十二

ヶ月

二年八ヶ月に及ぶ長期の作業だったの

であ

る︒

しか

らば

二年八ヶ月に及ぶ長期の時間をかけて完成したこの﹃頒義﹄

等の再版に要した諸費用はどれ程だったであろうか︒先記︑﹃頒義再板諸

入用覚﹄によると︑版木の彫刻費﹁金武百九十九岡武朱︑銀五十六文﹂︑

摺立費(印刷)

﹁ 金

六拾八両六分武朱︑銀武文目五分﹂︑その他︑校合費

をはじめ設備費(畳替︑蔵板蔵等)︑明脱等への人件費(謝礼)などを合

わせると︑その総額は実に

﹁金

百九拾九両壱朱︑銀武百八拾七文﹂に

のぼる巨額の資金が投じられたのである︒

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