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九 ︑

ドキュメント内 真宗研究26号全 (ページ 167-199)

日 晴

伝久寺は元天台宗で︑蓮師が金森在留の頃は法敵であったと伝う︒草津を出て大津鳥居川に至り﹁逆縁切地蔵﹂の

石碑ある古市民宅に寄り更に大津別院を目ざして進んだが︑市内の交通はげしく︑御枠の車遅々として進まず︑漸や

く瀬田大橋を渡り別院に到る︒三井寺の山腹に在り︒南別所近松の里︑満徳寺内顕証寺が現在の別院である︒上人御

一代

中︑

最大

の御

心労

を偲

ぶ︒

正午前︑別院を発って蝉丸神社を右に旧逢坂の闘を越え山科に向う︒車の雑踏いよいよ繁く︑午後一時漸ゃく山科

別院に到る︒蓮師終鷲の地であり乍ら︑期待に反し御堂の彊は落ちシlトを以て被う︒庫裡も亦荒涼︒その故を知ら

odL

九 ︑

昼食を終え︑午後三時過ぎ最後の難所花山洞︿東山トンネル︶を通って京都に下る︒河原町より烏丸に出て無事東本 h v

願寺に到着︑時正に午後四時三十分であった︒大寝殿で御影腰延べの儀を終て一同黒書院で旅装を解く︒蕊に二百余

キロ八十ケ所に立寄り九日間の供奉は滞りなく終了した︒

蓮師かくれまして四百八十有余年︑その後延宝の昔より毎年吉崎に往復されること三百余回︑道中結縁の人幾十万︑

正に慧燈大師である︒上人は今も生きておられる︒

一 六

蓮 師 の 道

一 六 蓮師の影像と吉崎御思の由来

この影像は一名﹁身替りの御影﹂と呼ばれ︑上人が文明︵一四七五﹀七年八月︑吉崎退去の際塩屋で見送る守護方十 二人の懇請で遣されたものと伝えている︒そして十二人講の坊主を勤めていた金津町六日の︑氷宮寺が預かり延宝年間 まで保管していた︒しかし延宝五年七月︑東西本願寺の争論起り︑永宮寺が十二人講の坊主を罷めてから御影は東本 願寺へ納められたとなっている︒その後毎年三月に京都から吉崎へ下向して御忌を催すようになったが︑やや降って

東本

願寺

七代

の従

如上

人の

時︑

士口

崎の

門侶

から

︑元

の︑

氷宮

寺預

りの

御影

を賜

りた

いと

の強

い要

請が

出た

ので

︑別

の一

幅を下賜したと云われている︒御忌は初めは三月に三日間行われたがその後十日間となり今日に及んでいる︒その盛 況は昔には及ばないが︑初日︑中日︑終りの日は門前市をなし︑東西両別院共昼夜参詣人で一杯である︒特に山上の

旧御

堂跡

は史

跡指

定地

とし

て保

存さ

れ︑

金津

町で

は︑

﹁蓮

如の

里﹂

を計

画し

︑そ

の充

実に

努力

中で

ある

J 内︑

Jr

蓮如影像吉崎下向上洛図

下向(京都→吉崎)道Ji

@は宿泊

師 の 道

上洛時の宿泊所①福井市東別院②武生市︵円宮寺︶

。板谷

一一一上洛(吉崎→京都)道順

一 六 一

戦国

期木

願寺

にお

ける

﹁頭

﹂考

二ハ 四

戦国期本願寺における﹁頭﹂考

ll

勤仕の性格と問題情況||

早 早 島 主 有 す 毅 き

室町戦国期の荘園文書や公家・寺家の日乗︑あるいは幕府の引付記録などを見るとき︑頻繁に登場する名称の一つ に頭あるいは頭人という言葉がある︒荻原龍夫氏の指摘によれば︑頭とは元来儀典つまり祭組儀礼を表象する言辞で

① 

あり︑中世荘園制社会にあっては頭役という如く︑ある種の﹁負担﹂を随伴する行為の概念にあったといわれる︒管

@ 

かかる頭の使用例には荻原民の指摘以外の意味もあると思われる 見の範囲で戦国期の荘園文書などを検索する限り︑

が︑しかしこと︑祭肥儀礼に関連する際にはそうした負担的行為を象徴するケ

l

スが 本基 的に 確認 きで ると いえ る︒ その限りにおいてではあるが︑頭とは中世荘園制社会の宗教的な負担の行為を表象する名称の一つと把えられてよい

であ

ろう

︒ ところで︑戦国期本願寺の記録や文書などを詳細に検索すると︑ここにも頭あるいは頭人といった言辞が散見する のである︒これは︑後述する如く︑斎を中心とした仏事に特定集団の坊主・坊主分を上番せしめる語として使用され

ていたのである︒だが︑従来の本願寺の頭に関する研究は︑その存在について注意するものがままあるものの︑

③ 

一挟や真宗史の個々の課題に連関して部分的に言及されていたに過ぎない︒そこでかかる研究の進捗情況と与えられ

向 た紙幅を考慮し︑小稿では以下の二点に問題を留め︑中世荘園制下の頭との関連のもと若干の論点を提示してみたい︒

それは︑頭を勤仕せしめられた一向衆集団と本願寺との歴史的関係︑上番する集団の職務内容の推定を通して頭勤仕

の性

を格

考察

する

こと

であ

る︒

で は

︑ それに先立ち問題の所在を明確にするため︑天文期を中心とした一向衆集団の 勤仕情況を概観し︑対象となる仏事との関連性について一瞥しておこう︒

団名

を﹃

天文

御日

記﹄

後掲

の別

表は

﹃私

心記

天﹄

文五

年︵

一五

一三

ハ﹀

各月

に窺

える

本願

寺の

仏事

を抽

出し

@ 

︿以

下﹃

日記

﹄と

略す

﹀か

ら抜

きだ

して

みた

もの

であ

る︒

そこ

へ天

文年

中︑

斎勤仕の集

天文

期本

願寺

にお

ける

仏事

とは

︑ 通 例

﹁御

斎︑

汁二

・莱

六・

茶子

五種

O

日中如常﹂とある如く︑朝の斎会・日中の勤行が揃った行事が基本の様式であり︑

⑤ 

それに前後の逮夜勤行とまれに﹁有風目﹂と記される通り︑功徳湯が加えられる場合もあったと見られる︒就中︑斎

佐々

木孝

正氏

の指

に摘

よれ

ば︑

@ 

くらい比重の高い﹁共同飲食﹂の場であったのである︒ちなみに別表掲載の斎は︑吋私心記﹄天文三年︵一五三四︶二 月二十日の条に﹁御斎︑初市アリ︑汁二・莱三︑自今日御斎アルベシ云々﹂とあるので︑二月二十日の円如祥月思日

@ 

の仏

事を

契機

に再

開さ

れた

もの

であ

る︒

天文

元年

︵一

五一

一一

一一

︶の

山科

本願

寺の

回禄

後︑

細川

元晴

政権

との

抗争

が小

康を

は仏事の様式にあって最も重視される行事であり︑

天文期の仏事H斎と認識される 保ち︑大坂石山本願寺移転後の体制がようやく目鼻がついた時点で本来の行事が勤められるようになったのであろう︒

さて

︑ 一向衆集団の勤仕情況を別表で窺うとき︑関心を呼ぶのは相互に絡みあうこつの形式的特性が摘出できるこ

戦国

期本

願寺

にお

ける

﹁頭

﹂考

一六

戦国

期本

願寺

にお

ける

﹁頭

﹂考

一六

とである︒その一つは︑毎年勤仕する集団の斎が一定の仏事にのみ限られていたことである︒この仏事とは毎年十一

月に修される親鷺報恩講︑覚如・緯如・巧如・蓮如の命日忌日︑さらに親鷺・実如の毎月の命日忌日の三形態の法会

である︒これらの法会はいわば宗祖親穏と代々の宗主の法事であり︑当該期本願寺において浄土教の祖師たちよりも

如何に親鷺以下の﹁血の道﹂が宗教的に重視されていたかを物語るのであるが︑それはともかく︑以上の限定的関係

が天文期のみの現象でなかったのは留意されるべきである︒例えば︑

﹃空

善聞

書﹄

明応

四年

︵一

四九

五︶

一月

十九

日の

覚如

忌日

に際

し︑

当年ヨリヒソヤカニ御仏事ヲ御沙汰アリタキトノ御事︑頭人ハマへノ日ノボリテ︑

@ と蓮如の指示があったと伝えており︑さらに毎月両度の忌日についても︑

ツキ

ノ日

下ル

ヘシ

ト御

定ア

リ︑

﹃本

福寺

跡書

﹄に

は︑

去程−一東山大谷殿様ニテ︑毎年五月二十八日ノ御開山聖人様ノ御頭ヲ︑往古ヨリ退転ナクツトメ行申ス︒

⑤ 

とあり︑以上の関係が戦国期当初から続けられてきた事象といわざるをえない︒ただ注意されるべきは︑歴代宗主の

忌日仏事のうち如信・普如の仏事に勤仕の集団が定められてなく︑

存如

の仏

事も

天文

五年

︵一

五三

六︶

から永禄元年

︿一五五八︶まで修されていないことである︒両者の問題については︑頭勤仕する一向衆集団と本願寺との関係そのも

のに触れると思われるので︑後述されよう︒

もう一つは︑別表で見る限り上番する集団の斎がそれぞれにおいて定まっていたことである︒報恩講七日間の斎・

非時

勤住

の集

団に

つい

ては

﹃日記﹄には存在が窺わせるものの上番表が未発見のため︑別表で見られる如く分明に

し難

い︒

だが

﹃日

記﹄

十三

年︵

一五

四四

︶十

一月

二十

四日

の条

に︑

十年

以降

のこ

とで

あろ

うが

︒奈良木宗寺門徒中︑廿五日非時之頭事︑闘怠之由凶︑然者如先々相勤度之通︑望之に︑

⑪ とあり︑上番期日の指定がやはり集団ごとにあったと推定される︒歴代宗主の忌日斎についても︑

一例

を三

月二

十五

日の

蓮如

命日

に取

ると

﹁今日之斎︑如毎年六町よりつとめり﹂とある通り︑大坂石山寺内六町より勤仕されていた

ので

ある

︒ ちなみにいえば︑山科本願寺にあっては︑山科寺内八町より勤仕されていた︒

さらに︑天文十年︵一五四一﹀に至って勤仕集団の分離と一部差替︑新たに一家衆寺院を含む集団の補強といった事 象の見られる毎月両度の忌日を勤める集団にあっても︑この原則は堅持されていたのである︒十年以降の新規集団に ついてはさておき︑九年まで一一一月二十八日の仏事勤仕集団大和衆を典型として検討すると︑そのことは以下の如く如 実に理解される︒すなわち︑別表に示したように九年まで大和衆を構成していた曽称衆︑百済衆︑吉野衆の集団は十

⑪ 

年より証如の申付けにより分離し独自の頭集団となるが︑

これらの勤仕する仏事は三月二十八日︑

十一

月二

日︑

十 二月二十八日という如くなっており︑決して毎月両度の忌日の仏事の範囲を逸脱していなかったのである︒

かかる例

は︑九月二日の忌日勤仕の西美濃衆が十年以降において性顕寺を中心とする集団と西円寺を中核とする集団に分割せ

しめられたケl

スに

おい

ても

︑別

表の

如く

一貫

性を

保持

する

ので

あっ

︒た

以上の勤仕情況から判断するとき︑頭勤仕とは特定の一向衆集団それぞれが歴代宗主の三形態思日に上番せしめら れ︑斎を旨とする仏事において何らかの宗教的職務を遂行する性格にあった︑と予測できるのである︒

ただ別表で解

される如く︑特定の勤仕集団の分布地域がどうして天文九年まで畿内とその周辺諸国に限定されていたのか︑あるい は十年に至ってその地域が両度の忌日集団に限って何故拡充されたのかについては︑別に考察しなければならない問

@ 

題があると考えられる︒それで︑ここではとりあえず留保しておこう︒次に職務内容究明の前提として︑以上の勤仕 集団がなぜ定まった仏事へ上番せしめられたのかについて︑想定しておく必要がある︒

国戦

期本

願寺

にお

ける

﹁頭

﹂考

二ハ

ドキュメント内 真宗研究26号全 (ページ 167-199)

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